八節:ホテル
コチコチと細い針が小刻みに動き、時折、短い針も進ませる。
その前に座る生徒達の視線が机のノートから黒板、そして左上にある時計へと忙しく移っていた。
黒板から鳴るチョークの音が止まり、男の声が響く。それを合図に、生徒達はガタガタと机から音を出し始めた。
男の目が腕に巻かれた時計へと向けられる。同時、チャイムが鳴り響き、男の声の後、一人の号令が続いた。
片手に教科書とノートを持つ生徒が廊下へと流れ出る。それに続くようにして、葉月も教室から出てきた。
長い廊下を歩き、一階へと降りる階段へと足を進める。
「葉月」
ふと後ろから突然声がかかる。振り返るとそこには吉岡の姿があった。
「あっ」
葉月の視線が顔、そして右手へと移る。吉岡の手には黒の手提げバッグが握られていた。
「もしかして次移動?」
「はい、音楽室へ……でも、まだ時間がありますし、大丈夫です」
一段降りていた階段を上がり、吉岡の元へと近づく。
「あの……それ……」
葉月の視線が再びバッグへと向けられる。
「ああ、これ揃ったから渡そうと思って……」
吉岡が手にしていたバッグを葉月の前へと出し、中を広げた。
そこには数枚の写真やアルバムのようなものが何冊か入れられていた。
「中に紙挟んであるから。私の知っているだけの人の名前とか色々書いてある」
「あ、ありがとうございます! 助かりました!」
葉月は吉岡に一礼し、バッグを受け取った。
「それですぐに見つかるといいんだけどね……あと、返さなきゃいけないから、そのできれば早めがいいんだけど……」
「すぐにお返しできると思います。ですが……あの、こちらの無理をお願いするのですが、もし必要な写真が見つかった時はお借りしてもよろしいでしょうか? 時間は結構かかると思うのですが……」
「……まあ、なんとか言ってみるわ。ちゃんと返せるなら、許してくれると思うし」
「ありがとうございます! たぶん一枚か二枚だけ必要になってくると思うので……お返しの時は私も……」
「いや、いいわよ。話がややっこしくなるだけだし、私だけで……それじゃね」
吉岡が片手をふり、振り返る。
「――っと」
何かに思い出したかのように吉岡が突然、足を止めた。
葉月の方へと振り返り、再び近づく。
「そういえば今朝、優美と話してたみたいだけど……」
「はい、少し頼みたい事がありまして……」
「頼みたい事?」
「はい、……それほど大した事ではないんですが、私では難しいので……」
「そう……。まあ、少し気になったから、突然聞いてゴメンね」
「いえいえ……」
「……そういえば葉月って私の番号知ってたっけ?」
「いえ、……そういえば聞いていません」
「学校に来れば会えるもんね。……これ」
ふと差し出される一枚の紙。葉月は握っていたバッグを肘の所までずらし、手に取った。
「それ、私の電話番号。写真返してくれる時に渡そうと思ったんだけど、もし都合で渡せなかったら困るしね」
「えっ、ああ、ありがとうございます」
「もし、今のが嫌になったらいつでも言ってね。お金は安いけど、色々経験できて悪くはないから。……私からも電話するかもしれないし、ね。それじゃねまた」
返事を聞く間もなく、吉岡は背を向け、その場を離れていった。
葉月はその後姿を消えるまでただ見続け、そして階段を降り始めた。
―――――――――――――
陽が傾き、辺りがオレンジ色に染まる。
部活を終えた生徒が校門から次々と出てくる。その中に、話をしながら歩く三人の女子生徒がいた。
「――でもさ、……あっ?」
ふと目の前に立ちふさがる二人の女。
三人は立ち止まり、その二人をギッと睨みつける。
「なに? だれ?」
一人の女子生徒の言葉に、左の女が軽そうな口ぶりで返した。
「いや~、ごめんごめん。途中で止めて悪かった。いや、少し聞きたいことがあって」
歩き近寄って来るたびに、背中で銀色の髪がなびく。
「ほら、そんなに長くないからさ、どこか近くの店で話さない」
女子生徒の肩に手を置き、三人により聞こえるように顔を耳元へと近づける。
「ちゃんとお礼もするしさ、ね」
女の口元が少しだけあがった。
―――――――――――――
暗闇が辺りを包む。しかし、その場所を光り輝く人工の明かりが吹き飛ばしていた。
人々は声を高らかと上げ、笑い声を散らばせている。
その人混みに隠れるように、二人の男女がひそひそと歩いていた。
手を繋ぎ、どこか恥ずかしそうにしながら、人を避けるように角を曲がり、薄暗い路地へと急ぎ足で入る。
表とは違い、裏は暗く、幾つものネオンの光が誘うように怪しく光っていた。
二人は肩を寄せ合いながら、しばらく歩き、一つの建物へと入っていく。
薄暗い天井に赤の廊下。左側には様々な部屋の内部を映した写真が貼られている。
男が一番下の右端にある、赤のベッドが映されている写真を指差した。
受付へと近づき、写真の左端に書かれた番号を伝える。
「ゴーマル、ロク……で、お願い……します」
受付の小さな窓口からすっと一枚のカードが出される。
男はそれを受け取り、手を繋いでは近くのエレベーターへと乗り込んだ。
狭い空間の中、機械の動く音しか聞こえない。
ドアが開き、目の前に赤い絨毯が現れる。二人は導かれるようにそれを辿り、足を止めた。
ずっしりと重みのある黒いドアが二人の前に居座る。頭の上には五零六と数字が書かれ、ノブの上にはカードを通す機械がつけられている。
男はドアにかかれてある数字をじっと見つめながら、喉を一度動かせ、右手に握っていたカードを機械へと通した。
ピッという音が鳴り、赤のランプが緑へと変わる。
男がドアを開け、二人が中へと入っていく。
残されたドアは二人の後を追うようにゆっくりと動き、そして音を上げ閉まった。
―――――――――――――
「来ましたね」
「ああ」
壁際に置かれた机の前に麻祁と葉月の姿があった。
二人は片耳にそれぞれイヤホンを付け、目の前に広がるテレビの映像を食い入るように見続けていた。
映像の中で動く二人の姿。一人は辺りを不審そうにキョロキョロと目を散らばせる龍麻と、その後ろで顔を下げて続く一人の女性がいた。
龍麻はすぐ目の前にあるベッドへと近づくと、手を招き、後ろから付いて来ていた女性をその場所へと座らせた。
画面の右上では忙しく動く時間が十三分を過ぎるも、少しばかり距離を離す二人の背中は動く気配を見せない。
同じく、画面と睨み合っている二人もその場から動かずにいた――が、先に動いたのは葉月だった。
「……なんですか、これ。静止画ですか?」
呆れたような口調でそう言った後、曲げていた腰をあげた。
「まあ、積極的にするよりかはいいかもしれん。……だが、背中ばかり映した所で価値はないな。顔を見せてくれればいいんだが……」
「あの状態なら何かきっかけがない限りは動きませんよ、きっと。呼びかけてみます?」
葉月の言葉に麻祁は首を横へと振った。
「こちらが見つかることはないと思うが、あまり強気の行動は控えたほうがいい。……カメラの位置が問題だな」
「仕方ありませんよ。反対側に付けるにはコードが目立ちますし、何よりそんな大がかりな事をする時間もありませんでしたから、部屋を借りて一つでも設置できるだけ大きな成果です。後は役者と運次第ですよ」
「役者と運か……」
二人の視線が再び画面へと向けられる。――映される二つの頭は今だ動かない。
―――――――――――――
「えっ!? 俺が!?」
龍麻が一人驚き、立てた親指を自分にへと突き立てる。
「ああ、お前が、だ」
麻祁が平然と、立てた人差し指を龍麻へと倒した。
「なんで!? なんで俺なんだよ! 他にもいるだろ、俺じゃなくても!」
少し早まる言葉に、麻祁はそれを制するように問いかける。
「じゃ、誰がいるんだ。紹介してくれればそれでいい」
「だ、誰って……」
一瞬で勢いを落とされた龍麻は目を左へと下げ、言葉を探し始めた。
「だ、誰かを雇うとかできるだろ? 別に俺じゃなくても、別の知り合いとかさ」
龍麻の答えに、麻祁は目を合わせることなく、握っていたリモコンでチャンネルを変え始めた。
「だから誰だよ。私にそんな事を頼めるよな知り合いがいると思うのか?」
「いるだろ一人ぐらい! 変わった依頼をいくつも受けるんだからさ……ほら、な」
「だから、その適任がお前だって言ってるんだろ? 他に誰がいるんだ? 名前さえ言ってくれれば私も納得して話をしに行ってくる」
「ッチ……な、名前たって……」
「適当でもいいから言ってみ」
「適当? ……んああ、えぇーっと……たなべよしひさ……とか」
「あいつは去年死んだ。次は?」
「次……さとうゆういち」
「あいつは一昨年死んだ。他は?」
「ええっと、よしだえいじ」
「誰だそいつは? 紹介してくれ」
「いや、俺も知らない……って、最初の二人はいるのか本当に!? あーあー、もうこれだよ。どうせ嘘ばっかり! 何言っても無駄だよこりゃ!!」
すべてを諦めたかのように、龍麻は大きなため息と共に体をベッドへと倒した。
「そんなに嫌なのですか?」
ふと上から聞こえてくる葉月の声に、龍麻が体を起こす。
同時、葉月が麻祁の向かい側へと座り、手に持っていた皿を置いた。
三人の囲む机の上に、リンゴの甘い香りが広がる。
「大役だと思いますよ。他の誰にもできないのですから。ここで受けて、見事成功させれば、一気に信頼も得られますし」
「信頼って……えっ、信頼って?」
リンゴに刺さっていた楊枝を掴む手が止まる。
向けられる龍麻の視線を葉月は気にもせず、楊枝を掴み、リンゴをかじった。
「そもそも男なら誰もが行くのですから恥ずかしい事はないでしょ? それにただ話をするだけでいいんですから」
「話したって……全然知らない女子と行くんだろ? 何を話せばいいんだよ? 一緒の高校に通ってるならまだしも、別の高校なんだし……」
「そこらの近所の人と話すような感じで、世間話でいいんですよ。今日、学校はどうだった? とか、相手の好き嫌いとか、各段変わった相手ではないんですから。そもそも、私達と初めて話をした時なんて、それほど無口ではなかったのにどうしたんです、急に? 思春期?」
「なんだよそれ、思春期って……。初めて話すんだから当然だろ? 何か目的があったりとか、何かを一緒にやっていて、その時に話すなら別にいいんだけど、突然会って話をするってどんな事話していいのか分からないだろ? そ、それに……さ……」
突然、言いずらそうに龍麻が口を曇らせた。次の言葉を察した葉月が口にする。
「――ホテル」
「そ、そうだよ。それに食事とか……一体何を話せばいいんだ?」
「確かに悩むのもわかりますが、そう身構えるほどでもありませんよ。以前、腑抜けたナンパ君を演じたように、今回もただお喋りをしに行くだけなんですから、別に深く考える事じゃありません。だいたい、私達と初めて会話した時だって、その『初めて』だったんですよ? 今では、ほら、こうもお喋りが出来てるじゃないですか」
「それはお前たちが無理矢理な所があったからだろ!! ええっ? 一人は足を撃ってくるわ、もう一人は突然口に血を擦り付けてくるわで! まともな最初じゃないだろ!!」
「なら、なおさら心配する必要はないな。突然銃を撃ってくることも、突然鮮血をぶちまけてくることもない。ただ話すだけでいい、それで終わりなんだから」
「ぐっ……」
その言葉に龍麻は顔面に拳を喰らったかのように口を歪ませた。
「最後のホテルに関しても、ただその場所まで連れてくればいい。後は……そうだなシャワールームにでも行ってガタガタ震えながら隠れていればいいよ。それで役目は終わる」
麻祁がリンゴを手に取り、シャリシャリと歯を立てる。
「ガタガタって……なんだよその言い方……。でも、本当にそれだけでいいのか?」
「ああ、話す会話も適当な感じでいい。あくまで自然に、あくまでも自分らしくでいい。妙に気取ったような態度を取られると失敗に終わるかもしれないからな」
「……気取ったって……そんな気分にはなれないけどよ……なんか不安だよな……」
「私は、以前見た君の演技力に期待して、こう頼んでいるんだよ。他の人じゃああも上手くいかないからな」
「あのあと散々バカにしてただろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「まあ、これでやっとこの事件も終わりを迎えるかもしれないんだ。頼りにはしているよ」
「……はぁ、やるしかないのか……」
半ばあきらめたかのように、龍麻はため息をついた後、皿へと手を伸ばした。
肌に伝わる冷たい感触を掴もうとしたとき、それがするりと抜けた。
「あれ?」
一瞬逸らしていた視界を皿を捉える。――リンゴは麻祁の手から口へと運ばれていた。
皿にはもう何も残されていない。
「はぁああ……」
一人肩の力を落とす龍麻を余所に、麻祁はじっとテレビを見つめたまま、もくもくと口を動かし、近くにあるティッシュを取っては手を拭き、話しを始めた。
「それじゃ明々後日の予定を順を追ってまとめる。……私が言うよりも、動く本人が確認しながら言ったほうがいいな。段取りどこまで覚えている?」
麻祁の問い掛けに、龍麻は頭の底から記憶を掘り出すかのように、肘をついた手で額部分を擦りながら答え始めた。
「えーっとたしか……、まずその子と会うために豊中の駅前に行くんだろ?」
「そう、時間は?」
「六時……?」
「七時だ。七時前に豊中の駅前の……」
「ドーナツ屋……えぇーっと……」
「ヘリュックの前。相手の髪型は?」
「長髪だろ? でも、見ただけで分かるのか? 初めて会うのに」
「場所と姿さえ合っていれば大体の目星は付く。それに、こちら側の服装も伝えておくし、店に入らずその前でずっと立っているんだから、互いの対象は限られてくる」
「へぇー、で、その子と会ってその後は予約している店へと向かうと」
「ああ、食事の際はなるべく姿勢を低くして、その子の注文を優先的にとればいい。あとは、その子が腹いっぱいになったら次の場所だ。葉月、地図は?」
「これですね」
葉月が雑誌ぐらいの大きさの地図を出し、机の半分を埋めた。
広げられた地図には幾つもの線が走っており、街を形を作っている。
『豊中駅』と書かれた場所に指先が被さる。
「ここが待ち合わせの場所。そこから真っ直ぐと歩き、ここが予約してある店です。その後、この角を曲がり裏道へと出て、ここが最終地点です」
「ホテルは受付に声をかければ鍵を貰える。番号はゴーマルロクだ」
「ゴーマルロクか……。それでその場所で……」
「部屋に入ったら、後は自由にしていい」
「自由って……別に俺は、その……何もしなくてもいいんだろ?」
「ああ、話をするだけでもいい。適当に会話をしながら、シャワー室へと向かえ。服は脱がなくてもいいから」
「なんでシャワーに?」
「そういう素振りも見せておかないとな。一応それなりの目的で来たんだし」
「その後はどうするんだ? 入った後は」
「風呂などの用意をして水の音を出せ。シャワーを流すだけでもいい。その後は私達が指示をする」
「連絡用としてイヤホンを付けてもらいます。それでいつでも私達の声が聞こえるようになります」
「こちらが一方的に伝えるから、そちらからは何も言わなくていい。もし妙に受け答えなんてしている姿を見せたら、ただただ気味悪がられるだけだからな」
「……それは嫌だな」
「室内はカメラを設置しておくから安心しろ。何かあったら隣の部屋に私がいるからすぐに駆け付ける」
「隣の部屋に? ……カメラって……勝手につけていいのかよ?」
「ホテルの経営者とは話をつけてある。部屋で何かがあった時はその修理代もこちらが負担することでの取引だ」
「本当に大丈夫なのかよ……。一応その、殺人鬼なんだろ? もし入った瞬間襲われたら……」
「その可能性もある」
「ええぇ……」
「だが、心配はするな。息の根を止められる前には私達が入る。運が悪ければその時はその時だ」
「な、なんだよそれ! よけいに不安になるだろ! 嘘でもそんなことは起きないとか言えないのかよ」
「下手な気休めなんか助言にした所で仕方ないからな。可能性は可能性だ。できるだけ最低限、最悪の状況の事は想定しておかないと。覚悟をするのは私じゃなく自分の心、その身を守れるのも自分だけだ」
「……っ、よけい不安になってきた……」
「すぐに駆け付けますから大丈夫ですよ。自分の運を信じてください」
「ああ、やっぱ運なのね……」
「何かが絶対に起きるわけではない、もしかすると何もないまま終わる可能性だってある。その場合は、こちらから切り上げを伝えるから、すぐにその場から出るんだ。『用事が出来たからごめん』と言って封筒を渡してから退室しろ。また後日、接触する」
「俺が襲われるまでやるって事ね……」
「ああ、そうでなければする意味はないからな。……よし、お返しというわけではないが、せっかくやってくれるのだから、私も少しばかりの犠牲を払おう」
「犠牲? 何かしてくれるのか?」
期待を胸に膨らませた龍麻が麻祁に顔を向ける。
腰を上げた麻祁は机の端へと追いやられていた皿を持ち上げて、台所へと向かった。
「皿洗い」
消える後姿。ドアの向こうからはシンクに水が叩きつけられる音が激しくあがる。
「…………」
開かれたドアの先を、ただじっと見ていた龍麻が葉月の方へと顔を向けた。
「……安くない?」
葉月は表情を変えることなく答えた。
「妥当です」
「……そ、ですか」
かすれ消えるため息の後、龍麻は顔を机へと伏――。
「ああ、そういえば」
突然、顔をあげ、再び葉月の方へと向けた。
「なんですか? 急に」
「い、いや、その子の名前聞いてなかったから。……ほら、名前知らないと呼ぶときに困るから……なんて名前なんだ?」
「ああ、名前ですか。彼女の名前は――」
―――――――――――――
右上の数字が二十を過ぎる。
二人の距離は先程と変わりなく、縮まってはいない。
「やはり、動きませんね」
「まあ、待つしかないな。これがいい結果を呼んでくれるかもしれない」
「そうだといいんですけどね……」
ため息交じりの言葉の後、麻祁に向けていた視線を画面へと戻した。
薄暗い画面に映る二人の背中。葉月は左に座る女性へと視線を合わせ、まるで呪文を唱えるように小さく呟いた。
「さきさか……まり……」
「ん、やっと動いたか」
上がる麻祁の声に、葉月が視線が右へと動く。
そこには何度も女性の方へと向かい頭を下げながら、シャワールームへと向かう龍麻の姿があった。
扉が開き、ガラス張りの四角い室内へと入っていく。
麻祁がすかさず片方の耳に付けていたイヤホンへと指をあてた。
「シャワールームの入り口付近にスイッチがあるはずだ、それを押せ。浴室内がさらに見え難くなる」
龍麻は返事をすることなく、中でキョロキョロと頭を上げ下げした後、片手を壁へと伸ばした。
スッと一瞬にしてガラスにスモークが貼り、中をぼやかせる。
その光景をじっと見届けている二人の耳に、今度は水しぶきが床を叩きつける音が聞こえ始めた。
「やっと次の段階ですね」
葉月の言葉に、麻祁が小さくうなずいた。
「ああ、後は向坂次第だな。さあ、どううご……ん?」
麻祁の目が細くなる。横に葉月も気付き、同じく、それをしっかりと認識するかのように目を細めた。
二人の視線が一箇所に集まる。それは一人残された向坂まりの背中だった。
シャワールームの前で佇み、まるで中を透視でもしているかのようにじっと見つめている。
「……どうしたんでしょうか」
「……あまり良い感じはしな――」
――浮く、テレビ。
「――つっ、龍麻避けろッ!!」
突然麻祁が声を張り上げた。
瞬間――耳から激しくガラスの割れる音が響いた。
二人がその衝撃に釣られるように立ち上がる。
画面に映し出された光景。それはベッドの向かいにある浴室にぽっかりと大きな穴が開かれていた。
浴室内にはガラスの破片とテレビの残骸が散らばっている。
麻祁の視線が浴室内を忙しく駆け巡る。――ここからでは龍麻の姿は見えない。
「まずい! 龍麻! 生きてるなら動くな! 私がすぐに行く!」
麻祁はテレビに繋がっていたイヤホンを抜き、廊下の方へと体勢を変えた。
「葉月! 何が起きてるか常に頼む!」
「はい!」
返事を聞くまでもなく、麻祁は急ぎ廊下へと飛び出した。
ゴーマルロクと書かれた扉へと駆け寄り、すぐにドアを叩いた。
廊下にスチールの叩く音が激しく鳴り――。
「姉様! 冷蔵庫が!」
葉月の声と同時に、ドアの向こうから再びガラスの割れる音が怒号のように響いた。
「――ッチ、向坂!」
名前を叫び、ドアを叩きながらをノブをガチャガチャと鳴らす。
ポケットからカードを取り出し、通そうと手を伸ばした――瞬間。
「姉様! 来ます!」
「――くっ」
カードが通った瞬間、麻祁が咄嗟に後ろへと飛んだ。
「ぐっ!!」
ドアが激しく開かれる音と同時に、スチールの叩きつける音が麻祁の背中から衝撃と共に伝わった。
開かれたドアから室内へと直線状に伸びる通路、そこから見えたのは無表情で麻祁の姿を捉える、向坂の姿があった。
麻祁の体が絨毯に落ちると共に、目の前のドアが激しい音を上げ閉まる。
「姉様! すぐ――」
耳から聞こえる葉月の声、その全てを聞き受ける前に、麻祁は片手を床へと着け、体をひるがえした。
バン! とスチール同士が叩きつけ合う音が雷鳴のように麻祁の横で鳴り響く。
ヘコむドア、散る蝶番。
麻祁はすぐさま立ち上がり、ポケットに差し込んでいた銃を取り出した。
ただの長方形に切り取られた穴へと向かい、銃口を向ける。
「姉様、出てきます! 私もそっちに!」
葉月の声に、麻祁は何も答えず、銃口をグッと穴へと向け、左手を銃底にそえた。
右側のドアから葉月が急いで駆け寄る靴音以外に、音はなにもない。
「…………」
麻祁は息を殺し、待つ。
廊下へと覗き出る靴先、麻祁の指が自然と引き金を――しかし、
「――っ!!?」
ドアロックを解除する音が一斉に鳴り、廊下を包んだ。
銃声が響く瞬間を合わせるように、全てのドアが瞬時に開き、麻祁の前からヘコんだドアが蝶番を弾け飛ばし飛んでくる。
咄嗟に駆け寄る葉月の方へと体を飛ばし、寸前でドアを避けた。
スチールのぶつかる音と体同士がぶつけ合う音が互いに音を掻き消し合う。
激しく音を上げ閉まるドア。その前を靴音が走り抜けていく。
「くそっ!!」
麻祁は片手を地面につけ、すぐに立ち上がってはドアを開き、銃口を廊下の先へと向けて引き金を弾いた。
しかし、角に消え行く背中を隠すように、再びドアが開き、弾丸の勢いを止めた。
「私が追いかけます!」
合図を送るかのように、麻祁の左肩に手を軽くそえた後、葉月は急ぎ足で向坂の後を追い始めた。
残された麻祁は弾倉を抜き、残りの弾を確認する。
後ろから聞こえる靴音に声。
「な、なんだよこれ……うわっ!? ど、どうなってんだよ……」
その声に麻祁は振り返らず、
「ケガは?」
背を見せたまま、後方へと問いかけた。
その言葉に答えたのは、ズボンをびしょびしょに濡らした龍麻だった。
「……ま、マジで危なかった。死ぬかと思った……」
「歩けているなら大丈夫そうだな」
「入り口の方に居たから助かった、もっと真ん中にいたら……って、それよりどうなってんだよこれ!?」
問いに答えることもなく、麻祁は葉月と共に待機していた部屋へと戻り、何かを探し始めた。
「めちゃくちゃだぞ!? 突然テレビは飛んでくるわ。冷蔵庫も吹き飛んでくるわで、部屋を出たらドアが……」
龍麻が確かめるように辺りに見回していた時、ある事に気付いた。
「あれ、あの子は……? どこに、どこにいったんだ!?」
ひとり騒いでいる龍麻を他所に、麻祁は腰を屈め、ベッドの辺りで何かを探るように両手を動かした後、廊下へと戻ってきた。
手には携帯と銃、もう片方には別の銃を握りしめていた。
「走って逃げたよ。もういない」
「だ、大丈夫なのかそれ!? もし、街に出たら……」
「その可能性は低い。ああいう性格だ、必ず暗く静かな方へと走って逃げる。ここからだと家が近いしな、たぶん、公園を通るはずだ。――これ」
麻祁が右手に持っていた銃を龍麻へと差し出した。
「えっ? これって……」
「受け取って、そうしないと電話できないだろ?」
「ああ、ああ――」
言われるがまま、龍麻はそれを受け取り、銃の側面を確かめるように見つめた後、麻祁の方へと視線を戻した。
「撃つのか……?」
どこか不安そうに問いかけてくる言葉に、麻祁は平然と答えた。
「そう心配するな、ゴム弾だ。一時動けなくするだけで、死にはしないよ。安全装置は側面の引き金の上あたりにある。小さなレバーみたいなものがあるだろ?」
「……大丈夫なのかよ?」
心配そうに銃をじっと見つめる龍麻の横で、麻祁は空いた方の手で電話をかけ始めた。
「相手の心配をしている場合か、殺されかけておいて――証拠が出てきた」
スラスラと止まることなく会話が続く。その内容は、ホテルの場所から、カメラの位置、そして録画した記録媒体の場所を告げるものだった。
一方的に言い続けた後、携帯を切った麻祁はそれをポケットへと入れた。
「誰に電話を?」
「警察」
「けいさつ!?」
「今から犯人を捕まえるからな。行動は早い方がいい――さあ、いくぞ」
「お、おい!」
返事を待たずして、麻祁がドアの向こう側へと姿を消す。
「葉月が足止めをしてくれているはずだ。急がないと何が起きているか分からない」
硬い絨毯を踏みしめる音が階段を忙しく駆け下りる音へと変わる。
「ったく、どうなってんだよ! くそっ!」
誰も居ない廊下に一人悪態をつき、龍麻は急ぎ麻祁の後を追った。
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