初節:接触

「ああーッ!!」

 天地を揺るがす程の大声を上げながら、俺は勢いよく体を起こした。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 激しい息遣いと活発に鼓動する心臓の音だけが、やかましく耳元で鳴り響く。

「はぁ、はぁ――ハッ!?」

 ある事を思い出し、すぐさま顔に手を当てた。しかし、何度触ってみても、当然刺された様な跡はなく、指をいくら確認した所で、そこには何も付いていなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ……またかよ」

 乾く袖で軽く汗を拭い、立ち上がっては洗面所に向かう。

 鏡に映りだされる酷くやつれた自分の顔。その時見ていた夢の壮絶さがそこに映されていた。

 頭の中ではあの夢が、頻りに繰り返される。

 暗闇、刀、コート、瞳、黒フード。キーワードの一つ一つが映像を作り、繰り返す。昨日見たのと似たような夢……病んでいるのか?

 「……と」

 広げ重ねた手から絶え間なくあふれ出る水に気づき、急ぎ顔に掛け、洗面所を後にした。

 ベッドに座るなり何もせず、ただ呆然と前に目を向ける。

 ふと視線に時計が目に入った。数回頭を撫でた後、テレビの電源を付ける。

――数秒後、俺は部屋の中を駆け回る事となった。

――――――――――――

「はぁはぁはぁ……!」

 崩れる様に俺は机にしがみ付いた。

 呼吸を整えないまま、黒板の上にある時計に目をやる。

 八時十分……ギリギリか。

 正門を過ぎた時、誰一人生徒の姿を見かけなかった。今回は本当にヤバイと思ったが、何とか間に合ったようだ……。

 横から奇妙な音が不意に聞こえ始める。それはまるで誰かが拍手しているような音。

 徐々にそれは大きさを増し、俺に迫ってきた。自然と目がそちらに向く――アイツだ。

「いやいや、久柳君、韋駄天の如き神速での大遅刻ですね」

 何が嬉しのか。僚がにやけた表情で前の席に腰掛けた。

「何言ってるんだよ、まだまだ全然余裕だろ?」

「余裕? おいおいそれは冗談だろ? そんなに汗を流して、息も荒げてるってのによ……、まさかあれか?」

 突然僚が机の中を覗き始めた。

「な、何だよ急に!? 机には何も入ってないぞ、まだ!」

 迫る僚の頭を両手で掴み、一気に押し返す。

「おいおい、そんなに否定するとはもっと怪しいな」

「怪しいってなんだよ!? 今来たばかりなのに何が入ってるって言うんだよ!?」

 その言葉に、僚が表情を変え、頻りに目を左右に動かしては顔を近づけてきた。

 内緒の話をするように声を小さくさせ、耳元で呟く。

「エロ本」

「はぁ? んだよそれ!? んなもん置いてあるわけないだろ!? 大体、なんでそんなもの学校に置いておくんだよ!」

「コンビンでも最近手軽に買えるんだし、今朝買って、教科書と一緒に机にしまって、そのまま忘れて帰っていた可能性もあるだろ? その急ぎようだ、俺はそう悟った!」

 僚が得意げな顔をし、ぐっと右手を握り締めた。

「勝手に悟ってろよ! そんなもん買うほどの余裕があるかよ」

 いつものように話を流し、カバンから教科書を取り出して机の中にしまった。

「なんだよそりゃ、残念。……でも、そろそろ興味があるんじゃないの? 今度の日曜日一緒に買いに行こうぜ。昨日のお礼で俺がおごるからよ」

「そんなおごり嬉しくねぇーよ! 大体、俺達の歳じゃまだ買えないだろ? 見つかったらどうするんだよ?」

「心配性だなー龍麻君は。その時は素直に謝って、返せばいいんだよ。俺達は今はまさに思春期だぜ? 大人の階段を登って何が悪いって言うんだよ! これも立派な勉強だぜ、勉強!」

「俺はこっちの勉強を頑張るよ。そっちはそっちで勝手にすればいいだろ?」

「ったく、連れないなー。せっかく俺が金出そうと思ったのに……っと、そういえば、アレ聞いたか、アレ」

「アレ?」

「アレだよ、アレ。……ああ、その様子だと、まだ見てないようだな?」

「……当たり前だろ? それを見ているなら、なんで今俺は疲れているんだ?」

「ははっ、それもそうだな。んー、それじゃ良いニュースと悪いニュースの二つあるんだが、どっち聞きたい?」

「どっちって……良いニュースだけでいいよ」

「おけーおけー、分かった悪い方ね」

「悪いって……どんな耳してるんだよ……」

 へへっと、不気味な笑みを浮かべた後、ひと呼吸おいてから僚が話し始めた。

「実はな、昨日言ってた犯人が捕まったようだ」

「昨日……? 昨日の話って……」

「覚えてないのか? おいおい早くも老化か? 殺人事件だよ、殺人事件、この近くの路地で起きた」

「ああ、あれ……か……」

 僚の口から再び出された話題。確かにその話は聞いた。

 しかし、何だろうか……何かこう大事なことを忘れているような気もするんだが……。

「で、その殺人事件の犯人が見つかったと?」

「そうそう、今朝から大騒ぎ」

「……で、どんな人だったんだ?」

「えーっとな、確か、おっさんだな、おっさん。歳は三十? 四十?」

「おいおい覚えてないのか? どっちが老化だよ」

「俺も歳は取るんだから仕方ないだろ? まあ、捕まったんだから、良かったじゃないかよ! これで平和バンバイザイだ」

「バンバイザイね……。で、これのどこが悪い話だ? むしろ良いニュースじゃないのか」

「この辺りで暮らす人達にとっては、良いニュースだよ。ただし、君にとっては悪いニュース」

「なんで?」

「詳しくは見てないが、事件のあの辺りにいる生徒から聞いた話によると、いつも通っているあの公園、今封鎖されているらしいぜ」

「ふーん……って、あれがそうなのか!?」

 ふと巻き戻される記憶。公園の前に立てられた進入禁止の文字が浮かび上がる。

「やっぱり通ろうとしたか。あの場所が今、封鎖中らしいな。確かそいつの話によれば、現場検証のどうたらこうたらとか」

「まじかよ……、だからか……。いったい何日で終わるんだ……明日からどうすりゃいいんだ。クソ……遠回りは面倒だな……」

「可哀想な龍麻君、いつも不抜けて、僚君に冷たく当たるから神様が怒って罰を与えたんだよ」

「俺は別に悪い事してないだろ? 罰を受けるなら俺じゃなくて、昨日の事もあったお前の方だよ」

「俺は聖人だから免除されるの。……ってより、目覚ましをつけろ目覚ましを。四個ぐらい用意しておけって」

「……四個も要らないよ、一個で十分。大体、あれが鳴らないんだよな、時間はちゃんと合わせてるはずなのに……。――買い換えようかな……僚のおごりで」

「ああ? 目覚ましを買うのか? それなら俺が直接電話で起こしてやるよ。目覚しコール、起きて龍麻ちゃん! 起きて龍麻ちゃん!」

「……遠慮しておく。余計に目覚めが悪くなる。……で、今のが悪いニュースなら、良いニュースってのは何なんだ?」

「お、忘れかけてた。こっちの方が大事なんだよ、そんな事件よりも! いいかよく聞けよ。俺達にとってのビッグイベント! 聞いたらお前も驚きすぎて飛び上がるぜ!」

 僚が大げさに両手を広げた。

「はいはい、いちいち叫ばなくていいって、聞こえてるから。って、もったいぶらずに早く言ってくれよ。何ビッグイベントって?」

 俺の目を隠すように、僚が両手を広げた。

「驚くなよ!」

 そう言った後、

「転校生が来るんだよ!」

一気に両手を開け、ビックリ箱のようにそこから顔を突き出させた。

 その行動に俺は、無表情の視線を向け続け、そして

「……へぇー」

一言だけ言葉を返した。

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