第二章

潜在

 天井から雫が落ち、水音を響かせる。湿った土と木の匂いが漂う深い坑道に一人の男がいた。

 髪は白。六十の歳とは思えないがっしりとした体格に、土まみれのシャツ、そして、破けたブラウンの作業ズボンを着用している。

 大人三人が通れるぐらいのその通路に、白髪の男は一人立っていた。

 男の前にあるのは、天井を支えるために造られた木製の支保しほ。片手に持っている板をそこに打ち込んでは、反対側にある支保へと移り、板の反対側を打ち込んでいく。

「くっ……」

 小さな声と共に男が顔を歪め、左腕を押さえた。

 力を無くし、垂らす腕の人差し指からは、血が絶え間なく流れ続け、地面に滴り落ちている。

「…………」

 男は休む間もなく腕を上げ、ただひたすらに板を打ち続けた。

 喧しく鳴る電動の釘打ち機の音。片方の壁に等間隔で備え付けられた薄暗い裸電球だけが、その行動を見続けている。

 しばらくし男が手を止めた。支保の間に立ち、正面を睨み付ける。

 そこには、乱雑に重ねられ組まれた事で出来た、木の壁がそびえ立っていた。

「…………」

 男は何も喋らず、一ヶ所だけ空いている隙間の部分に手を触れ、自分の横に寝かせていた板を一枚手に取り、また釘を打ち始めた。

 オレンジ色のうすぼけた光を頼りに、釘打ち機の軽快な音を響かせる。

「くそ……」

 髪の間からにじみ出す大量の汗が、視界を何度もさまたげる。

 男は首に掛けている土汚れたタオルで汗を拭い、休む事なく打ち続けた。

「――はぁ、はぁ、はぁ」

 男の後ろに伸びた坑道から、よれよれのワイシャツを着た若い男が走ってきた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 ワイシャツの男は黙々と板を打ち続けている男の手間で立ち止まり、肩で数回呼吸を繰り返す。

「……や、やはり、どこにも居ませんでした」

 ワイシャツの男が、自分の首を締め付けていたネクタイを少し緩める。

 白髪はくはつの男は手を休めず、ワイシャツの男に向かって静かに言葉を返した。

「……そうか」

「――え、えぇ、……そ、そちらはどうでしたか?」

「……」

 手を止め、左手で自分の足下を一回指差した後、また打ち始める。

 それに釣られ、指差した方向に顔を向けたワイシャツの男は小さく声を上げ、その場所へと駆け寄った。

 腰を下げ、視線を合わせる。そこには一人の男が座り込んでいた。

「奥にそいつがいた。お前の連れだろ?」

「はい、確かに……ですが……」

 ワイシャツの男が心配そうな目を同僚へと向ける。

 頭を抱え、小刻みに体を揺らしては、歯をガタガタと鳴らし続ける姿。服は泥だらけになっており、白い糸のようなものが無数に絡み付いている。

 ワイシャツの男が震える男の右肩を掴み、軽く揺すってみた。

「おい、加藤! 加藤!」

 だが、名前を呼ばれた男からは、歯音以外の返答はない。

「……困りました。これじゃ、何を訊いても駄目みたいですね。一体何が……」

「怯えてるんだよ」

 手を止め、白髪の男が新しい板を持ち、別の場所に打ち始める。

「怯えてる?」

「あぁ、その様子だと余程恐ろしいモノを見たんだろうな」

「恐ろしいモノ……? アナタも何か見た――て、だ、大丈夫ですか!?」

 白髪の男に顔を向けた瞬間、ワイシャツの男が慌てた様子で立ち上がり、板を押さえる左腕を掴んだ。

「これ……は、早く止血しないと!」

 ワイシャツの男が慌ただしくズボンのポケットを漁りだす。その姿に白髪の男は何も言わず、釘を打つ手を止め、ただ見守っていた。

「どこに入れ……、あ、ありました! じっとしていてくださいね」

 そう言ってワイシャツの男は、右ポケットから取り出した四つ折りのハンカチを伸ばし、傷口に巻き始めた。

 しかし、あまり馴れていないのだろう。ワイシャツの男は結んでは解き、解いては結びを何度も繰り返した。

「本当はタオルなどあれば良いのですが今は……」

 何度か繰り返した後、ハンカチを巻き終えた男は少し満足そうな表情を浮かべ、一歩後ろへと下がった。

 白髪の男が巻かれたハンカチに目を向ける。

 筋肉質の腕に巻かれていた青のハンカチは、傷口に合わせるよう直線上に被さり、裏側で硬く結ばれていた。

「あっ……、す、すみません」

 無表情でまじまじとそれを見る視線に、ワイシャツの男が気付き、すぐに頭を下げた。

「どうやらハンカチが小さかったらしく、上手く結べませんでした……。もしきついようなら外して下さい」

「……大丈夫だ」

 そう呟き、白髪の男が釘を打ち始める。

「……そうですか。しかし、どうやってそんな傷が? 何かで切られたような感じですが……」

「……小石だよ、自分の投げた小石で切ったんだよ」

「――え? こ、小石……!? そ、そうですか……」

 思わぬ答えに一瞬困惑するも、ワイシャツの男はそれ以上の事を問わなかった。

「でもまぁ、結構深そうな傷なので早めに病院で見てもらった方がいいかもしれません。感染症の心配もありますし……」

「――よし」

 突然白髪の男が声を上げ、同時に手にしていた機械を下ろした。

 軽快な音が止み、静けさが男達を取り囲む。

 白髪の男が左手で先ほど打ち付けた木の板を触った。その行動に気付いたワイシャツの男が左手の先に目を向ける。

「――壁ですか?」

 男達の目の前に、一つの木の壁が立ちふさがっていた。

 規則性と呼ばれるものは全くなく、乱雑に打ち付けられてはいるものの、そこには一切の隙間などは無く、立派な壁としての役割で存在していた。

「これじゃ、もう奥には行けないですよ、良いんですか?」

「……いいんだよ。奥にはそいつ以外に誰もいなかった」

 そう言いながら、白髪の男は釘打ち機を足下に置き、しゃがんでは、今だ頭を抱え震えている男の手を引き、自分の右肩へと掛けた。

「……さあ行くぞ、手伝え」

「行くって何処へ――って!」

 白髪の男が立ち上がるの見たワイシャツの男が、慌てて垂れる片側の手を自分の左肩へと掛け、同じくその体を支えた。

「あ、危ないですよ、そんな腕じゃ、大体どこ……」

「行くんだろ?」

「え?」

「――病院に」

 言葉と同時に、白髪の男が一歩踏み出す。

「……あっ、は、はい……」

 一瞬足が遅れ、引っ張られるような形になるも、ワイシャツの男は急いで歩幅を合わせた。

 二つの足音に一つの引きずる音を鳴らしながら、三人は暗闇へと歩き出した。

―――――――――――

「……悪いな」

 薄暗い穴の中、突然白髪の男が口を開いた。

「えっ? ……何がです」

 額から汗を流すワイシャツの男が、徐々に肩からズレ落ちる腕を自身の体勢と共に直す。

「様子を見に来ただけなのに、ここまで苦労させるとはな」

「……いえいえ、これも仕事ですから……ね」

 苦笑いを浮かべ、また体勢を直す。

「こうして誰か居ただけでも良かったです。もし誰も居なかたら……不安でしたしね、二人だけだと。それに、貴方が居なければきっと今も同僚を探せずにいました……」

「…………」

 白髪の男は何も言わず、足を進める。

「……そういえば一つ聞いてもいいですか? 他の皆さんはどこに? 全く姿が見えないんですけど……」

 その質問に、白髪の男は数秒だけを空けて答えた。

「……帰ったよ。時間外だからな」

「帰った? 全く連絡がなかったらしいのですが……そうですか……」

 ワイシャツの男が顔を落とし、何かを考え始める。

「また会社に確認してみないと……そういえば、どうして貴方は一人でここに?」

「俺か、俺はだな……忘れ物があったから」

「……えっ? 忘れ物? 忘れ物って……」

「大事なものさ。だから、探してるんだ」

「…………」

 ワイシャツの男は疑問に思う。『その忘れ物はなんですか?』と。だが、それを聞こうとはしなかった。

 白髪の男が見せる、その真っ直ぐとした視線に、どう聞いたところで、その答えなど返ってくるような感じはしなかったからだ。

 ワイシャツの男は内容を変え、問いかける。

「その忘れ物は……もう見つかりましたか?」

「いや、まだだよ」

「そうですか、それなら僕達も……あっ……」

 ワイシャツの男がある事に気づいた。それは今も二人で懸命に運んでいる同僚の存在だった。

「す、すみません、僕達のせいですね……。勝手に入ってきたのに、なんか迷惑かけちゃったみたいで……」

「気にしなくていい」

「あの、入り口まで運べたらもう大丈夫ですから、車もそこに止めてますし……。少しの間なら僕も一緒に探せますが……」

「いや、大丈夫だ。それより、病院に行かないといけないんだろ?」

「ああ、そうでした……すみませんなんか色々と……」

 自分が出した言葉を思い出したワイシャツの男は、先程から空回りしている自分に恥を感じ、その視線を伏せた。

 白髪の男の目にその様子が入る。

「……俺のことより、お前達はどうするんだ?」

 白髪からの質問に男が顔をあげる。

「あっ、ええーっと、そうですね。とりあえず一緒に病院へ向かって、それから加藤の様子を見た後、すぐに会社に戻って報告を……ですね」

「会社はどう説明するんだ? 同僚の今の姿は異常だぞ?」

「……加藤はその……僕にも分からないので、ありのままの事しか……貴方は何かその見たりとかは……」

「いや、なにも。その男と会ったときにはすでにそんなに様子だった。あの奥で見つけた時からな」

「奥? あの打ち付けた木の向こう側ですか? ……そうですか……」

「報告はココの事も言うんだろ?」

「はい……一応……」

「……なら、坑道のほとんどは崩落していて危険だ。と伝えておいてくれ」

「崩落ですか?」

「ああ、もし何かの衝撃で崩れたら、生き埋めになるかもしれないからな」

「何かあったんですか? 僕達が聞いた話ではそういった事は聞いていませんが……」

「……ちょっとした事故だよ。俺も病院に行った後はここへは来ない」

「そうですか……分かりました……」

 ふつふつと沸き上がる疑問。だが、ワイシャツの男はそれをグッと奥へと押し込めた。

 それ以降、二人は何も喋ること無く、ただ黙々と力の抜けた同僚の腕を担ぎながら、歩き続けた。

 しばらくし薄暗く狭い坑道の奥から、小さな明かりがうっすらと見え始めた。

「……そろそろですね」

 足を進める度に、明かりが強さを増していく。

「……後少し」

「あぁ……」

 光は徐々に大きくなり、そして二人はその中へと入っていった。

 立ち止まる足、目の前にはドーム状の空間が広がっていた。

 それは、先ほどから歩き続けていた坑道とは大きく違い、いくつもの灯りが周りを取り囲み、その空間を明るく浮かび上がらせていた。

 ごつごつとした岩肌が間近にみえる。

 広大こうだいで高く伸びるその場所には、大型の削岩機を始め、小さなプレハブで作られた休憩所や、石や廃材が集まり出来る小山など、ありとあらゆるモノがそこに集められていた。

 側面に空けられた幾つもの穴からはそれぞれ線路が伸び、広場で複雑に駆け巡っては、また別の穴へ走り去る。

「……え、えぇーっと、どれでしたっけ?」

 額から汗を浮かばせながら、ワイシャツの男が左右に視線を動かす。

「……あそこだ」

 白髪の男が一つの穴を指差した。

「……あそこでしたか。それじゃ、行きましょうか」

 返事と共に、ワイシャツの男が肩に力を入れた。

「――ああ」

白髪の男もそれに合わせ、歩を進める。

地面を擦る音を鳴らしながら、三人はゆっくりと穴を目指し歩く。

 二人が黙々と運ぶ中、今も力無く運ばれる同僚は、小さな声で何かをしきりに呟いていた。

「……た。み……あ……なに」

「そういえば……、さっきから何を言ってるのでしょうか」

 疑問を問いかけてみるも、 

「さあな」

白髪の男は首を傾げるだけだった

「――ですよね」

 広い空間の中間辺りまで辺りまで差し掛かった時、

「……っと!?」

突然、白髪の男が足を止めた。

「ど、どうしたんですか急に!?」

「…………」

 呼びかけに、白髪の男は何も答えず、ただ一点を見つめるだけだった。

 ワイシャツの男も同じく、その場所へと目を向ける。

 しかし、そこにはただ線路が続く穴とそれを点々と照らすランプがあるだけで、それ以外には何もなかった。

 再び視線を白髪の男に向け、言葉を待つ。――そしてその数十秒後。

「……すまない。気のせいだった、行こう」

 じっと一点だけを見ていた白髪の男がそう口を開き、再び歩き始めた。

「えっ、は、はい」

 返事をし、ワイシャツの男も合わせる。

 伸びる線路に足を捕らわれないように、視線を交互に移しながら少しずつ、少しずつ前へと進む。

 そんな中、ワイシャツの男がある事に気付いた。それは先程に比べ歩幅が短く、なにより早くなっていたのだ。

 それを証明するかのように、二人のタイミングがズレ、片方の体が引っ張られているような感じになっていた。

「わっ、と……あ、あの」

 少し転びそうになり、ワイシャツの男が思わず声を掛ける。その言葉に白髪の男は、足を止めず言葉で返す。

「なんだ?」

「少しはや――」

 ワイシャツの男が白髪の男に顔を向けた瞬間、言葉を止めた。

 視界に入った男の顔。それは額から垂らす汗を、一切拭おうとはせず、無表情でただひたすらに前へと進み続ける姿だった。

 それはまるで――何かに取り憑かれているようにも見える。

「……いえ、気のせいでした。早く行きましょ」

 ワイシャツの男はその深刻な様子を感じ取り、白髪の男に合わせるように歩幅を早めた。

 目指す穴が徐々に距離を縮め、そして目の前に迫る――その時だった。

「……えっ!?」

 突然ワイシャツの男がバランスを崩し、前のめりになった。

 すぐさま体勢を戻し、バランスを崩させた原因に顔を向ける。――白髪の男が立ち止まっていた。

「……どうかしましたか?」

「――行ってくれ」

「え?」

 思わぬ言葉にワイシャツの男が呆然となった。

「すまない……どうやらもう一つ忘れ物があったらしい」

「わす……って、それは後からでは駄目なんですか?」

「ああ、今いるんだ。とても大事なやつでな、この近くにあるんだ。――今でも取りに戻らないと。だから先に行ってくれ、すぐに追いつく。もう一人でも大丈夫だろ?」

 その言葉を合図に、ワイシャツの男にずっしりとした重たさが圧し掛かった。

「わっ! ぐっ……」

 足元がふらつき、倒れそうになるも、ワイシャツの男は何とか体重で押し返し、バランスを整える。

「背負わせる。しゃがんでくれ」

 白髪の男が同僚を預かると、ワイシャツの男は腰を下げた。

 力の無い両腕を肩へとまわし、そして立ち上がると同時に、背中に回した腕に両足を乗せる。

 前へと体勢を傾けるワイシャツの男。

「重たいが、もうすぐ出口だ。最後まで一緒に運べないが……」

「だ、大丈夫です。それより、忘れ物。……気を付けてくださいね」

「ああ、すまない」

 白髪の男の言葉を最後に、ワイシャツの男はふらつきながらも前へと歩き出した。

 頼りなくも見えるその後姿を、白髪の男は消えるまで見守り、そして歩いてきた道を戻り始めた。

――――――――――――

 真っ暗闇の中、ずるずると足を引きずっていた男が立ち止まり、辺りを見渡し始めた。

 何かを警戒するように頭を左右に動かし、

「…………気のせいか」

そう呟いた後、再び歩き出した。

 ずっと耳にしている地面の擦る音。

「…………」

 男は何も言わず、ただ薄明かりにより僅かに照らされた真っ直ぐとした道を歩き続ける。

 しばらくして、

「……あっ」

あるモノが目に入り、男が声を上げた。

 それは目を潰すほどの眩い光だった。

 自然と足が速まり、その光に近付くたび、暖かさが直接体へと伝わってくる。

 そして遂に、光に包まれた。

「はぁ、はぁ……」

 広々とした空間に体をさする風。聴こえてくる鳥のさえずりに、太陽の光がギラギラ眩しく明かりを注いでいる。

 男はなんとか広場の中央までたどり着き、背負っていたもう一人の男を降ろしては、そのまま崩れるようにその場に座り込んだ。

 大きくため息をつき、

「や、やっと……」

男はまるで眠るように、そのまま仰向けに倒れた。

 視界には青く染まる空と、それを覆う緑の葉が映っていた。

 土に汚れたワイシャツの上から腹部を押さえ、男が深呼吸を数回繰り返す。

 手に伝わる動き。息を吸えば膨れ、そして吐き出すとへこむ。

 男は視線をぐるりと回した後、体を起こし辺りを見渡した。

 視界に入ってきたのは二人を取り囲む土の壁だっ。それは崖として高く、そしてその上には青々とした木々が生え並んでいた。

 囲まれた広場には、男達以外にも、テントや何かの機械が設置されており、そして唯一町へと向かうための道路の出入り口には、一台の軽自動車が置かれていた。

 ワイシャツの男は立ち上がり、振り向いては、先ほど自分たちが出てきた穴に向かって、大きく叫んだ。

「僕達、外に出ましたから!」

 声を出した後、耳を向ける。

 暗く広がる穴からは何も返ってはこない。

「……さて、行くか」

 名残惜しそうな表情を残したまま、男は穴から目を逸らし、そして力なく座り込む男の方へと向けた。

「……あと少しだ、さっさと病院に行って、報告でもしないと……っと先に車だ」

 ワイシャツの男がポケットに手を入れ、鍵を取り出す。

「…………」

 ワイシャツの男が一歩踏み出したその瞬間、

「――っ!? ガッ!」

大きな音と共にうつ伏せに倒れた。

 男は地面から顔上げ、両手を地に付け上半身を起こす。

「くっ……一体……なにがァッ!?」

 突然、体が後ろに向かって引っ張られた。

 ワイシャツの男はそれが何かを確認しようと、頭を後ろへと向けた

「……なっ!?」

 男の表情が一瞬にして、驚愕のものへと変わった。

 暗闇から見える六つの光。緑に輝くそれはゆらゆらと左右に揺れ動いている。

 光の中心からは、何かの白い糸のようなものが伸ばされ、男の足にへと絡み付いてた。

「……くッ! くそッ!」

 男が糸を剥がそうと手にする。しかし、粘りがあり、指に絡み付くだけで取り除く事が出来ない。

 徐々に穴へと向かい引きずられていく体。

 ワイシャツの男はうつ伏せになり、地面に爪を立てた。

 だがその勢いは止まらず、地面に爪痕を残すだけで、体は徐々に横にいる男との距離を離していくだけだった。

「離せ! 離せって!! クソ、クソ!!」

 どれだけもがいても糸は剥がれず、どれだけ叫んでも勢いは止まらない。

 迫り来る穴。そして遂に足が飲み込まれた。

「クソッ!!」

 ワイシャツの男は諦めずに、穴の入り口に付けられていた格子の扉を掴み、さらに抵抗した。

 だが、それも空しく男の体は穴へと飲まれ、そして掴んでいた扉は音を上げながら、勢いよく閉まった。

「はぁ、はぁ、くッアァァ」

 ワイシャツの男は額から汗を噴かせ、扉に付いてあるじょうを目指し、少しずつ体を上げていく。

「はぁ、くッ……」

 糸が強く引く度、男の体は大きく揺らされ、その度に苦痛の表情を浮かべた。

 扉のガタガタと揺らす音だけが響く。

「はぁ、はぁ、あああーー!」

 男は気勢を上げると同時に南京錠を手にし、そして――。

――――――――――――

 小さな白い小鳥の群れが元気よく飛び回り、晴天の空へと溶け込んでいく。

 高く聳える崖、そして木々に囲まれた広場。その中心には一人で男が座り込んでいた。

 両膝と頭を地面に付かせ、うなだれては何かを呟き続ける。

 突然、男が顔をあげ、虚ろな目で坑道を見た。

 深く暗い穴。入り口には鉄で出来た格子の扉が立ち塞がり、そして侵入者を拒むようにして、そこには南京錠が掛けられていた。

 男は空に消えるような掠れた声で、扉に向かい小さく呟いた。

「……みん……な……、いなく……った……あの、おん……に――ころされた」

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