終節:命乞い
「ハァハァ、ハァッ!」
突然右足が立ち止まり、
「――いッ!!」
硬いベッドへと寝かしつけられた。
頬と手に痛みと砂がこびり付き、乾いた草の匂いが鼻の辺りをくすぐる。
「あぐっあ……」
喉の奥から自然と出てくる濁った声と共に、俺は両手に力を入れた。
あがる上半身に傾く体。付いた片手と膝に力を入れ、痛む体に無理を通しつつ、少しずつ、少しずつ立ち上がっていく。
その最中、ふとある物が目の前に現れた。
それは月明かりが射し込む薄暗い景色に、隠れるようにして身体を溶かす、一本の幹だった。
普段よく目にする太くもなく細くもないその体形。荒れた黒い肌で時々上から聞こえてくる葉の擦れる音が、その存在を強調して教えてくれる。
茫然としたまま、辺りに首を振る。
ここはどこなんだ……?
女から逃げ出した後、俺は無我夢中で走り続けていた。改めて辺りを見渡すと、目に入るのは薄暗い景色に、うっすらと生える数本の幹だけだった。……他には何もない。
この公園に関しては、幼い頃から霧崎達とよく遊んでいた為、ある意味、家の庭でもあり、全ての場所は理解しているはずだった。
公園の南東にある噴水も、それから西へ歩くと見える奇妙なオブジェも、街頭もベンチも昔から変わり無くその場所に居続けるため、目印となり迷うことが無い。
だが、今目の前に広がっている景色は、俺の知っている景色ではなかった。
全てを飲み込む闇。まるで行き場所を包み隠すように、ただの一色が辺りを染めている。
俺はすがり付く様に、伸ばし左手を幹へと当てた。
伝わってくるゴツゴツとした皮の感触、それは俺の前に間違いなく生えている。
「――っ!?」
突如、後から音が聞こえた。
その音は今も上から聞こえてくる葉音のようなものではなく、まるで誰かが地面を強く蹴っているような音だった。
「………………」
自然と開いた目と口を閉じることなく、片手を幹に当てたまま、その音だけを聞きとるように
一つ、一つ、まるで足音のように、こちらに駆け付けるように一直せ――音が止まっ……た?
その瞬間、
「……あ……あ……ああッー!!」
俺は走った。
競技用のピストルを鳴らされたような一瞬。自身の叫び声を合図に、幹に触れていた左手をさらに後ろへと回し、力を入れると同時に体を引き寄せ、一気に突き離した。
反動を勢いの
風を裂き、闇の中を突き進む。
横を通り過ぎていく木々、そして目の前にも姿を見せる。
「クソッ!!」
俺はギリギリの所で体を捻り、それを避けた。
崩れる体勢をなんとか戻し、止まる事なく走り続ける。
だが、何度も邪魔が入る。まるでその場所で止まらせようかとするように、幹は立ち塞がり、土は足元をもつれさせようとしてくる。
俺は幾度も崩れる体勢を戻し、とにかく前へと走り続けた。――そして目の前にそれは見えてきた。
遠くの方でぼんやりと灯る明かり。それを目にした瞬間、心臓が高鳴る。
急く足元に縮まる距離。灯りに近付くにつれ、視界に映る暗闇が徐々に狭まっていく。
もう少し、もうすこ――!? 突然、右足がバランスを崩し、左肩が沈んだ。
「……クッ!!」
踏み込んだ左足を咄嗟に蹴り上げ、自然と伸ばされる右足で地面を踏み、また蹴り上げる。
それはまるで一つのハードルを飛び越えるように、広がる足幅をなんとか三角飛びの要領で交互に蹴ってバランスを戻し、歩幅を直す。
青白い光まで残り数歩。その目印しとして目の前に、新たな障害物として生垣が現れた。
高さは太ももぐらい。道の両脇に植えられ、迫り来る敵を防ぐように壁として前に立ち並ぶ。
あれを飛び越えれば……。
前のめりのまま勢いに任せ、そして――飛んだ。
浮き上がる体、縮めた足元から葉を揺らす音が鳴り、青白い光が全身を包み込む。
下には俺を迎えるように、敷き詰められた赤の煉瓦が並ぶ。そこへと向かい自然と足が落ち始めた――が、しかし、
「……えっ――」
色が変わった。
「――なっ!」
急速に締め付けられる胸元。風が体の両脇を勢いよく流れ、振り回された思ったら、今度は風を裂き、体が宙を舞った。
地面へと叩きつけられると同時、背中に痛みが走る。
気付き、目を開けると葉の間から青白い空が見える。……どうやら俺は仰向けに寝ているようだ。
痛む胸元に咳き込みながらも、服を引き、襟元の違和感を直す。
地面に手を付き、立ち上がった時、ふとある光景が目に入った。
上下に切り裂かれた闇、その間に一人の影が浮かび上がっていた。
距離にして数メートル、あの女だ。
影となり、姿はハッキリとは見えないが、垣根の前で立ち塞がっている。
伸ばした右腕をこちらに向けているその様子から、『構えている』という仕草が分かる。
――どうやら首元を捕まれ、戻されたらしい。
ヒシヒシと伝わってくる、次に起こるであろう行動。
震える足が自然と後退りを始める……が、それはすぐに止まった。
頭に浮かんだある一つの言葉が足を止めたのだ。――逃げ切れない。
前は光、後ろは闇。このまま突っ込んで行けば、撃たれるのは見えている話。だから、闇に揉まれながらまた逃げ回れば一時的に
……だが、分かる。上手く説明は出来ないが、そうした所でどうせ無駄に終わる事が。もう一度あの光の場所には戻れない――あの女がいる限り。
女は動かずに居る、右腕をこちらに伸ばしたまま。
待っているのか、近づくのを……? だったら尚更……。
どちらに向かっても逃げ切れる可能性はなく、絶望的とも言える状況。しかし、可能性が全く無いとは言えない。
俺は覚悟を決め、振り返り走った。闇に向かい、そして光を目指して――。
――――――――――――――――――
女は銃を構え、薄闇で動く影を狙う。
ハッキリとは見えないものの、その場所だけ妙に浮かび上がっていた。
影はこちらを伺うようにゆらゆらと動き、少しするとそれは濃さを増して、完全に溶け込んだ。
「……ふぅ」
消え去った後、しばらく闇を見つめていた女はどこか呆れたように息を吐き、銃口を下ろしては前へと踏み出した。
次の瞬間、
「……っ!!」
瞳を目掛け、砂が飛んできた。
「……ッ!?」
今度は龍麻が現れ、女に向かって突っ込んできた。
体当たりを不意に食らわされた女はバランスを崩し、背中から垣根へ倒れ、枝をへし折った。
荒々しく音を上げながら沈む体は、地面に着く事はなく途中で止まる。
一方龍麻は、
「――うぉっ!?」
女と共に倒れるが、その上に重なることなく、そのはずみで横へとずれ、そのままの勢いで道へと飛び出した。
「……いッ!!」
枝に足を取られ、頭から地面へと倒れる。が、直ぐに上半身を起こし、左右を見渡しては這うようにして立ち上がり、走り出した。
選んだ道は左。煉瓦を踏む音が静寂の中で軽快なリズムとして響く。
「ハァ、ハァ、ハ……、えっ?」
突然、体が倒れた。それはまるで張られた糸を切られた人形のように力を無くし、そして、左足を伸ばしたままうつ伏せの姿で――。
龍麻は上半身だけをあげ、仰向けの状態に体勢を戻しては、左足に向かい手を
ズボンの上からふくらはぎの辺りを触れ、そして気づかされる。
「あぁ……あぁ……」
倒れた? 否――崩されたのだと。
「……あぁ、あぁ!! ググ……アァァァッー!!」
龍麻が声を張り上げた。絶叫とも取れる大声を、力一杯にその場所で。
涙を流し、声を上げたままふくらはぎの辺りに手を被せる。しかし、ズボンと指の隙間からは止め処なく真っ赤な鮮血が溢れ出て、煉瓦に新たな色を塗りたくっていった。
「……熱した火箸で刺されたような、バットで殴られたような、それとも車で轢かれたような……一つの痛みでも様々な例え方がある」
泣き叫ぶ声を気にもとめず、女は淡々とした口調でそう説明しながら、龍麻の元へと近づいていく。
「だが、どう例えられた所で実際にその痛みを体験してなければ、到底理解などは出来ない」
女が足元で立ち止まる。右手に握り締めていた銃を向け、そして――、
「――さて、感想は?」
不気味な笑みを浮かべた。
――――――――――――――――
「あぁあぁああッー!!」
熱い! 熱い! 痛い!!
赤黒く濡れていくズボン。それを目にした時、一瞬にしてその二つの感覚が脳へと走り、思考力を奪っていった。
反射的に右手をふくらはぎに当て押さえるも、指の間からは止め処なくそれは溢れ、地面へと滴り落ちていく。
俺は無意識のまま子供のように叫び続けた。
「あぁああガァッ!!」
突如胸元に重たい何かがぶち当たり、反動で体が倒された。
「グッ!」
後ろから鈍い音が上がり、後頭部に痛みが走る。その衝撃は強く、一瞬意識が
仰向けの視界に映ったのは、二つの木々の間を流れるように伸びる暗い空、そしてそれに重なる女の姿だった。
目が自然と見開き、すぐに力を入れ体を起こす――しかし、
「――ッ!!」
再び胸元を何かで圧迫され、そのまま地面へと叩きつけられた。重たい物で押さえつけている圧迫感が胸元からヒシヒシと伝わってくる。
咄嗟に手を伸ばし、胸元を押さえ付けている物を退かそうと握り締めた。
細くも中心は硬く、そして外側は柔らかい。それは今俺を見下ろしている女の足だった。
視線が足へと向く。白い靴下からすらりと上に向かって伸びる肌色、その先には当然のようにあの女がいた。
女は足下には目を向けず、右手を頬に寄せどこか遠くの方を見ている。
俺は握り締めた手に力を入れた。
皮膚に指が沈む。しかし、女からの反応はない。
そのまま足を動かそうと力を入れる。が、深く打ち込まれ固められたそれは重く、数センチ所か数ミリ単位とも動かす事が出来なかった。
「……ぐぐっ……」
さらには抵抗する俺を嘲笑うかのように、深部へと向い力を入れてきた。
「くっ……ググッ……」
焦らすような遅さに、じわじわと増す苦痛が女の顔を濁らしていく。
痛みに耐えきれず、俺は握り締めていた手を離した。
両手に力が入らない。だが、それでも踏みつける足は弱まる事はなかった。力が増す度に、目は開かれ、口からは言葉にならない声が自然と
目からこぼれ出す涙。その濡れた感触が暖かさとして伝わってくる。
「カ……アガカァ……」
――死ぬ?
その言葉が頭の中を過ぎった時、
「カッ……ハァゲホッ、ゲホッゲホッ!」
圧迫が突然解かれた。
急激に入り込んできた空気に咳き込む。
ぼやけたまま視界に、ふと映る女の顔。それは左手の人差し指を口元に当て、俺に向かい何か言っていた。
「――――」
その言葉を理解した時、俺は呆気に取られた。
――で、ん、わ。
そう言い終えた後、女が再び顔上げ、何事もなかったかのように会話を始めた。
遠く見えるその姿に、俺の目はさらに滲み、そして胸が締め付けられた。
たかが、電話のために……。
「――い、おい!」
聴こえる女の声。
瞬きを繰り返し、ぼやける視界を晴らす。
微かに晴れた時、そこに現れたのは、相変わらず冷たい目で俺を見下ろすあの女の姿だった。
――終わる、これで……俺は……。
目を閉じ覚悟を決める。
だが、ある言葉が俺の目を再び開かせた。
「助かりたい? 助かりたくない?」
「……え?」
思わぬ言葉に、俺は無意識に聞き返してしまった。
だが、女には聞こえてないのか、何も答えない。
頭の中で、先ほど言葉が何度も繰り返される。
『助かりたい? 助かりたくない?』
なんだその質問は……。
何かあるのかとその意味を探すも、答えなど当然見えてこない。
しばらく答えずにいると、女が後ろへと下がり、ふと右手を伸ばしてきた。
俺はその指先を見ながら、数回瞬きした後――それを無意識に掴んでいた。
握り締めた右手に力が入るのと同時に女が下がる。俺の頭、上半身が起こされた。
ぼんやりとした意識のまま、首を左右に振って辺りを確認した――生垣が俺を挟んでいた。
呆然としている中、女の声が耳に入る。
「立てるか?」
その言葉に俺は何も反応を返さなかった。
女が握っていた右手に力を入れ、更に後ろへと引く。
俺の体が自然と前に傾く。
それに対応するかのように、自然と左手が地面に付き、そして立ち上がっ――。
「……痛っ!?」
瞬時に痛みが走る。それはまるで何かを突き刺したような熱い感覚とピリピリと広がる感触――。
足が伸びきる前に、膝の辺りから力が抜け、一瞬にして、そのバランスが崩れた。
確かめるように無意識に向けられるその場所。それは足元で溜まる鮮血に赤黒く染まるズボン。
忘れていた俺は――。
今起きているこの状況。それを思い出した時、
「……っ!?」
手を強く引かれた。
同時に離される手。崩れる前に無理矢理起こされた体は、支えとなる力も無くし、流れるようにして前へと倒れていく。
女の顔が通り過ぎる。その最中、耳元で
「冗談」
今度は胸元へと手を当て、押し返すように力を入れてきた。
「――ぐっ!?」
視界に映る空。それと同時に鈍い音が上がり、後頭部に激しい鈍痛が走った。
「ああ……」
痛みと共に襲ってくる吐き気に、もはや考える事も、目を見開いて何かを確かめる事も出来ない。
薄く開かれている視界からは、ただ場景だけが自然と入って来るのみだった。
ぼんやりとした視界、最初に入ってきたのは、俺の瞳を覗き込むようにして見ている女の顔だった。
しばらくすると、その顔は遠ざかり、今度は新たな一つの黒い影が現れた。
影は挟むように女の反対側に立ち、ゆらゆらとその体を揺らし始める。
「ったぁ……、は……、った……場所を……違って……、はぁはぁ……」
途切れ途切れの男の声が、激しい息遣いと共に耳へと入って来る。
「遅……って、……ませ……」
「……題……い」
「か、か……、大じ…………なの……」
「早……」
「あ……い……」
黒い影が大きくなり、男の顔が現れた。
「……いで………だろ」
「……い。……丈夫です」
視界が少し晴れると、今度は顔の前に小さな黒い影が現れ、それが左右に揺れ始めた。
「……とは」
「ま……」
揺れが速さを増す度、視界が狭まって行く。
「……ろそ……な」
「それ……良い……」
僅かな隙間から見える揺らめく影。チカチカと点滅を繰り返し、それが暗闇へと消えた時、夢で聞いたあの音が頭の中でひび――。
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