空と海のパラドクス 06
アレンが、
手にしていた端末をゆっくりと机の上に置く。
そこにはすでに、
向こう側の彼女にとっては、確かに見たことのある顔。
そして今この時、最も憎んでいるはずの顔。
「こんにちは…
いや、こんばんは。の方が良いのかな」
向こう側の彼女は、声のする方へ、ゆっくりと顔を動かす。
確かにそこに映っているのは、あの時と同じ実像であり、同時に虚像でもある。
きっと彼女なら、知らない人が見れば無表情、仏頂面に見えるアレン・フランツの顔を、
正確に―彼が今抱いているはずの、ほんの少しだけにじみ出ている感情ですら、描き取ってしまうのだろう。
そんなことを、ふと思った。
「僕が、誰だか、分かりますか」
彼女は、すぐには答えない。
しかし、その表情は明らかに、先ほど前に座っている二人に向けていた表情とは異なっている。
「いや、分かっていると思います。僕は」
『……あの、飛空士』
「…覚えていただけて、嬉しいです」
窓の向こう側では、微かに風で揺れる機体の音がする。
どこかで、名前の知らない鳥が、誰も理由の知らない悲しみを抱いて鳴いている。
画面の向こう側の彼女は、確かにあの時出会った彼女のはずなのに。
その顔は、目は、鼻は、唇は、
橙に変わっていく空へと、一緒に溶けていくように見えた、あの姿はもうどこにもない。
そこからはっきりと見えるのは、いったい何日分の涙を流し続けたのであろう、腫れ上がった目と、
赤くなってただれた鼻先、おそらく自傷したことで付いたであろう唇の傷だった。
まるで、一瞬で20年分ぐらい年齢を重ねてしまったような。
そんな、姿だった。
『………ど、うして』
願うならばそのいくつもの傷が、
自分が彼女を連れ戻したその前に、付けられたものであってほしかった。
『どうして、こんなことをしたの』
そして、もう一つだけ願いが叶うのならば。
画面の向こう側に見える、まるで牢獄のような彼女の居場所が、
本当は晴れ渡る陽の下、彼女を待っている人がいる外の世界で。
「……」
『答えなさい』
今見えている、まるで囚人のような扱いを受けているその場所が、
記憶によって作り出された偽物、海によって見せられた蜃気楼であってほしかった。
『答えなさいって言ってんのよ!!!!!!』
向こう側で、何かが壊れる音がする。
ホログラムの映像が揺れ、手に届きそうでとどかない虚像の向こうには、
一人の男性と女性が立ち上がり、彼女を懸命に取り押さえている様子が見える。
『アンタは、鬼だ!!悪魔だ!!
私から大切な家族を取り上げた最低な奴なんだ!!!
…くっ、離せ、この………クソ……野郎っ!』
『…コイツ、暴れるな…よ…っ!』
『カイツ、今すぐ通信を切りましょう。危険よ』
もし、その醜い絵にタイトルを付ける権利があるとしたら。
その絵のモデルとなっている人物から「最低」呼ばわりされているはずの、
画家である自分、アレン・フランツ自身でしかあり得ない。
「……」
『何か!言ったら!どうなのよおおおっ!!!!』
あれだけ夕陽に溶けていきそうなくらい綺麗だった、絵の中のモデルが、
今は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、叫んでいる。
やがて彼女が二人の手によって椅子らしきものに強引に縛り付けられ、
少しだけ落ち着きを取り戻すまで、待っていた。
そしてアレンは、口を開く。
「俺…………
いや、僕にも。
あなたのように、大切な家族がいたんです」
画面の向こうの彼女が、
既に醜くなってしまった顔をさらに歪める。
『だから何』
「僕も、確かにその時は『幸せ』だった。
あなたのように、幸せだと思っていたんです」
声が震えないように。
できるだけ、向こう側の彼女を刺激しないように。
『だから、それが、何か!』
ごめんなさい。
僕は、窓の外に。
ここからは見えていないはずの雲に向かって、謝罪する。
「――僕の家族も、全員。
交通事故で、死にました」
その時、画面の向こう側に座る、
彼女の表情が確かに変わった。
「いや、正確には
僕が 殺したんです」
画面の向こう側で、誰のものか分からない、
息を呑む音が聞こえた。
遠くで、鳥の鳴き声がする。
地平へと消えていくその姿は、
出かけて行っては帰ってくる風と共に、一つの記憶を運んでくる。
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