空と海のパラドクス 05

「彼女と直接話がしたい、だって?」


とある患者の容体急変に関して報告が入ってきた直後、

突然そんな連絡が入ってきた。


彼はもともとコンタクトを行っていた相手にしばらく待つように伝え、

端末の方に直接入ってきたコンタクトの方を優先させる。


彼のめずらしく困惑する声が、

狭くて異臭のする研究室内に響いている。


『はい』


「なんで、また」


彼は立てつづけに言った。


「お前も分かっているとは思うが、基本的に飛空士と『患者』が直接連絡を取り合うのは禁止されているはずだ」


『ええ、分かっています』


もちろん、そんなことは分かっていた。

そしてカイツには、彼がただ思いつきで連絡してきているのではない、ということも。


「なら、なぜ」


『彼女が最後、笑っていたように見えたからです』


「…………?どういうことだ」


彼は当然のように疑問を差しはさんだ。

しかし端末の向こう側からは迷い、無謀さ、それらが微塵も感じられなかった。

むしろそれは、確信のこもった声。


『いえ、ただそれだけです。なぜ彼女が最後、笑っていたように見えたのか。それを確かめたいんです』


「それが彼女のためになるとでも」


『いえ、それは分かりません』


即答された。


『これはあくまで、自己満足なのかもしれません。しかし、だからこそ、なんです。だからこそ、確認しなければならない』


「…何を」


『彼女がなぜあの時、笑っていられたのか、という点です』


「―お前、もしかして」


『はい』


カイツは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「重ねているのか、彼女と自分の境遇を」


『…はい、そうかもしれません』


またも、即答。


『彼女の言葉を、聞きたいんです。それに、どのように答えてくれるか』


網目のほとんどないフィルターに通したような、

本の少しだけくぐもった声が、端末の向こう側から聞こえてくる。


どこか遠くの方から、

鳥の声に似た泣き声が、微かに聞こえてくる。


「そんなことを確認して、どうする」


『それは、あなたには関係ありません』


「……ま、そうだな」


『でも』


真っ先に否定されたはずの言葉を、すぐに変化球で投げ返してくる。


『あなたにも聞いていてほしいんです。

彼女がそれになんて答えて、自分が彼女になんて言うのか、を』


―ああ、そうか。

彼はきっと、確認したいのだ。

自分の口で話し、自分の耳で聞き、実感したいのだ。


人が映像ホログラムとして映し出されるだけの海では飽き足らず、

実際の海を見るために、わざわざ足を運ぶように。

確かに海がそこにある、ということを、確信したいのだ。


きっとアレン・フランツにとっても、

彼女がどう答えるか、なんてことに正解はないのだろう。

ただそこにある、ということを確信したいだけなのだから。


「…俺は、責任は取らないぞ」


『分かっています』


そう聞こえたところで、端末の向こう側から聞こえていた、

彼の声に交じって微かに聞こえていた、風と波の音が聞こえなくなる。


彼は端末を置き、手元に何枚か散らばっている紙の束に目を落とす。

そこには、一人の女性の顔写真と、経歴が記されている。


一人の人物が、どこで生まれて、どのように生きて、

どのような人生を過ごしてきたのか。


そのほんの表面的な一部分しか、そこから読み取ることはできない。

そしてもし、その人物が経験してきた全てのことをこと細かく記している資料がたとえあったとしても、

それはその人物を本当に知ったことにはならないだろう。


それはなぜか。

なぜなら、その人物が本当はどのような人物なのか、なんていうことは、

誰にも、そして当の本人にも分からないからだ。


たいていの人は誰かのことを見るとき、

そこに自分なりの人物像をすぐさま重ね合わせる。

見ている人物のすぐ隣に、その人がどのような人か、といった情報が、拡張現実が、

まるでゲームキャラのステータスを表示する、ウィンドウのようなものとして固定される。


そしてそのウィンドウに表示されている、ひどく身勝手で不確かな情報をたよりにして、

対峙している人物に向かって接するのだ。


勝手に個体数値を振り分けた、自分が「友人」と騙っているはずの相手に対して、

そのように、接するのだ。


本当は何も、知らないのにもかかわらず。

本当は何も、知ろうとしていないのにもかかわらず。

あたかも、自分がその人のことをよく知っているかのように。


そして、確かにこの紙に記されているそれも、

顔写真として映っている彼女のステータスを正確に記してなんていない。

誰も彼女のことを、知らないから。

誰も彼女のことを、知ろうとしていないから。


そして、

ただ無為な時間をつぶすためにこんなことを考えている自分も、

きっとそんな自分勝手な人達と同じなのだろう―


「なあ、そうなんだよな、アレン」


彼は、彼が会話を終えたあと机に乱雑に置いた端末をもう一度手に取り、

そのセンサー部分を、自分の顔に向けてみる。


やがて小さな音がして、

端末がホログラムに、とある情報の羅列を表示し始める。

その速さは、まるで降り続ける雨のよう。


「俺も、お前のことを知らない」


そのホログラムに、確かにカイツと同じ、または少し若いぐらいの顔写真、

彼の生まれた日、年齢、所属、生い立ち、身長、体重…

そういった事細かな彼の『ステータス』が、

淡い雲のような光を透過しながら目にも止まらぬ速度で、現実世界へ映し出されていく。


今まで生きてきたことの証そのものは、

どんなアルバムにも、大容量ストレージにも、決して記録することはできない。


もし感情の全てをリアルタイムで数値化できる装置があるとしたとして、

それに何の意味があるのだろう。


「だから、おあいこだ」


だからこそ。

たとえば、きっと運命という名の計り知れないほどオカルトじみたもので、

実現してしまったその『装置』のようなものが、

確かに人の感情全てを記録、保存することが可能だとして。


そして、たとえばそれが誰も反論できないほど正確無比な代物で。

一人の天才によって、科学的にもそれに「意味がある」ということが証明されてしまったのだとしたら。

人類のうち誰一人として、それに反論する余地がないのだとしたら。


「アレン―お前も、きっと俺のことを知らない」


端末は、本来であれば誰もが『意味がない』『信頼できない』として片付けてしまうはずの、

無数の情報を際限なく表示している。


寸分の狂いもなく、リアルタイムに表示されていく情報の洪水は、

もはや人が理解できる範疇、限界という防波堤をとっくに凌駕し、飲み込んでしまっている。


勢いを増したその洪水は、やがて「海」という無限界に広がる記憶媒体へと流れ込んで、

誰も知らないうちに、喜びや悲しみ、苦しみや憎しみといった感情をすべて飲み込んでいく。


「だからお前なんて、こうだ。『べろべろばぁ~』」


そんな世界では、きっと今まで誰もが縛られていた時間という単位も意味をなさないもので。

それなのに、過ぎてしまった過去は、決して変えられなくて。


ただ降りしきる『雨』によって書き換えられていった既成事実だけが、

1ビットたりとも消化不良を起こさずに積み重ねられていく。


今この瞬間、自分が端末の向こう側に誰かがいることを想定して行っているこの変顔も、

きっと水平線の彼方へと、葬り去られていく。


もしこの瞬間だけを、いつも自分の後ろを付いて回るあいつに、

後になって『海』から抜き取られて、馬鹿にされたのだとしたら。

きっと、変な声をあげてしまうに違いない―



彼は、ただの思いつきで鼻を近づけ瞬時に投げ捨てた、よれよれの白衣を変顔でつまみ上げながら、

そんなことを考えていた。



『何してるの…カイツ』



「にゃっ」






























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