空と海のパラドクス 04


やがて、夢は終わる。

それが楽しい夢でも、悲しい夢でも。


「ナンバー3562番の、意識が戻りました」


「そうか、容態は」


「錯乱状態で、手がつけられない様子です。隔離室でなんとか落ち着かせようと試みていますが、改善の傾向は見られません。彼女の母親が、泣きながらガラス越しにその様子を見守っています」


「分かった、ありがとう」


「失礼します」


スタッフが退室すると、寿命の尽きようとしている椅子に座っていた彼はそのまま背に全体重を掛ける。

悲痛な椅子の叫びが、狭い研究室にこだまする。


「母親の気持ちは、たとえ俺でも分かる」


やっと娘の意識が戻ってきたというのに、まともに話も出来ていないはずだ。

その体を抱きしめてあげたいはずなのに、まともに触れてさえいないはずだ。

ただ、理想と現実のギャップに耐えきれず叫び狂う娘の姿を黙って見ながら涙を流すことしかできないその気持ちは、理解するなと言う方が難しいだろう。


本来、「患者」個別に対して情を向けることは禁止されている。

しかし自分が経験していないからこそ、分かる。

自分が同じような状況に置かれたとして、彼女のように壊れることがない、なんてことは断言できない。

もし同じ立場なら、きっと自分も同じようになってしまうだろう。


しかしそれでいて、飛空士のことを悪く言う人がいるのならば許さないと思う。

そんな自分こそ、誰よりも身勝手で我がままなのかもしれない、彼はそう思った。


彼は手元の端末を手に取って操作する。

やがて端末から声が聞こえてくる。


「どうしました、カイツ」


「俺もそっちに行っても良いか」


数秒間の空白があった。


「来るなとは言えないけれど、あなたが来てどうこうなるような問題ではないと思われる」


「まあそう言うなって、一応俺にも権限はあるんだから、ご一緒しても構わないだろう?」


まるで、食事か何かに誘うような口ぶり。

しかし決して彼は、ふざけてなどいない。

電話口の相手も、とっくにそれを察している。


「良いけど、それ相応の覚悟を持って来て」


「それは問題ない。すでに持ってるからな」


「そう、じゃあ隔離区で待っている」


「了解」


カイツは端末を置いて、ひとつため息をつく。

こんな時だけ融通が良いのは、誰に似たのだろう。

いや、自分か。


着ていたよれよれになった白衣を脱ぎ、専用の服に着替える。

白衣にはたくさんの記憶が染みついているはずだが、ここまで汚いとあいつにこの身体ごと消去されかねない。

今度きちんとクリーニングに出しておくとしよう。


端末の専用秘書に応対を任せ、

扉の電子ロックを解除し、退室する。

持ち主を残し、椅子に残された白衣から放つ異臭だけが、その部屋を満たしていた。



―――――――――――



「様子は」


「見て、あんな感じ」


強化ガラス越しの部屋をのぞく。


彼は無意識にあごの無精髭をさする。

剃り忘れている部分が指に当たって痛い。


「まあ、そうだよな」


「ええ」


「鎮静剤は?」


「もしこのままあの状態が続くようであれば」


「早目に打ってもいいぞ」


こちら側の部屋と、無機質な向こう側の部屋を隔てているのは、一枚の強化ガラス。

そしてその左側には、これも電子ロックで厳重に施錠されている厚い扉がある。


その扉は決して向こう側からは開かないようになっており、

この強化ガラスもまた然り。

向こう側からこちらの様子は見えないようになっている。


「まるで、牢獄だな」


「罪人はどちらかしらね」


「まあ、この状況からすると確実に俺たちの方だろうな」


彼は手元の端末を操作し、

ガラスの向こうにつながっているマイクに向かって話しかける。


『もしもし、もしもし、聞こえてますか?』


「あのねカイツ、通信じゃないのよ」


彼女が変な顔をする。


「しょうがないだろ。というか聞こえれば何でもいいだろう」


また、ガラスの向こう側にいる人物へ、語りかける。


『ちょっとお話したいのだけれど、具合はどうかな』


そうすると、机につっぷしていた”彼女”が、

ゆらりとパイプ椅子から立ち上がる。


「お、反応したぞ」


「お手柄ね、カイツ」


やがてガラスの向こう側から、小さい声が聞こえてくる。


―帰して。


「…ああ、そういうことか」


「そういうことね」


―『向こう』に、帰して。


まあ、そうだろうな。

彼はそうひとりごちて、次の言葉を続ける。


『とにかく、あなたの意識が戻ってよかった。

だから、できれば中でお話ししたい。どうかな』


「無理よカイツ、私たちがどれだけ苦労してー」


するとその時、ガラス側の向こうの彼女が、

少しだけ、首を縦に振るのが見えた。


「―嘘。」


「ほら見ろ。今日は俺の勝ちだな」


彼女は半分呆れた顔をしながら、扉の電子ロックを解除して、

カイツが中に入るよう促す。


やがて無機質な正方形のテーブルに、

並べられた二つの椅子に、

『彼女』を正面にして二人が腰掛ける。


「中に入れてくれて、ありがとう。気分はどうです」


いくばくかの空白があった後、


今度ははっきりと、『彼女』が口を開いた。


「私を、『こちらに』、連れ戻したのは、だれ。」


彼女の長い前髪が顔にかかり、ほとんどその表情をうかがうことはできない。

しかしながら、少なくとも機嫌が良いようには見えなかった。


「あなたを連れ戻して……いや、『連れ戻す』って言い方があまり好きじゃなくてね、申し訳ない。

あなたを助けてくれたのは、飛空士ですよ。あなたもその姿を見ているはずだ」


また、数秒の空白があった。


「飛空士…あの…飛空士…」


「そう、飛空士。あなたみたいな人を助けるために存在している人です。」


そういうと、完全に顔にかぶさっていた長髪を、少しだけ彼女が手で分けて、

その奥から目をのぞかせる。


その目は何かで殴られたのかと思うほどどす黒くなっており、

彼女が何日もかけて泣き叫んだ様子が見て取れる。

正直ここまでのものは、カイツにも予想外であった。


「あの、飛空士の、名前は」


彼女が、そんなことを訊いてくる。


「教えてあげても良いけど、なぜ知りたいんです?」


そう尋ねると、今までどんな感情も見て取れなかった表情が、

一瞬のうちに怒りの形相に変わった。


「あいつを、娘と、同じ目に、遭わせて、やるの」


「な…」


カイツは絶句した。

今まで多くの人と向き合ってきたが、こんな例はあっただろうか。

多くの人は現実を受け入れるか、受け入れなかったとしても、

たいていは年月がそれを解決してくれた。


中には、完全に精神が崩壊してしまって、元と同じような状態になってしまったり、

自ら命を絶つような人が、いなかったわけではない。


しかし、怒りの対象・特定の感情を、

自分を助けてくれたはずの飛空士に向ける人なんて、今までいたはずがなかった。


「…お訊きしたいのだけれど、なぜ、そう思うんですか」


彼が尋ねる。

自分の感情を抑えつけて、できるだけ冷静に喉奥から言葉を絞り出す。


「あの男は、私達家族の幸せを奪っていった」


彼女は、小さいけれど、確かに確信のこもった声でそう言った。


「私から、全てを奪っていった」


彼の握った拳が、よりいっそう強く握りしめられる。

爪が食い込んで、赤くなるほどに。


「私達家族は、あのままでずっと幸せだった」


彼女は今までため込んでいたであろう言葉を、連なるように紡いでいく。


「娘は、息子は、主人は、生きていた」


彼は今にも喉から飛び出しそうな言葉を、

押さえつける。


「生きていたみんなを、あの男が殺したのよ」


もう、限界だった。


「―違う」


彼が、さっき彼女に尋ねるのとは全く違う、

低い声で反応する。

横に座っていたメルが、その違いに反応して、少しだけ体を動かす。


「違わないわ、だって、私たちは幸せだった」


「いいや、違う」


「幸せだったし、私はそれで良かった」


「違う、そんなはずはない」


彼のきつく握られた拳が、

今にも無機質な机に叩きつけられそうになっている。


(抑えて、カイツ)


正面の彼女は、それでも言葉を紡ぎ続ける。

せき止められていた雨が、人の手によって暴力的な勢いで放流されるように。


「私の世界は『こっち』じゃない。『あっち』なの。もう『こっち』の世界に用なんてないの。

だから、帰して、今すぐ。ほら。早くして。」


「いや。あなたは、間違っている」


そう言って彼は、身に着けていた端末を操作し、

とあるホログラム映像を彼女に、わざとよく視界に入るように、見せつける。


「これでも、あなたは『幸せだった』なんて本当に言えるのか?」


彼女が、ゆっくりと首を動かして、

その移りゆくホログラム映像を目で追っていく。


「これは…何。何を見せようとしているの。」


「ここに映っているのは、あなたが今までいた、あなたの言う『幸せだった』世界だ」


「……!」


彼女の表情が、明らかに変わる。

そしてあれだけ流暢に紡がれていた言葉も、その時を境にしてせき止められる。


そのホログラム映像には、

どこかの、上空らしき映像が写し出されている。

何かが風を切る高い音と、エンジン音のような低い轟音が鳴り響いている。

それらがいっぺんに聴覚を刺激し、脳を混乱させる。


しかし、どれだけ澄んだように見える青空がそこにあったとしても、

そこに映っているのは、

確かにだった。


「本当はこんな映像見せたくなかった。だけどあんたが受け入れようとしないなら仕方がないんだ。

ここはついさっきまであんたが『幸せだった』と思って住んでいた世界だ。ほら、何が見える。何が聞こえる。」


彼女は何かの言葉を発そうと、口をぱくぱくさせるが、

そこから何か発音されることはなかった。


「そう、正解」


彼女は質問に対する回答となる言葉を何も発していないにも関わらず、


「何も、ないんだ」


と言った。

そしてその映像には、確かに何も無かった。

映っているのは、ただただ青いだけの空。

鳥一つ飛んでいないように見えるその空は、文字通り空虚そのものだった。


「うそよ。あなたは私をだまそうとしている。私はだまされない」


「そうか、割と強情だな。じゃあ、これを見てもそう言えるのかい」


そう言ったところで、

彼はホログラム映像を一旦切り、何やら小声で端末に向かって命令をしている。

隣に座っているメルの位置からだと、彼がこれから何をしようとしているのかが、

はっきり分かってしまう。


「カイツ、そんなことをしても、何にもならない」


「いいや、しなくちゃならない。

というより、本来はこうあるべきなんだ」


彼は端末を声で操作するのを止めない。


「なにより、俺よりもそれを望んでいる奴がいる」


その言葉が発せられるかどうかの瞬間、

メルがそれを力ずくで止めようとしたその時、

端末の向こう側から、とある声が聞こえてきた。


『…………カイツさん…ですか』


その声は、どこかで聞いたことがあると、メルは思った。

そして、ホログラム映像として彼の顔が映し出されたとき、

ああ―それは確かに『彼』だ、と実感した。


「アレン、急に呼び出してすまない」


『いえ、こちらこそ、ありがとうございます』


カイツの方から強引に呼び出したのに、

何だか話が噛み合っていない、とメルは思った。

しかしその真相は、次の言葉ではっきりと判明することになる。


「アレン、お前からこの女性に、話したいことがあるんだったな」


『………はい』


端末の向こう側から聞こえてきたのは、

はっきりとした肯定の言葉だった。































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