空と海のパラドクス 03





足元に、陶器の欠片が散乱している。

右斜め前には、彼女の服だったものであろう布が、

めちゃくちゃに破られ、裂かれて、もはや原型をなしていない。


綺麗に整っていたはずの、小ぎれいな年季物の収納棚はすべてが開けられ、

中身が飛び出ている。


テーブルに綺麗に並べられていた花瓶はひっくり返され、

見るも無残な姿で、床に散らばっている。


それは拭いても取れないインクで汚されてしまった絵画のように、

もう、元に戻ることはない。


今は見る影もなくなってしまった、

確かに彼女が「綺麗ではない」と言ったその通りになってしまった、

テラスからこちら側の景色を。


その被害を唯一受けずに、空へと伸びている名前の分からない花達が、

こちら側の虚空を茫然と仰いでいる。


その惨状の中でただうずくまっている彼女の背中は、

もうあの時のように、絵画に残すことはできない。


いや、逆だ。

むしろこちらの方が、絵画として価値のあるものになってしまうのだろうか。


「思い、出したんですよね」


花のように、優しく。

それでいて、棘のように鋭く。


「あなたが、存在しないはずの世界に、いることを」


その二十文字分の棘が、

容赦なく彼女の心を何度も刺して、傷を抉っていく。


「あなたが、『記憶だけの世界』に、いることを」


しかし、たとえて言うならば彼女は優秀な方だと言える。

むしろ、すぐに思い出すことのできる人の方が少ない。


たいていの人は、ゆっくりと、ゆっくりと、

蛇の毒が人の身体ををゆっくり侵していくように、

自分の置かれている状況に絶望して、徐々に心を浸食されていくのだから。


だとすると、まだ彼女は「救いがある」方なのかもしれない。

そして、こんな考えを巡らす自分こそ、残酷で、無責任極まりないのかもしれない。


「……存在しない、ですって」


ようやく、彼女が口を開いた。

体勢はそのままで、呼吸のたびに上下に動く背中だけが見えている。


「私は、ここにいる」


もしそれを確信しているのならば、どれだけ罵倒されても、

理論を並べ立てられても、心が揺らぐことなんてない。


「主人も、息子も、娘も、ちゃんと、生きてる」


しかし彼女は決して顔をこちらに向けようとはしない。

自分の言っていることに確信が持てないこと、

真実ではないかもしれないことを、彼女自身が体現してしまっている。


「ここに、ちゃんと写ってる」


彼女が、散乱した物の中から取り出したのは、

硝子面が割れて、中の写真がむき出しになってしまった写真立てだった。

もうその額面に、あの名前も分からない綺麗な白い花は咲いていない。


「見て、ここに」


何も言わずに、彼女が後ろ手でこちら側に差し出した、

壊れかけの写真立てを受け取る。


そこには確かに、先ほどもそれを確認したように、

彼女と夫、そして息子と娘の姿が映っている。

そこには確かに、みんなの笑顔がある。

そこでは確かに、みんなが生きている。


「その写真、いつ撮ったと思う?」


こちらがどうこたえるべきか思案して迷っている間に、

彼女が先に口を開いた。


「ちょうど、一年前よ」


うん…?


「一年…前?」


一瞬あれ、と思ったが、

いや、そうだった、と思い直して、

彼女の話に口を挟まず聞いていることにする。


「あの子も、花が好きだった。そして」


背中の側から、花の匂いが微かに漂ってくる。

それはとても、優しくて、

涙が出るほど、温かくて。


「娘は、天才だった」



その日は、よく晴れていたという。

娘が寝室から起きてきたときには、

すでに太陽は真上近くまで昇り、

その輝きが地面を照らしていた。


彼女がおはよう、と言ったので、

娘もおはよう、と言った。


今日はとても晴れているから、お出かけをしようか。

その提案に、娘はとてもうれしそうに、うん、と答えた。


彼女と一緒に出掛けたのは、隣町にある広い公園。

そこには緑と、彼女が好きな色とりどりの花が広がっている。

空にはいくつかの雲が、ほぼ何もない、澄んだ青空に浮かんでいた。


彼女と娘は歩きながら、とある場所を探していた。

見晴らしが良くて、それでいてひと気のない場所。


やがてそれに見合った場所を見つけ、

そこにとあるものをふたつ置いた。


それは、キャンバス。

一面の緑の上に据えられた、彼女たちだけのアトリエ。

無限に広がる空と、無限の色を描き出す、実体のない鏡。


彼女たちは無心に筆を振るい、

自分たちが描きたいものを、どんどん描いていく。


そのキャンバスには、そこ一帯に広がっている景色以上の彩りが、

彼女たちの右手によって、プラスされていく。


やがて最初に筆が止まったのは、

まだ十年ぐらいは娘より背の高いであろう、彼女の方だった。

今だけは、少しだけ娘より高いところから景色を見られる、母親の方。


娘がそれに気付いて、

何を描いたの、と母親に問うが、半分はもう分かっているようなものだった。


彼女が描いたキャンバスには、目前に広がっている花畑ー

彼女の手によって、さらに高く青空へと伸びている、無限色の花が描かれている。


彼女はその景色そのものを、正確に写し出している。

そして、少しだけ背伸びをしている花達が、光の中で躍動していた。


もしかすると、それは「分かる人」にとっては、

その絵画の腕に相応しい、かなりの価値が付けられるものかもしれない。


しかしその絵も、

隣にちょこんと座る画家の描く絵と比べてみれば、

誰が見ても分かるくらい、母親なら特にそう断言できる、非常にちっぽけなもので。


娘の描いたキャンバスには、

母親が描いたような色彩も、明彩も、正確さもない。


しかし、白と黒だけで描かれたその絵には、

そこから見えているものと、見えるはずのないものが描かれていた。


そしてそれらすべてが躍動し、そこに存在していた。

絵であるはずなのに。写真ですらないはずなのに。

確かに、そこに“ある”ように。


彼女が、娘におそるおそる聞いてみる。

これは、何―?と。


娘が描いた世界からは、白黒であるはずなのに、全ての色が見える。

そして、本来透き通るはずの青色で塗りつぶされている部分に、

とあるものが描かれていた。


―それは、見えない翼を持った、飛空艇。

空を半分ほど覆い尽くす、巨大な怪物。


目前の空は、ただ雲がいくつか浮かんでいるだけで、

快晴であることがわかるほど、何もないはずなのに。

娘が描いた絵には、確かに“それ”が存在していた。


これは、“とり”だよ。

わたし、おとなになったらぜったいこれに“のる”んだ。


確かに娘はそう答えた。

その無邪気で愛しい笑顔で、そう答えたのだ。


そのキャンバスは、今この瞬間の世界だけではなく、

いつか必ず訪れるはずの、未来の世界が描かれている。


一年後、五年後、または十年後…

いつかその時が来たなら、その絵と全く同じ景色を見られるであろう。


やがて成長して空を覆い尽くすほどになった“とり”のような、

飛空士が乗るはずの、飛空艇の姿を。


夢で見た、のだそうだ。

この場所で、母親がその“とり”を見上げて手を振り、

遥か上空で、娘が“とり”の上から地上に向かって手を振っているのを。


そしてその“とり”は、すでに上空を飛んでいるにも関わらず、

手を伸ばせばすぐ届くくらい、すぐ近くにいるようにも、

どれだけ天に続く梯子を上っても届かないくらい、はるか彼方向こう側にいるようにも見える。


狂っているはずの遠近法が、彼女の天性の才能によって重なっている。

本来なら決して交わらないはずの可能性が、同一世界に存在している。


それはまるで、逆説(パラドクス)だった。


母親がその絵にそう命名しようと試みたが、

娘の方がその絵の題名をすでに“とり”と決めていたようで、あえなく却下された。

もっとも、その言葉の意味が分からなかったようだ。


そして、その日のその景色を、ふたつの絵とともに残しておきたい、

と思った彼女はカメラを探したが、家に忘れてしまっていた。


じゃあ、家に帰ってから、みんなで撮ろうね―


そうして残ったのは、

二つのキャンバスを持って笑う、まだ少しだけ高低差のある画家二人と、

溢れんばかりの笑顔で彼女たちとともに写る、天才画家の助手、二人の姿だった。




そして“一年後”。


「私は、あの場所に―あの日と全く同じ時間に、行ってみたの」




そこには、やはりキャンバスを持って歩く二つの影があった。

一つの方の影は、広大に広がる草木に太陽を背にして伸びており、

もう一つの影は、目前に広がる花に太陽を向いにして伸びている。


「確かにそこに、“あの子”はいたわ」


二つのキャンバスを前にして、

二つの天才画家は筆を走らせていく。


おそらく一つは、目前に広がる世界を、鏡のように写し出して。

おそらく一つは、今の時間と、未来の可能性が重なる世界を映し出す。


その、はずだった。


だけれど、彼女の方は、何も描くことができなかった。

目前には、ため息が出るほど綺麗な花畑が広がっているはずなのに。


ただの一つも、その大気中に舞う花の欠片でさえも、

描きだすことはできなかった。


なぜなら、存在していないから。

そこに見えるはずの世界は、本当は見えていない世界だから。


存在する世界の全てを正確に模写することのできる彼女にとって、

存在しない世界を描くことなんて、できなかった。


そして彼女は、確かにその時も横にちょこんと座っている、

もう一人の天才画家が描き出すキャンバスは、


あり得ないほdの黒〒蝓九a蟆ス埋め縺上&繧後※縺翫j花も縲√◎草も縺薙↓縺ッ闃ア繧り拷譛ィ繧ゅ無か↑縺九▲縺溘?縺?縺代lけれ縺ゥど縺?▲縺吶i薄い縺ィ轣灰色ー濶イ縺ァ謠上°繧後※縺?k"縺ィ”とり”繧?縺瑚ヲ九∴縺溘?



― ――――  ――― ――――――― ――――――― ― ――――



あり得ないほどの“黒”で埋め尽くされており、

そこには花も草木もなかった。

だけれどうっすらと灰色で描かれている、

“とり”が見えた。


彼女は、何で黒で塗りつぶされているの、と聞いた。

しかし娘は、

え、ちゃんとかいてるよ。よく見て。ほら、と言った。







「“娘さん”は、

―いや、あなたの記憶の中の、娘さんは」


彼女の記憶をたどっている途中、

その言葉が口からふいに出た。


「確かに、描いていたのですね。

そこから見える景色を、一寸の狂いもなく、正確に」


彼女は答えない。

うずくまったまま、こちらに背を向けてどこか一点を見つめている。


ふわりと漂ってくる花の香が、

まるで何かを思い出させるように、記憶を刺激していく。


そうだ、記憶と『香り』は非常に密接な関係にあるのだと、

誰かが言っていた気がする、今になってそんなことを思い出してしまう。


「きっとそれは、確かにこの世界の未来だったのです」


その言葉を背中で受け止める彼女は、微動だにしない。

地面からただよってくる花の香が、彼女の背中を優しくさする。


「やめて」


背後で舞っていた花びらが次第に増えていき、

風に乗って、虚空に絵を描く。


「確かに“娘さん”は、今、ここに訪れるはずの未来を描いたんです」


ばらばらに舞っていたはずの、いくつもの色を彩る花びらが集まっていき、

やがてそれは一つの形を成していく。


「お願い」


いつの間にか震えている彼女の声と背中に呼応するように、

背後の“それ”は一つの形を形成して、そして新たな絵を、世界を描いていく。


「確かに娘さんは、そこに“いた”のです」


七色の花は重なり合って、無限色を作り出す。

いくつもの色で重なっていく花びらは、

やがて、ひとりの少女の姿になる。


「いや、いや、嫌……!」


ごめん、なさい。


ごめん、なさい。


ごめん、なさい。


その時、ほんの一瞬の風が。


無限に広がるように見える空と花畑を背にしていた、

アレン・フランツの横を通り過ぎて、

彼女の元へ向かっていく。


彼女がうずくまりながら首を振り続けるその肩に

優しく手が添えられる。




―お母さん、




彼女が、その声で勢いよく振り返る。


下を向き続け、二度と絵を描くことのなくなった画家が立ち直って、



「………………あ……ああ………あああ…」



そこに存在しているはずの、キャンバスに再び向き直るように。



「…………いや…いや…いや…いや、嫌、いや嫌いや嫌ああああああああああああ!!」



絶叫する彼女が描く、虚空のキャンバスには、

確かに今そこに見えているものが。


存在しているはずのものが、

彼女の記憶によって、寸分の狂いもなく、正確に描き出される。




『ただいま、お母さん』




本来なら、娘が帰ってくるはずの玄関から発せられるその言葉が、

今は、すぐ隣から聞こえる。


それは、彼女にとっては確かに“花”のようで。

決して何にも代えられないはずの、決して枯れさせてはいけないはずの、

大切な“花”で。




『お母さん、ごめんなさい。

みんなをさがしてたら、すっかりおそくなっちゃった』




その“花”が、母親の横に寄り添う。

もう片方の手で、今はもう皺くちゃになってしまった手を握る。




『でも、ちゃんと帰ってきたよ』




いつしか、彼女に寄り添う“花”は二つ増えて、

彼女の背中と、右側を包んでいく。


そこには、すでに三つの笑顔がある。

あの時守りたかった、

これから守っていくはずだった家族の姿がある。 


浮かんでくるのは、描き変えたはずの過去。

三人が横たわる病院で、無機質なベッドの横で、

ただ無事を祈り、泣き叫ぶしかなかった、あの日の景色。


もう、その心臓は動いていないのに。

もう、その手は握り返してくれないのに。




『ほら、みんなもいるよ。おとうさんに、おにいちゃんも。』




もはや、滝のように彼女の目からとめどなく流れる涙を。

悲痛の込められた嗚咽を、

その“花”たちが、やさしく包んでいく。


その綺麗で残酷な“絵”を、

もう今はただ見届けるしかないアレンの手が、拳が強く、強く握られる。

爪がめり込んで、血がにじむほどに。




『お母さん、ありがとう、愛してる』




もし、彼女のように。


もう二度と会えないはずの大切な人に

もう一度会えるとしたら。


もう二度と名前を呼べないはずの名前を

もう一度呼べるとしたら。




『お母さん』




大切な人が、“記憶だけ”の存在になっても

いっしょに、いられたなら。


その手をもう一度、もう一度だけ

握りしめられたのなら。




『また、会えるよ』




飛空士は、固く目を閉じる。


これからの景色を、決して見ないように。

これからの景色を、決して覚えないように。




『さよなら』





「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」









――――――――――――――――――――――――――――――――








その叫びの直後、

轟くほどの、地響きが発生した。

光に包まれていたはずの世界が、一気に暗くなっていく。


同時にとても強い風が吹き荒れ、

立っているだけで何も掴んでいなかった彼の身体は、

何かを掴んで支える間もなく、めちゃくちゃな方向へと吹き飛ばされていく。


―しまった。

完全に、不注意だった。


体勢を立て直そうにも、

今自分がどこにいるのか、どうなっているのかさえ分からない。


先ほどまで蒼く澄んでいたはずの空が、

今はもう、どこにも見えない。


ただ無秩序に飛ばされていく体は、

全く言うことを聞かない。


ああ、こんなところで終わってしまうのか。

いやだ、終わりたくない。

終わって、たまるものか。


アレンはその状態で懸命に手を伸ばし、

どこに触れるのかも、ぶつかるのかもわからない腕を振り回す。

せめて、何か掴まれる場所が―


「―――――!―――――――――!?―――――――!!」


まるで台風の渦に巻き込まれながら、

地に落ちていくような感覚の中、

微かに、どこかから彼の名前を呼ぶ声がする。


はっとして、

今発せられるだけの、最大の叫び声をあげる。


本当に外界に向かって発せられているかどうかすらわからない叫び声をただ上げ続けていると、


ふいに、轟音とともに彼の身体が何かに掴まれる感覚があった。

今まで四方八方に発散していた重力が、一つの方向へ引っ張られる。


「アレン!!つかまれ!!!」


この声は―


「急げ!『レイン』が始まるぞ!!」


その声とほぼ同時に、まわりの空間が歪んでいき、

100だったものが2000に、2000だったものが40000に、


40000だったものが、800000に、800000だったものが16000000に、

16000000だったものが、320000000に…


それらは限りなく無限に向かって、ばらばらに拡散していく。


めちゃくちゃに振り回していた腕を、

確かに声のする方へ、懸命に伸ばす。


そして限界まで広げた手を、何者かが(いや、もう分かっている)掴む。


「ちょ、ルクさん!本当にちゃんと、ぼふぉ、掴んでるんですかぁ!?

離しやがったら、うぼふぉ、風が、やばい、承知しません、よ!!?」


「うる!さいな!!お前も!!!引っ張れよ!!!!」


「うヴァ亜ああふぉっ!や、や、やってますよぉ!」


勢いに任せて、その腕(らしきもの)を引っ張ってみる。

強い風に乗った勢いで、力の作用する方向へと跳躍する。


腕(らしき何か)が重みでちぎれていないことを確認して、

今度は足を、少しだけ見えている段差に引っ掛ける。


「引っ張れええええええぇええええ!!」


「うおおおおおおおぼぼおおおぼぼぼぼお○△×□☆♡!!」


何語だかわからない雄叫びとともに、

彼の身体は身体の支えがある地面に投げ出される。


そしてそれとほぼ同時に、

支えのない、まわりの世界が無数に千切れて、

その塊は下へ向かって落ちていく。


そう、それはまるで、

「雨」のように。



「あ、あっぶねぇえええ!間に合った!

てかお前、どこ掴んでやがる!確実に何本か抜けただろうが!」


「し、しょうがないじゃないですかぁ!風が強くて良く見えなくてなんだか分からなかったんですからぁ!」



やがて、世界を構成していたそれらの破片は遥か下方へ見えなくなり、

まわりの景色が、一面の蒼に変わる。


もう、そこには雲も、絵も、キャンバスもない。

あの時一瞬見えたはずの笑顔も、

何も、ない。


そこにはただ無限に広がる青空と

ただ無限に広がる海が、


世界を、蒼い絵の具で塗りつぶしていた。










































































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