AIRS
AIRS 01
空に花火が打ち上がる。
赤、青、群青―それらが織りなすプリズムは円を描きながら、空の彼方へ消えてゆく。
港の中央にあるこの学校から見るそれは、とても華麗で、心を洗い流すようで。
今は昼間で快晴なはずなのに、それはとても空に映えている。
それと対になって、心の底にある不安と期待は織り交ぜになったまま、
夏の空をひとりでに浮かんでいる。
花火の次に巨大な爆発音を発して、どこからか砲台から祝砲が上げられる。
街を呑み込むくらいの大砲の音。
人々はそれを聞くと、おそらく新しい飛空士が誕生することを、毎年思い出す。
街の人は、その音を合図に一斉に窓から顔を出して空を見上げ、
新しい日の、未来の希望を祝い、それを願う。
今、この大陸一番の大きな校庭に、生徒が集まっている。
それらの生徒は皆それぞれ自分の好きな格好をして、一人ひとり何か、見えないものを背負って校庭に集まる。
その時だけは、お堅い制服の違いなど関係無くなる。
飛空士養成学校。
―通称「AIRS」と呼ばれるこの学校は、校庭は海からそう遠くない敷地に構えられている。
周りは緑が生い茂っておりまるで森の中のようなのだが、一つ目線の高さを変えると、青々とした海とそれに連なる浜辺が良く見える。
青く澄んだその海と、それを取り囲むここの空間の色は、まるで楽園かと思えるような景色に囲まれている。
学校は、土地の形に沿って建てられている。
ドーナツ型に建設されたその校舎には、クリーム色で塗られた壁伝い、教室やその他諸々の部屋が見える窓が、見える限りに連なっている。
その緑が青々と茂る校庭のちょうど中央にあたる場所には、建物2階分相当の大きな「飛空艇」のオブジェがどっしりと据えられており、
街の観光名所ともなっている。
いましがた生徒全員―100名ぐらいだろうかー
その群衆が、飛空艇のオブジェの周りに、円を描くようにして集まっている。
「おーいアレン、なんでそんな顔してんだ?またリュートにでも苛められたのか?」
同級生のルクが横から肩を勢いよく叩いてきたので、
自分でもそれが分かるほどあからさまに嫌な顔をして避けた。
「朝から元気だな。ルク」
「まあな、元気ださないとやってられないだろ!ジッサイ?」
はぁ。
また朝から五月蝿いのが。
してるんだぜ、と言われても。
こいつはどこからそんな自信が湧いてくるのだろう。
「ふーん。良かったな」
「そういうお前は、今いったい何考えてんだよ」
「はあ?」
「いや、はあ?じゃなくてだな、お前の今の仏頂面は、いったい何を考えてる時の顔なんだよ、ってこと」
「仏頂面なのはいつものことだ」
「そーかいそーかい、お、あそこにいるのは…」
校庭に向かう道には、ところどころに見上げるような高さの桜の木が植えられており、その下には木目のベンチが置いてある。
道狭しと並ぶそれら桜の木は、学校を象徴するほどの大きさ。
なにせとんでもなく大きい学校なので、学校も、それに伴ういろんな物も全て大きいのだ。
学校から校庭へ続く桜並木は全長三百メートル程である。適当だが。
こんなに大きな敷地にどうやってこんなにたくさんの桜を植えたのだろう。
この今歩いている石畳はどうやって敷き詰めたのだろう。
そんな場違いでしょうもないことを考えていると、
向こうから手を振ってやってくる、一つの影が見える。
「おーい。カード忘れてるよー!」
リラだ。
小さいころからの幼馴じみ、背はアレンよりも小さく、体も細い。
顔立ちも整っている。が、決定的にどこかが抜け落ちている。
おそらく頭は悪くないのだが。
リラは小走りで走ってきたので息が上がっている。
だがまんべんの笑顔だ。
たとえばそれは、彼女が『自信まんまん』のテストで赤点を回避した時の笑顔と同じ。
「アレン、これ忘れてちゃ試験受けられないでしょ?はい、これ」
どうだ、とでもいうように渡してきたのは今日の試験を受けるために必要なIDカード。
試験を受ける生徒は全員これを身に着けなければならない。
そういえば、すっかり忘れていた…
貰ったカードを首にかけて、彼女に向き直る。
「ありがとう」
それを言っただけなのに、彼女は怪訝な顔をした。
「…なんか無理してない?」
「全然」
「えっ?」
「してないよ。」
「嘘つき」
即答された。私には嘘をついても無駄、というような顔だ。
「そんな顔してたら、途中で堕ちちゃっても知らないからね?」
彼女は冗談にもならないことを言う。
「堕ちないよ」
「本当に?」
「本当だ」
そうは言っても、とても疲れた顔をしているだろうから、きっと全く説得力はない。
瞼もあおざめているだろう。
なにせ昨日は何だかわからない、そしてとても悲しい夢を見たはずで、
文字通り、一睡もできなかったからだ。
飛空士としては、きっと失格だ。
「大丈夫だから。」
そういってリラの肩をポン、と叩く。
彼女はその時何か言いかけたのだろうが、
胸に手を当てて、寸でまで出てきた言葉を飲み込んだ。
遠くで鐘が鳴った。そろそろ時間だ。腕時計を見ると、時間まであと15分しかない。
急いで向かうと、生徒は全員飛空艇像の周りに集まっていた。
皆水色のカードを首から下げ、その時を待っている。
「試験」。
それが白い紙に鉛筆で書くようなものだったらどれほど良かっただろう。
赤点などが存在する方の試験だったら、どれほど良かったのだろう。
一人ひとりの表情は明るい。というより垢抜けているように見える。
だがそれは、自分自身を取り繕おうと、虚栄として見せているものでしかない。
オブジェの周りに、皆が立っている。
だがとても、アレンはそこに一緒に立つ気になどなれなかった。
だから、少し離れたところで、時間が来るのを待つ。
そのオブジェは、確かに誰もが想像している『飛空艇』と同じものだ。
彼はそれを見つめるのと同時に、今まで退屈な教室で習ってきたことを思い返していた。
退屈でツマラナイはずの教科書にも書いてある、誰もが知るはずの、この世界の常識。
飛空士が乗る、飛空艇がある。
飛空艇は昼間しか飛べない。
飛空艇は太陽光を動力としている。
飛空艇には10人しか乗れない。
乗らない、のではなく、乗れない。
飛空艇は、空と海の境界、
人々が「水平線」と呼んでいる、その向こう側へたどり着くことができる方法である。
現実(海)と記憶(空)の世界を隔てる地平、水平線の向こう側へ。
飛空艇に乗るのは人類を守る戦いに出るためでも、
他国へ戦いを挑むためでもなく、
世界を見渡しに旅行に出る為でもない。
飛空士達に与えられたただ一つの使命。
それは、『記憶を守る』ことである。
人は、その生涯を終えると、完全な無になる。
無になった人の分だけ、歴史は時代とともに積み重なっていく。
そして過ぎていった歴史―
時間は、決して戻すことも、過去の特定の地点に戻ることもできない。
ただし、記憶だけは別だ。
人の意識を、自我を、その人を構成しているすべては、
その人が今までの人生で蓄積してきた、記憶によって成り立っている。
それは、産声を上げたその瞬間から、生涯の最期に至るまで。
過去の記憶は、書き換えることができる。
過去そのものを書き換えることは不可能でも、
その過去にかかわる記憶のすべて―そう、事実だけを書き換えることは可能である。
そして実際に、多くの人が記憶を書き換えてきた。
悲しい記憶、忘れたい記憶、自分に都合の悪い記憶。
それら、全てが『正史』として、
未来永劫、事実として記録されていく過去を。
だが、その代償は大きかった。
亡くなった人の記憶、積み重なっていく記録、それらは全て、とある場所に保管される。
それが、『海』。
あの広大で青い海は、今まで生きてきた人の、大切な記録、記憶そのもの。
喜び、悲しみ、驚き、憎しみ、苦しみ…
生まれてから、生涯を終えるまで、経験してきた様々な出来事、歴史、それらすべて。
それら幾億もの情報が、全て『海』に幾分の狂いもなく記録されていることが分かったのは、つい最近のことではない。
それは、一人の天才研究者の研究成果による。
『海』はどんな記憶媒体よりも比べ物にならないほどの記憶容積を持ち、
そして、どれだけ大容量の記憶媒体でも実現できない、とある要素の保存も可能とされた。
それが、人間の「感情」。
どんな大容量ストレージであっても記録、記憶できない、無数に存在し、無限に変化するはずの情報。
それを、海というストレージは、全て記憶してしまう。
そんな途方もない事実が分かったのも、その顔も分からない一人の天才研究者による成果だという。
そして、飛空士に与えられたのは、その『記憶』を守ること。
それは、選ばれた人しかできない仕事。
海の水は…記憶は、長い年月をかけて、空へと昇る。
空へと昇った記憶たちは、
とある一定期間だけ、幾千もの記憶を再構成する。
なぜそのようにして、人間の記憶だけが正確に再構成されるのかまでは、まだ分かっていない。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
再構成された記憶に存在するのは、記憶だけではない、ということだ。
それは、『人』。
レインが、ふとオブジェから目を逸らして、
ポケットに入れていた「それ」に目を移す。
今まで教科書の、ちょうど真ん中に栞のようにはさんであったスクラップ記事には、
とある女性の姿が映っている。
その女性は、とある人物によって、とある施設に収容され、
一歩も動くことなく、一言も話すことなく、
ただ、ベッドの上で、死んだように眠っていた。
どれだけゆすっても大声で叫んでも、彼女が起きることはなかった。
しかし毎日同じ時間になると、彼女は閉じたはずの目から一粒の涙を流した。
それは彼女が、確かに生きていることの、唯一の証であった。
そのまま一年、五年、十年が過ぎて、
それでも、彼女が自分の意志で起き上がることは無かった。
しかし、十五年が過ぎようとしていたその時、
彼女のもとに、とあるものが届けられた。
それが、『記憶』。
彼女が、ずっと失っていたはずの記憶だった。
それは幾年を経て、海から空に昇った際に再構成され、
その記憶はとある飛空士の手によって、取り戻された。
そう、彼女は長い眠りから、戻ってきたのだ。
彼女は、彼女のことを待つ人のところへ、帰ることができた。
今彼女が、どうなっているのか。
その情報は、その後のどの記事にも載っていない。
きっと誰も、それを知る術はない。
レインはスクラップからようやく目を離して、
また、目前のオブジェを見据える。
記憶が再構成された時、その時だけ、
人はその記憶に『干渉』することができる。
現実ではない、記憶だけの世界へ行ってしまった『記憶』―
いわば、『人』そのものを、取り戻すことができる。
そしていつしかそれらの記憶は、また海へと還る。
それが、雨であり、人々が『レイン』と呼ぶものである。
水の循環。世界が誕生した時から備わっている、
きっと神様にしか変えられない法則。
一つひとつの記憶だった塊は、
ばらばらの雨となって、地上に降り注ぐ。
けれどもうその時には、すでにだれの記憶か、いつの記憶かも分からない、
ただの断片になってしまう。
そしてその『レイン』によって、人々の記憶は書き換えられる。
それがーその時こそが、人の本当の『死』であり『消滅』なのだ。
だから、取り戻す。
空を守る飛空士には、その使命がある。
「…こんなところだったっけか。」
何かを忘れている気がする。
とても大切なことを。
「なにが?」
深い意識の底へ沈んでいた彼を現実へと引き戻したのは、
隣にいる、少し彼より背の低い幼馴染の姿。
「いや、なんでもない」
「…そう」
「うん」
それが合図になったのかどうかは分からない。
彼女が、服の袖口をきゅっと掴んでくる。
「やっぱり、お前も不安なんじゃないか」
「私は不安じゃないなんて、一言も言ってないよ」
彼女がさらに袖口を強く掴んでくる。
服にできた皺が、いつだったかほつれて彼女が縫ってくれた袖口の形を思い出させる。
「そうだ、これを渡そうと思ってたのを忘れてたよ」
彼女は突然そう言って、
自分の手に何か固いものを握らせてくる。
それが何かを確かめようとして、手を開こうと―
「だめ」
「え?」
「忘れちゃ、だめ」
「…何を?」
彼女はその質問には答えず、
それでもその暖かい手によって固い何かを握らせたまま、
いつにもない真剣な表情で、こう訊いてくる。
だから茶化すことも、誤魔化すこともできなくて。
「ねえ、アレン」
「なんだよ」
「その名前は、どこから付けたの」
「お、お前…」
「アレン、答えて」
彼女は一切表情を変えずに、そう尋ねてくる。
その澄んだ目にすべてを見透かされているような気がして。
自分のすべてを。誰にも話せない、その過去さえも。
記憶と一緒に封じ込めてしまった、
きっと空へと昇華させてしまった、自分の全てを。
「空を飛ぶなら、向き合わなきゃだめ。
私があのときそうしたように、あなたも向き合って」
もう、いつもの彼女はそこにはいない。
そこにいるのは、「あの時」確かに自分の手を取ってくれた、
助けてくれたその「彼女」がいる。
「…僕には、二人の兄妹がいた」
「………」
彼女に握られているはずの手を、
もう片方の手で握り返す。
「彼らは『アレン』と『フランツ』という名だったんだ」
さらに、その手を強く握る。
もう、二度と離してしまわないように。
「『アレン・フランツ』
―僕があの時から名乗ることにした名前だ。そしてリラ、お前が取り戻してくれた名前でもある」
もしあの時、ここにいる彼女が手を握ってくれなかったとしたら、
助けを差し伸べてくれなかったとしたら、
自分は、どうなっていただろう。
きっと、いや確実に、ここにはいなかった。
ここに立って、このエンブレムを腕に付けることもなかった。
飛空士になって、誰かの助けになりたいと思うことも、きっとなかった。
「だから、ありがとうな」
既に震えている自分の手を、
彼女の手に何度も重ね合わせる。
「あの時、僕の母親を助けてくれて、ありがとう」
「でも…!私は、助けられなかった!」
彼女が、叫ぶ。
やがてどこからか、それはきっと、淀んでいく空から落ちた一粒のしずくが
握っている彼女の手に滴り落ちる。
「僕を助けてくれて、ありがとう」
「……!」
何粒も、何粒も滴り落ちる記憶の破片が、
彼女の手を濡らしていく。
やがて、それが雨か涙か見分けがつかなくなってしまう前に。
気遅れして、後悔して、後戻りしてしまう前に。
「だから」
いつか見た、
自分のために空へと飛び立っていった彼女の背中と。
その手から、海へと落とされたいくつもの大切な記憶と。
「今度は」
そして、
それをただ茫然として、見届けるしかなかった哀れな自分と。
その手で、彼女の最後の言葉を拒絶し続けたあの日の記憶と。
「僕が」
やがて遠くから近づいてくる轟音が、空全体を覆う。
強風に揺られて、身体が左右に揺れる。
だけれど、この気持ちは止まらない。
「助けるから」
握りしめるその一つひとつの感触が、もうすでに乾いているはずの滴に反射して、
心の中のもやもやを消し去っていく。
もうここからでは、見下ろしてもくれない鳥たちが、この間にも水平線の向こうへと消えていく。
その鳥たちの泣き声に答えるように。
あそこに広がっている海の砂たちみたいに。
もう、決して何もこぼさないように。
一度握りしめたはずの拳を、さらに強く、強く、
爪がめり込んで血がにじむまで、握りしめる。
「行って、きます」
その決意のような、本当はただの独りごとを。
確かに今そこにいた、そして、もうここにはいないはずの大切な人に。
すでに覆う温もりすらない、右手が握っているのは、一つのペンダント。
やがて水平線の彼方へと消えていってしまった一羽の鳥が、
その空を、風を少しだけ震わせるような泣き声で
確かに、応えてくれた。
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