それぞれの、空と海
それぞれの、空と海 00
遠くまで聞こえていた波が、たった一秒で、その色付きを変えていく。
近いようで遠いところで光っていた太陽も、その大きさを変えていく。
そんな「波」と、「光」の狭間に立っている―ここにいると、そんな錯覚を覚える。
まるで自分が、空と一体になったような気分。
とても誇らしい、そしてとても切ない、いろいろな感情がごちゃまぜになったような感覚。
そんな感覚が、とっても好きだった。
私が握っている端末からは、
私の呼び出しに応えてくれる声は聞こえてこない。
どれだけ願っていても、向こうが答えてくれない限り、私の声は向こうへは届かない。
こんなに近いのに、こんなにも遠い。
「はぁ…」
手に握った端末からいつかは声が聴こえてくることを期待して、私はその「狭間」に立ち続ける。
いつもより光沢の掛かった赤い端末は、夕陽の色に照らされて滲んで見える。
少しだけ手汗の付いた端末を、私は服の袖で水分をふき取る。
「一度くらい、出てくれてもいいのにね。」
端末にぶら下がっている、くりっとした目をした犬のマスコットを、少しだけ握りしめる。
犬の表情が少しだけ苦しそうに見えて、私はすぐに手を離す。
「もーいいかい……まぁだだよ」
あの日は、とっても短い日だった。
あいつと一緒にかけぬけた草原は、今みたいなオレンジの太陽に照らされていた。
そしてその時も、このくらい肌寒かったことを覚えているけれど、
あの時は走っていたから、そんなことには気が付かなかった。
走って、走って、走って。
それでもあいつが見つからなくて、
もう、私を忘れて置いて帰ってしまったものだと思って。
でも本当は、あいつから見つかりにくい場所に隠れたのは、
私自身だった。
そうだ、私が望んで、あいつが絶対探せないような場所に隠れたんだっけ。
懐かしいなぁ。
今だったら、どのくらいの速さで見つけてくれるだろう。
そんなことをふと考えながら、私はまた端末の画面を確認する。
そこには、さっきと同じ無機質な情報の海が広がっている。
「もう…来ちゃうよ」
私が一つ呼吸をするたびに。
吸って、吐いて、そんな動作を一回行うたびに頭の上の空から聞こえてくるその「音」は、
空に溶けていく太陽と同じくらいの速さで近づいて、大きくなってくる。
「もう、来ちゃうんだよ」
それはここにいないあいつに問いかけるように。
どれだけ取り繕っても震えている声を、押し出して。
いつも私の横を歩いていたはずの、
あいつにそれを肯定してほしいから、そう聞き返すように。
突如、オレンジの太陽が照らす光の流れが変わって、
私は眩しくて腕を上げて目を隠す。
隠した視界の隙間から、さっきより僅かに大きくなった、
「音」の正体が空を覆って見える。
やがて、いつかは完全に空と海を覆ってしまうそれが、
海で生きる魚たちにとって、私達にとって、日陰のようでありますように。
「ほら、時間切れ…来ちゃった」
「あなたが、悪いんだよ」
私は眼前に、今にも空へと溶けていきそうな海を見下ろしている。
その境界に向かって、一直線に伸びているこの細い道。
一歩踏み出すことによって、さらにその境界はぼやけていく。
「私を、引き留めてくれないから」
「私を、見つけてくれないから」
音は、さらに大きくなっていく。
さっきまで耳鳴りのようだったそれは、すでに地響きのような感覚へと変わっている。
それとともに、雲一つ分を覆っていた「それ」も、
今はどれだけの数の雲を覆っているのだろう。
覆っている雲の数は変わらないはずなのに、
人がそれを観測することによって、その雲の数は増えていく。
私達の心より、存在より、希望より、それは身勝手にどんどん大きく膨らんでいく。
そして身勝手な心の中に、
今はもう半分くらいになってしまった空がこう語りかける。
あなたが、決めたことだから
あなた自身が、決めたことだから
だから、前へ進みなさい
「そうだね、ごめんね」
私は眼前に、強く握りすぎていた端末と、腕を上げて。
海よりも、空に近い方にそれをかざす。
「私が、悪いんだよね」
やがていつかは、バラバラになっていくはずの想いを、
言葉を、記憶を。
いろんな思い出の詰まった、今はもう空と同じ色に光る端末と一緒に。
手を開いて、それは下へと落ちていく。
垂直落下していくそれは、鳥が翼を失って落ちていくように、
でも限りなく優しく、海の底へと吸い込まれていく。
「私、行くね。」
だから、もしこれから海を見る機会があったら、思い出してほしい。
私のことを。私と過ごしたたくさんの思い出のことを。
塊だったものが、いつかはバラバラになって、
地上に降り注いでしまう大切な欠片たちのことを。
あなたの代わりに、
消えていってしまう、二度と取り戻せない、欠片たちのことを。
「風、強いなぁ」
強風に揺られて、身体が左右に揺れる。
だけれど、動く足は止まらない。
踏みしめるその一歩一歩の振動が、コンクリートの地面に反射して、
心の中のもやもやを消し去っていく。
もうここからでは、見下ろしてもくれない鳥たちが、この間にも水平線の向こうへと消えていく。
その鳥たちの泣き声に答えるように。
あそこに広がっている海の砂たちみたいに。
もう、決して何もこぼさないように。
一度握りしめたはずの拳を、さらに強く、強く、
爪がめり込んで血がにじむまで、握りしめる。
「行って、きます」
その決意のような、本当はただの独りごとに
地平線へと消えていく鳥たちが、
その空を、風を少しだけ震わせるような泣き声で
確かに、応えてくれた。
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