それぞれの、空と海 04
「彼女」が、呼んでいる。
自分を求めて、呼んでいる。
意識せずとも分かるその感覚を頼りに、注いでいた紅茶のティーポットをトレーの上に慎重に戻す。
あとで帰ってきたときに冷めてしまわないように、少しだけ湯が熱いままで、そのままにしておく。
呼ばれたら、すぐに行かなければならない。
それが自分の存在意義であり、生きている証でもある。
だから料理中でも、掃除中でも、洗濯中でも関係なく、
すぐに声のする方へ向かわなければならない。
でないと、声がもう、聞こえなくなってしまうから。
そのまま一生、聞こえなくなってしまいそうだから。
「はい、ただいま!」
できるだけ床に散乱したものを踏まないようにして、
『私』は彼女がいる部屋へと向かう。
あとで彼女に諌められない範囲で、床に散らばっている物を片付ける必要がある。
所要時間は、軽く見積もっておよそ5時間~6時間。
その分のスケジュールを頭の中でとっさに組み込み、
他の時間配分を調整していく。
らせん状になった階段を上り、
「彼女」がいる部屋へと向かう。
階段の足場は年季が入って古くなっているからか、
ギシギシと危なっかしい音を鳴らす。
やがて「彼女」の部屋の前にたどり着くと、静かにその扉を叩く。
できるだけ優しく、慎重に。
『急に呼び出してごめんなさい、入っていいですよ』
扉に遮られてはいるが確かにそう言う声が聞こえて、
金色の取っ手を握って、大きな扉を開く。
しかし、扉を開きかけた途端、
『あああ!ちょっと待ってくださいね!』
その声とほぼ同時に中で何か物が崩れる音がして、半開きだった扉を、
―その隙間から見えたものは見なかったことにして、ゆっくり慎重に閉めていく。
それとほぼ同時くらいに、下階の方で玄関の呼び鈴が鳴る。
その鈴の音を聞いてから瞬時に、考えをめぐらして次は何をすればよいか、考えを巡らす。
『お嬢様、お嬢様、わたくし、先に来客対応をしてきても宜しいでしょうか』
その声に応えるものはなく、
ただ何かが崩れた後の残響のような音が聞こえたので、
こちらは後で対応することにして、
先に来客の対応を行うことにする。
『お嬢様、先に玄関の方に行ってまいります。対応が終わりましたらすぐ参りますので、
少々お待ちください。』
少し声を大きめにしてそう発言してみたものの返事がないため、
踵を返してらせん階段をゆっくり降り、開けた玄関口へ向かう。
そして、郵便物が入る郵便口から、
少しだけ顔をのぞかせている、少年らしき何かに向かって、ほほえみかける。
『今開けますので、少々お待ちください。』
そう言うと少年は郵便口から顔を遠ざけて姿勢をただし、
玄関口が開けられるのをおとなしく待っている、その様子が半透明の硝子に映り込む。
その様子を確認してから玄関口を開くと、
確かにそこには、まだ年は10も行っていないと思われる、少年が立っている。
「こ、こんにちわ」
『はい、こんにちは』
礼儀正しく、だけれど何か挙動不審な少年の姿を見て、
優しく語りかける。
「今日は、どうなさいましたか?」
『え、ええと、「あの子」いますか?』
「ええ、おりますよ。」
そう言うと、その少年の表情はみるみる明るくなっていき、
文字通りその幼い目を輝かせ始める。
「っ…じゃあ……!」
会えますか、という言葉を少年が発する少し前に、
本当に申し訳が立たないという表情をしながら、
『大変申し訳ございません。
本日もお嬢様はご多忙の様子でして、直接お会いするのは難しいようです』
「…っ!……なんだよ、ちぇっ」
『わざわざおいでくださいましたのに、申し訳ございません。ただ、差し出がましく恐縮なのですが、
そのような汚い言葉は、可能な限り慎まれた方がよろしいかと思います』
優しい表情で、ただし毅然とした態度でそう語りかけると、
不満顔だった少年も、次第に諦めたような顔をして、こちらの言葉に理解を示したことを表す。
「…わ、分かりました。また来ます…」
「それがよろしいかと。大変申し訳ございませんでした」
そういって一礼すると、
少年は踵を返して立ち去っていく。
地平線に消えていくその少年の表情が、背中が、
「まだ諦めませんから」と、確かに語っている。
その背中を見送って、お嬢様のもとへ戻ろうとしたとき、
何やら遠くから、地響きのような何かが迫ってくるのを感じた。
いや、地響きというと語弊があるだろう。
それは、地上から来ているというよりは、頭上―空から響いてくるものだ。
天を仰ぎ見てみると、おそらくその音の原因となっている正体が見えた。
今はまだ天のようでしかないそれは、少しずつ、少しずつ大きくなっている。
そして同時に、きっとこのような景色を、今までにも幾度か目にしたことがある、
そう感じた―いや、確信する。
確信したのは、確かにこの『心』で。
決して実体が無いはずの、この『心』で。
やがて少しずつ大きくなっていく感覚に敢えて目を背けるようにして、
半歩だけ外の世界へと踏み出していた足を戻し、中へと戻る。
扉を閉める前に、目線だけ後ろを振り返る。
果てのない向こう側には、限りない空と、限りない海が広がっている。
「お嬢様、ただいま戻ります」
そう呟いてから、
『私』は見えない何かから、
『私』が犯した罪から逃げるかのようにして、
扉を完全に閉めた。
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