それぞれの、空と海 03
無病息災、無味乾燥という言葉があるが、
一見対照的なその二つの言葉は、
確かにどちらも今の自分に当てはまる、と考えていた。
当然ながら病気も怪我もせず、苦難も苦闘も経験せず、
結婚や離婚も(これは違うか)せず、
死ぬ時間際の苦しみも味わわずに過ごした人生ほど、
無味乾燥なものはないのではないか。そう考えていた。
まるでそれは、干からびた和菓子のよう、
今ここからちょうど45度傾いて見える机の上に乗ったままになっている「それ」、そのものだ。
食べれば食べられないこともないが、まだ食べていない段階では一厘の魅力もない。
それならばまだ、窓に嵌った(これも45度傾いて見えるが)鉄の格子から見える外の景色の方が、
面白みがあるというものだ。
この目から見えるすべてのものは、食べようと思わなくても、勝手に視界から取り入れてしまう流動食のようなものだ。
食べたくないものまで、消化してしまう。
見たくないものまで、いろいろ見えてしまうのだ。
「っ…痛た、いたたたたた…」
まるで新品の石屋の石のように固いこのベッドからは、
どんな温もりも得ることはできない。
このようにして体を少し起こすだけで、
半分むき出しになったこの骨に、その冷たさが突き刺さって痛い。
いや、実際のところは若者ならばこのベッドを、
「ふかふかの」と形容するところだろうが。
ただ白くて柔らかいだけのベッドは、自身にとってはそれこそ「ふかふかの」とは真逆の存在である。
まだ固くて冷たい方が、精神的に寝心地が良いというものだ。
だから今度はその状態から体の向きは全く変えずに、
視線だけ右の方に動かしてみる。
そうすると、無機質な白い丸枠の掛け時計が見えた。
今はちょうど、夕方の5刻、17時を指している。
とっくにおやつ…茶菓子の時間は2刻ほど未来へ過ぎ去っている。
この歳で「おやつ」もあるまいな…そう考えて、ひとりごちた。
「オガタさん、お調子はいかがですか」
ちょうど背中の真後ろから天使のような声が聞こえてくる。
実際には、(少なくとも自分にとっては)それとは真逆の存在なのだが。
「ああ看護士さん、ちょっとこちらへ」
「? どうされました?」
そんな、誰もが「白衣の天使」と呼称するその「白衣の悪魔」を、
自分のちょうど右前(視界が45度傾いているから、本当に右前と称して良いのかは分かりかねる)にある椅子に指さしして、
そこに座るようジェスチャーした。
そして悪m…看護士が指示通り目前の椅子に座ってくれたところで、口を開いた。
ああ、ここから見る景色は悪くない。
これにはそう、色々な意味合いが包含されている。
「ちょいと申し上げたいのだが」
「はい?」
「おちょうしも」
「ああ、おトイレですね。ちょっと待ってください」
「話は最後まで聞きなさい。そんなことは言っとらん」
「ああごめんなさいね、それで?」
「おちょうしはどうですか、とはいったい何語なんだ」
「はい?」
悪m…看護士が変な表情で首をかしげる。
ここからは(45度傾いて見えるので)実際は90度程度の傾き加減と推測する。
いや、それは今どうでもいいことだ。
「『お調子はどうですか』とは、いったい何語なのだ、と聞いたんだ」
「はあ」
「はあ、じゃないよまったく。なんで最近の若者は正しい言葉を使えないのかね」
「すみません」
「正しくは『ご体調はおいかがでしたのでしょうか?』だ。ほら、言ってみなさい」
「ご、ご体調はおいかがでしたのでしょうか??」
「何だ最後の余計な疑問符は。はいもう一度」
「ご体調は、おいかがでしたのでしょうか?」
「そうだ、それでいい。我は元気快活100パーセントである。君もやればできるじゃないか」
「はあ…ありがとうございます。」
彼女が恥ずかしそうに顔を赤らめながら、そう答える。
前述したがここからだと顔が傾いて見えるので、その真偽は分からないが。
「たくさんの患者さんを相手にするなら、正しい日本語を使いなさい。分かったね。」
「…はい…わかりました…」
悪m彼女がそう言って首を縦に振った(45度傾いているがそのように見えた)ので、
腕をほとんど動かさずに、掌だけで、もう行け、というジェスチャーをした。
それを見た看護士は心底嬉しそうな、ほっとしたような表情を浮かべて、
椅子から立ち上がって部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、優越感に浸る。
今日も一人の間違った意識を有する現代人を戒めることができた。
これでほんの少しだが、この国の未来は明るくなったことだろう。
なぜか看護士が出ていくとき部屋の電気を勢いよく消されたが。
それよりも、先ほどから何やら部屋の外が騒がしい。
人間の喧騒による騒がしさというよりも、何か大きな存在が徐々に近づいているような騒がしさ。
ふと頭に浮かびあがったのは、あの…ゴリラ……モギラ……?だったか忘れたがそんなようなタイトルの特撮映画。
小さい頃母親の温かい手に引かれて通った小さな映画館で、幼いながらもひどく感動したのを覚えている。
もちろん映画で得られる感覚は、視覚と聴覚でしかない。
しかし今は、それらだけでなく身体全体で感じているような感覚。
何だか少しだけ若いころに戻ったようで、嬉しくなった。
だが今はもう皺だらけの皮膚で覆われた腕をなんとか支えにして、
上半身だけ起き上がる。
荒い息を付きながらのっそりと起き上がることに成功すると、
ようやく窓の格子の向こう、45度傾いてでしか見えなかった、音の正体がはっきりした。
―それは、空に浮かぶ、『怪物』。
世代にかかわらず、そう形容するほかない、塊。
それは見る者によって、七色の綺麗な翼を持つ鳥にも、炎をまとった槍を持つ異形にも見えるだろう。
「今年は、一段と大きいの」
いつか見たそれと、本当は同じ大きさのはずなのに、
それを見るこの目が衰えていくのと並行して、それは自分の中で存在感を大きくしていく。
子どもの頃には怪獣映画の怪獣が、
怖い親や建物よりも何よりも大きく感じられたのに
成長してから見ると、その半分か、三分の一ぐらいに小さくみえる、
あれとは真逆の現象。
いつの日か、自分の身体ごと飲み込まれてしまうのではないか。
まるで子どものようにそう思ってしまう、そんな感覚。
友達と仲良く公園で遊んでいると、
とっくに門限を過ぎていて、母親が迎えに来たときの母親の表情のような、
あの感覚。
本当は怖いはずなのに、安心する。そして、その逆もまた然り。
やがて音と振動は次第に大きくなり、
この歳になって遠くなった耳でもその大きさがはっきりと感じられるほどになる。
もしそれが地上から歩いてきたものならば、空へと飛んで逃げることができる。
だが、空から飛んできたものだから、どこへも逃げることはできない。
もはや地上に、逃げられる場所など無いのだ。
窓に等間隔に嵌った格子を両手で握りしめ、
その姿をこの目でより鮮明にとらえようとする。
「もう、こんな時間か。歳を取ると時間の流れが速くなっていけないな。なぁ、
アンタもそう思うだろう、母さん。」
そう言って視界にとらえた先には、
無機質な机の上で造花と一緒に埃の被った写真立てがある。
そこに写っているのは一人の若い女性と、幼い子ども。
女性の方が子どもの上に伸ばした手を優しく掴み、
子どもと一緒に笑顔で「ぴーす」をしている。
それら二つの可憐な花が、風で揺れる瞬間を決して逃さないようにしようと、
カメラを構える両手はその一瞬を、二人の笑顔を、時間から切り取る。
「はい“チーズ”
…いや“チャーンス”、だったか」
冷たい窓の格子を握りしめた右手の人差し指が、
まるでカメラのシャッターボタンを押し込むように、かすかに動く。
何故だか、目から海の波のように溢れてくるものを押しとどめようと、
意識的に、まばたきをする。
「どちらでも、良いか。」
それに合わせて、この窓の向こう側
―あの時、確かにこの目で覗いていたはずのレンズの向こう側の景色が、
ほんの一瞬だけ、暗転した。
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