空と海のパラドクス
空と海のパラドクス 01
飛空艇が息を鎮める。
その巨大な怪物が、海の漣を覆う。
波は一つ高く打って、また元の地平へ戻っていく。
船に乗り込んでから、小一時間。奇妙な感覚と感触を覚えたまま乗り込んでから、まだ手の震えが止まらない。
武者震いというものなのだろうか。
それともまたそれに似た別の何かなのだろうか。
港まで見送ってくれたリラが最後にくれたのはペンダント。
星の形に似た蒼い宝石が2つ、小さな縁にちりばめられている。
ポケットに入れるとなくしてしまいそうなので、それをしっかり首から下げる。
「空の景色、絶対教えてね…か。」
その様子を見られていたみたいで、船尾に歩いてきたルクが脇腹を小突く。
「おっ、なんだそれ。誰からもらったんだよ。もしかして―」
「誰でもいいだろ」
ルクは狡い顔をしてへぇ、と声を鳴らした。何か勘違いをしているらしい。
「いいよなぁ、お前は、そうやって見送ってくれる人がいてさ。羨ましいぜ。
俺なんかさ、今日すら朝起きれなくて母さんにこっぴどく怒られた夢を見たよ。
『飛空士が朝起きれなくてどうすんだい!』ってなぁ。
まぁ、間違っちゃいないよな。俺もこの期に及んで、朝もろくに起きられないなんて、先生が聞いたら、俺だけメンバーから外されてた気がする」
彼は笑ってそう言う。だが笑いごとではない。
朝起きられないのは飛空士にとっては重大なことなのだ。
「…外されたら良かっただろ」
冗談(本気)で返した。
「空の上でなんてこと言いやがる」
彼は笑顔でそう答えた。
だがそう答える瞬間、彼の表情に陰が落ちたのを、
見逃さない。
彼は自分の手を眺めながら、風の吹くままに揺れている。
風が段々と強くなっている。
人はどのくらいの高度まで、船室に入らなくても耐えられただろうか。
そんな場違いなことを考えてしまう。
「―俺さ」
ルクがその顔を歪めて悲しそうな顔をして口を開く。
風が強い。彼の金色の短髪がなびいている。
「…正直、昨日まで迷ってたんだ。」
「………え…?」
「俺はこの船に乗るべきか、乗らざるべきか。この船に乗ったら、素晴らしい未来が待っている。限りない空を翔けて、限りない未来を見渡すことができる。
そう、誰かが言ってたように、そう思った。
…だけどよ、昨日になって、もう、なんかわかんなくなっちまってさ。
俺、大切な人達とか、俺を大切に思ってくれてる人達を置いて、
どこかに行くなんてこと、許されることなのかって。
今さらだけど、ずっと考えてた。確かに空の上は”素晴らしい”。
ホントにすげぇや。
いろんなとこに行ける。
…だけど、それは俺の幸せであって、家族とか友達の幸せじゃないんだって。
昨日になって、気付いちまった」
もちろん、何も言い返せない。
彼は言葉を切って、すぅ、と息を漏らした。
「…ホント、今さらだよな」
彼は、何かをためらっているようだった。
何か幽霊のような、見えないものを恐れるような、そんな表情。
「ためらいは命取りになる」
「そんなこと、分かってる」
「ならどうして」
敢えて、突っかかってみる。
「俺が空の上にいる間も。どこかの世界を渡っている間も、アイツらは、ずっと頑張っているんだなって。
この船にいつか乗るために、人生を捧げているんだってな。
そう思うと、なんだか申し訳ない気持ちになってさ…」
彼は俯いた顔をそのままにしている。
その顔に夕焼けが重なり、赤みを灯す。
「俺ってさ、すげぇ自分勝手な奴だよなって、考えちまって…。
もうこのままいっそ戻らない方が、皆にとって幸せなんじゃないかって、考えちまったんだ」
まるで昔の飛空士みたいだな、と彼は苦笑いで付け加えた。
彼がこういうことを口にするのは初めてではない。
見た目ではいつも気ままに明るく生きているようだが、心の奥底では暗く根の張ったものを、何重にも押し潰して、殺し続けているのかもしれない。
「…帰らなくてもいいんじゃないか?この船は快適だしな」
そう身もふたもないことを言ってみると、
ルクは一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、
「それもそうだな。そうだとしたら、お前も道連れでいいか?」
「それは断る」
こんな冗談、この空を翔ける船の上では一層輝いたものに感じる。
彼の顔に重なっていた太陽は、今はもう見えない。
「…そろそろ部屋に戻るか」
ルクが腕をさすりながら言った。
その時、ちょうど後ろを通り過ぎようとしている存在に気付く。
「ヴァレリ」
「うっす」
「………」
二人同時に挨拶したのにもかかわらず、何も答えない。
ルクが、
「…何だよあいつ。いっつも黙りこくりやがって。感じ悪いな」
というのをなだめるかのように。
「…そうか?」と要領を得ない返事をする。
その声が向こうに聞こえたのかどうかは分からないが、
ヴァレリと呼ばれた人物は、こちらを一瞥してから、
やはり何も言わずに、部屋へ戻っていく。
「…ルクも先に行ってくれ。俺はもう少しここにいるよ」
そう言うと風邪ひくなよ、とまた彼は言って部屋に戻っていった。
彼が行って一人になったところで、目前の180度に広がる海の境界を見つめてみる。
ずっと見つめていると、そこに引きずりこまれそうな気がする。
空と海に挟まれ、その一本の線を通り抜けられるくらい小さくなるまで無限に圧縮され続けながら。
波の音に入り混じって、飛空艇の空気を分ける音が聞こえる。
それ以外は、鳥の声。それ以外は何も聞こえない。
この高さから見下げる海上は、遠くも見えるし近くも見える。
大きくも見えるし、小さくも見える。
といってもまだこの飛空艇はそんなに高度なところを飛んでおらず、せいぜい地上から百メートル、といったところだ。
この海を走る船のような造りだと、高度が大きくなればなるほど、こうやって船外に出て下を見下ろすことなどできない。もちろん、息が続かないから。
だからこの高度を保って飛空しているこれは、絶妙なバランス、アキレスと亀の中間を滑走しているようだ。それ以上でも、それ以下でもない、そんな心地良さが、この飛空艇全体を包んでいる。
時間が経って、やがて空が覆われた。
雲が霧の中に陰って見える程度になる。さすがにこの時間だと気温も下がっている。空中だとその体感温度はさらに低くなる。
でもこの船は空を泳いでおり、その様子は暗くなっても感じ取れる。
今日は星が見えない。これなら明日も晴れるだろうか―そんなことを考えていると、
右手の方に―船頭の方角に小さな光が見えた。
それは淡く光ってはまた消え、また点灯し、そんな点滅を繰り返している。
大きさはここから肉眼で確認できる限界程度。
あれは、もしかして。
もしかして、最初の到着地点だろうか。
『ファレイア』への到着は明後日の五刻だったような気がしたが、思いの外早く着いたようだ。
もう一度その光の明滅を見て、寝室へと踵を返す。
遠くで、烏が一匹鳴いた。
―
日差しを感じる。それはイコール朝ということだ。
窓のサッシの隙間から照りつける太陽が、閉じたままの瞼を開いていく。
大きく伸びをして、体の怠さを取る。
船室は窮屈ではない。自宅の自分の部屋より大きいのだから文句は言わない。部屋の中央に木製のベッドが備えられており、そのすぐ隣に四角いそれも木製のテーブルが置いてある。
それ以外には窓の反対方向に小箪笥とクローゼット。それを挟んでバスルームがある。バスルームは大きくはないが清潔であるため心地よい。
早速クローゼットから粟色の制服を取り出し、着ることにした。出発前に支給された制服は、ちょうど良いぴったりなサイズになっており、普段は着ても着なくても良い。結局この服が一番心地よいので皆その服を着ている者が多い。
備え付けの鏡を見て、顔をチェックする。
大丈夫、顔色は悪くない。
その勢いでトースターにパンを突っ込み、ベッドに飛び込んでそれが焼けるのを待つ。ベッドシーツからは花の匂いが少しする。
五分ぐらいそうしていると、すぐにトースターは音を発し、パンが焼けたこと―いや私が、私自身がパンを焼いたんだほら見ろということを主張する。
ベッドわきに置いた写真には、一人の女性が映っている。
その表面を指でそっと撫でてみる、頭の中で、パチン、と音がする。
その音と同時に、部屋のドアをコンコン、と叩く音がした。
「おい、起きてるかー?」
ルクと話をしながら、船上に向かう。
廊下の床がギシギシ鳴っている。空を飛ぶものなのにこれでは不安だ、と思う。
船室から出る。風の匂いがする。
ふっと服の裾が上がり、日を体全体で受け止める。
思わず目前の景色に、おおっ、と声を上げてしまった。
「これは……すげぇや」
隣のルクも船の外に見える景色に感嘆の声を上げていた。
既に飛空艇は対空状態をとどめながら、停止していた。
いつもの風を切る感覚が無いのがその証拠だ。
そこは、果て無く広く止まっているような世界。
幻影の大都市。それも、空に浮かんだ都市。
とてつもなく生活感が無い大きな構想の建物から見えるのは歴史上もっとも繁栄していた都市。
高層な建物から光が漏れ、無限に差込んだアスファルトの迷路を、幾分の狂いもなく照らしている。
そのアスファルトからは真四角、長方形、台形…とてつもない量のそれらがところ狭しと詰められており、地面に植わっていた。
いや、これは人工的に「建てられた」ものに違いない。
踏みしめてもその反動を感じない固い道。
道路から伸びる道路の羅列。
その羅列の隙間を埋めるようにして立っている巨大な鉄の塊。
塊にぶら下がる―これはいわゆる「画面」というやつだろうか。
それらは何かの情報をせわしなく映し出し、その映像は瞬時に切り替わったかと思えば、またそれを繰り返す。
そして、羅列と映像の下を埋め尽くす、人、人、人の群れ。
多種多様なそれらは忙しく羅列の中を歩き回っていた。何をそんなに忙しくしているのだろう。直接聞いてみたくなった。
今自分たちはそれを、「とても高い場所」から見下ろしている。
周囲はコンクリートの床で、一番外側の部分には鉄の仕切りがある。多分、あの大きい建物の中の一つだろう。そして、ここでなければ飛空艇は止まれない。
他の場所だと確実に騒ぎになってしまう。それだけは避けなければならない。
飛空艇は音を全く止め、その中心地点にどっしりと構えている。それらの景色とこの船はうまく調合しておらず、違和感がぬぐえない。
しばらくして船から船員が全員降りてくると、それの隊に伴って船長も降りてきた。
船長のこんな顔は滅多に見られない。
眉間に皺を寄せ、指を落ち着かなく上下に動かしている。彼はこれから起きるかもしれない出来事を予想出来ていない。
「船長、到着及び準備完了を確認しました!」
「よし」
やはり彼も人間で、怖いのかもしれない。
自分たちと、おんなじで。
そんなことを考えてしまった。
隣でルクは空気を読まずくしゃみをした。
やがて船長は散らばった船員の中心に立った。
全員が息を呑む。
これから起こること。
これから起きるかもしれないこと。
いや、確実に起きること。
それを想像してしまい、否応にも手足が硬直する。
ここからでもそれが感じ取れ、夕方の暗さに相まってなお一層普通ではない景色を作り出している。
夕日が時を告げる。たまに吹く向かい風が人々の感情を逆撫でさせる。
烏は下界のことなど見向きもせずに、ただ空の上を大勢で飛空している。
誰もが船長の言葉を待っていた。
聞こえるのは誰かの服のかさばる音と、完全ではない夕日の落ちる景色の音。
やがて船長は決心したように、拳を握った。
やがて船長は口を開いた。
「新人にとっては、飛空士として最初の大仕事だ。全員、心して任務にあたるように。集合は―分かっているな?日付が変わるまでだ。
それまでに戻って来ない者は、『降りた』とみなす。分かっていると思うが、決して船は『待たない』。以上だ。検討を祈る」
誰も何も答えない。完全な沈黙。
沈黙。
最初に動いたのは年上のヴァレリだった。ゆっくりとこちらに背を向け、屋上から建物の内部に通じる階段に足を進める。
「先に、行きます」
それだけ言って、階段を下りていく。その頭を追うフードが風で揺れている。
やがてそれに追髄するように一人、一人とまたその階段を下りていく。幾人もの足音が響き、気持ちを焦らされる。
ルクは先に行ってしまった。彼もさっきとは打って変わって悲しい顔をしていた。
彼のあの顔は滅多に見ることができない。
それは彼が見せる裏の顔、いや、それが本当の顔なのかもしれない。
日が、落ちていく。
地平の彼方を、光の線が通り過ぎて、それはただひとりでに融解していく。
いつも通りに。それはごく普通のこととして。
この世界が、この初めて飛空艇で訪れたこの世界が、「普通」であることを願う。
ここから見る街の景色は、ごく普通の大都市に見える。
だけど、その願いはきっと叶わない。
叶わないものなら、行くしかない。
世界から置き去りにされた、そして、取り戻さなければならないものがある、
この世界へ。
誰かと同じように拳を握りしめると、ひとり決心をして階段へと歩いていく。
周りを見渡してみた。だがもう誰もいなかった。
階段の一段目に、足を踏み出してみる。
『絶対に、絶対に助けてあげてください…!』
泣き叫ぶ女性の顔が、一瞬だけ浮かんで消える。
さあ、踏み出すんだ。
自分の背後で夕日が沈んでいくのを、この目で確かめてから。
23:52:11
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