第8話 新しい道

 絵美里に誘われるまま、ユメは気がつけば電車に乗り、絵美里の所属している事務所があるビルの前に立っていた。

 設立してからまだ三年も経過していないらしい事務所は専用のビルを持つほどでもないので、ビルの三階を借りて運営しているらしい。

「社長さんって、どんな人なのかな?」

 ビルのエレベーターに乗った時に、疑問に思った事をユメは口に出した。

 絵美里は、返事もせず終始ニコニコ笑顔のまま。

 そうしている間に三階に到着した。

「まあ、階段でも良かったんだけど、今日はエレベーターで一気に目的の場所に行けた方が良いかなって思ったの」

 エレベーターから出たら細長く続く通路があって、通路を少し歩くと、事務所の扉が見えた。

 小さな看板も見える。

 その看板には【夢の扉】と書かれていた。

 絵美里が扉を開いた。

 ユメはその後に続く。

 中には来客と会話する用のエリアが白いカーテンで仕切られていて、そこにテーブルとソファーが置いてあった。

 ユメはそこに座らされ、社長が来るのを待つ事になる。

 なんだかすごく落ち着かない。

 昨日まで、ユメは何もない日々を過ごしていたのだ。

 外見も整えるのをやめ、ひたすら時間が経過して一日が終わるのを待つ毎日だったはずだ。

 それが、絵美里と再会し、翌日には芸能事務所のソファーに座っている。

 こんな事が信じられるのか。

 社長に依頼されて絵美里はユメをスカウトしに来たと言った。

 では、社長は誰なのか。

 ユメを知っているという事は、かつての知り合いなのだろうと思うが、芸能事務所を構える事ができる大人の人は、今まで短い芸能活動の中で、知り合った覚えが無いのだ。

 一体誰が…?

 そう思った頃、奥から男性の声が聞こえてきた。

「いやあ、ゴメンゴメン、電話が長引いちゃって」

 ユメの前にお茶を置いた男の人はそう言うと、目の前のソファーに座り込んだ。

 この人は、見覚えがある。

 そう、感じたのだ。

 ユメが会った事がある人。

 その人の名前は。

「この事務所の社長の立原アヤト自称四十一歳ですよろしく」

 ユメと絵美里が六歳と七歳の頃、出演していたテレビドラマに出ていた俳優、立原アヤトだった。



 あの頃、立原アヤトは舞台役者の一人だった。

 小さな劇団【夢の扉】を立ち上げ、演出家達と一緒になって考えて作り上げた舞台作品があった。

 最初は小さな舞台で、観客も少なくて、口コミで評判が広がり、次第に見に来る人が増えて、何度も上演し、そのたびに新しい演出を盛り込み、さらに人気をあげ、そして、テレビドラマ版が作成されるほどにまでになった作品があった。

 テレビ版の追加キャストとしてユメと絵美里は仲間に加わり、立原に出会った。

 色々あって、途中で降板しないといけない状況になったのだが、あれからずっと立原は気にしていたのだ。

 みんなで頑張って成功させたかった。

 最後まで、選ばれた皆で。

 テレビドラマ版は二期が制作されたが二期は一期ほど視聴率に恵まれず、十二話の予定が九話で終わってしまった。

 皆で作り上げた舞台作品は、それから舞台へと場所を戻し、演劇を続けていたが、立原には気になる子達がいた。

 テレビドラマ版で途中で降板してしまった上野ユメ、園崎絵美里、雪原勇次の事を。

 あの子供達は何をしているのかと。

 そして、ある日の事。

 たまたまテレビをつけたら、ユメを見つけたのだ。

 プチラブリーというアイドルグループのメンバーとしてデビューしていた。

 立原は、また新たな道を進む事ができて、良かったと安堵したのだが、少しして違和感に気づいた。

 プチラブリーのトークコーナーなのに、ユメがずっと黙っている。

 もう一人黙っている子がいる。

 四人グループなのに、喋っているのは二人だけで、残り二人はずっと無言のまま。

 時たま背中に隠しているホワイトボードを出して、言いたい事をそこに書いてアピールする。

 そういうキャラ作りのグループかと立原は見ていたのだが、数分後、さらに驚く事になる。

 プチラブリーの歌がはじまって、立原は言葉を失くした。

 歌声が、ユメの歌声なのに、他人が歌っている事になっているのだ。

 ユメが六歳の頃、彼女の歌を、収録の合間や、リハーサルで、本番で、何度も聞いていたのだ。

 多少成長して声色が変化したとはいえ、歌い方は当時のまま。

 当時から、子供らしくない歌い方だったユメの特徴は、十分残っていた。

 アイドルが口パクで歌う事は会社によってはある。

 でもそれは、自分の歌声を別の時に収録したのを流している。

 それは立原も知っていたが、他人の歌声を、違う子の物として発表したら、ユメはどうなる?

 その歌声が上野ユメの物として発表できなくなってしまう。

 そんな事があっていいのかと、信じられないという気持ちで、自分の仕事をこなしながら日常生活をすごし、立原はあの夏の、プチラブリーが解散に追い込まれる原因になった運命の野外コンサートに気がついたら来ていたのだ。

 そこで、愛菜の叫びを聞いた。

 この歌声は、ユメのものだと。

 愛菜の歌声ではないのだと。

 観客席にいた立原は、周囲の観客がざわついたのをすぐそばで感じ取っていた。

 騙されていたと怒りをあらわにしている者もいた。

 それも当然だろう。

 ファンは愛菜の歌声だと信じて応援していたのだから。

 周囲の混乱の最中、舞台に立っていたアイドル達はステージ裏へと避難していく。

 そんな中、ユメはステージに立ち尽くしていた。

 そして、後ろの方まで聞こえるくらいの大きな声で歌いだしたのだ。

 曲は、プチラブリーが先日出したアルバムの中の一曲で、愛菜のソロ曲として収録されていた曲。

 愛菜のソロ曲という事は、歌っていたのはユメなのだから、ユメのソロ曲。

 観客席で見ていた立原は思った。

 ここまで騒ぎになったら、もうプチラブリーは解散するしかない。

 そうなったら、ユメは、上野ユメは辞める事になるだろう。

 六歳の時にもドラマを降板した経歴を持ち、前回は巻き添えで降板したが、今回は当事者なのだ。

 ここまで騒ぎになってしまったら、彼女の次の芸能活動できる場はあるのかどうか。

 ユメはもう芸能活動をする事は無いだろうと思って、最後に自分の、自分だけの曲を歌いきったのだろう。

 いつの間にか、立原のまわりにいた観客達だけでなく、その場にいた者が皆静かにユメの歌声を聞いていた。

 立原の近くで誰かがぽつりと小声でつぶやいた。

「…ユメちゃんさ、いなくなっちゃうのかな」

 それに対して、誰も返事をする事は無かった。

 予想はついていたのだ。

 ユメの歌声で、表情で、何かを皆察知したのだ。

 歌い終わった後、ユメは深々とおじぎをして、ステージの裏へと隠れてしまった。

 野外ライブは、そのまま終了となったが、観客席にいる人達は誰も立とうとはしなかった。

 一時間後、ステージの裏に避難したアイドル達はもうその場からはいなくなっていた。

 スタッフも撤収し、残るのは帰らない観客とその観客を監視する警備員のみ。

 立原も、その場から動けなくてじっとしていると、どこからか、拍手が聞こえてきた。

 最初はまばらだったが、拍手の数はどんどん増えて、気がつけば立原も、観客席にいた者全てが誰もいないステージに向かって拍手をしていた。

 十分ほど続いた後だろうか。

 一人、また一人と、観客席から立ち上がり、去っていく。

 二時間後には、立原と、数名を残すのみになっていた。

「俺、今日の事忘れねぇわ…」

 残っていた数名のうちの誰かがそうもらした。

「そうだな…」

 その言葉に対して、知り合いらしき者は頷く。

 そして、立原もその場を去った。

 後日、公式ホームページでプチラブリーは解散する事が決定したという告知が出され、ユメと愛菜は事務所を辞めたと知る立原。

 リオはファンの声によりプチラブリーの先輩グループ・ラブリッシュの追加メンバーとして加入が決定し、奈子は役者への道を歩む。

 愛菜は噂によると別の事務所に移籍となったらしいという話を聞いた。


 そして、ユメは?

 ユメはどうなったのか。

 立原はそれが心配だった。

 噂では完全に芸能活動をやめて、実家に戻ったらしいとも言われていた。

 劇団の仕事を続けながら、立原は、また芸能活動ができなくなったユメや、絵美里、勇次の事を思い出していた。

 彼らには才能がある。

 演技の才能や、歌の才能があるのだ。

 才能があるのに運にめぐまれず、埋もれてしまっている。

 そういう者はけっこう多いのだ。

 埋もれて日の目を長い事見なかった者はどんどん消えていく。

 芸能界とはとても厳しい世界で、浮き沈みも激しい。

 それをどうにかしたい。

 どうすればいいのかと、若い彼らの才能をつぶしたくはないと劇団の演出家と相談を重ねた結果、芸能事務所を立ち上げようという話が浮上する。

 事務所を立ち上げて、かつて一緒に仕事していた仲間や、ユメ、絵美里、勇次を誘おうではないかという話になった。

 社長は、誰とでもすぐ打ち解ける事ができる立原で良いのではないかという話で決まった。

 では資金はどうするか。

 芸能事務所を立ち上げるにあたって、資金はどうするかという話になり、皆で集めたお金で立ち上げようという話になっていた。

 だが、立原が偶然一枚だけ購入していた宝くじが見事高額当選していた事が発覚し、結構な金額だったので、それを資金にしようという話しが持ち上がり、お金にあまり執着の無かった立原は、それでいいだろうと承諾し、無事芸能事務所を立ち上げたのだ。

 こうして、知り合いなどを誘い、少しずつ芸能事務所【夢の扉】に所属する者は増えていった。

 ビルは貸しビルの三階のフロアを全部借り切った。

 事務所と、レッスン室が必要だと思ったからだ。


 昨年は園崎絵美里に誘いをかけた。

 声をかけた結果、どこの事務所にも所属していなかったので、絵美里は二つ返事でモデルをすると承諾したのだ。

 将来は役者の道へも進もうと立原と絵美里は約束する。


 雪原勇次は、演劇の世界への夢を彼は全く諦めていなかった。

 学校の演劇部に所属し、学生だけが出演できる演劇コンクールに複数参加していた。

 そこの演劇部は何度も優勝して、部員は色々な劇団や芸能事務所に所属が決まった者がほとんどだったが、勇次は過去のテレビドラマの経歴が原因でどこの芸能事務所にも所属できないでいた為、立原が誘えばあっさりと承諾を得る事ができた。

 今はオーディションで合格した舞台の練習に励んでいる。


 そして、最後に上野ユメ。

 アイドルを辞めた後、実家に帰ったという情報しかなく、どうしようかと思っていたら、絵美里が昔、だいたいの住所を聞いていた気がすると行ったので、絵美里に誘いに行ってもらう事にしたのだ。

 そして、公園でぼんやりしているユメを見つける事になる。

 昨日絵美里がユメの前に現れたのは偶然では無い。

 上野ユメが必要だと社長の立原が判断し、絵美里に連れてくるように頼んだのだ。


「これで三人共そろったね!勇次は舞台の練習があるから今日は来れないけど」

 そう言うと、立原は笑顔になった。


 この事務所に所属している人は、劇団時代に立原と一緒に活動していた人達と、テレビに出た時に知り合った人達と、ユメと絵美里と勇次。

 やっと、全員そろったのだという。

 新しくできた事務所だが、それなりに仕事はそこそこ獲得できている。

 理由は、テレビに出た時に知り合った俳優にあった。

 その人の実家はかなりの資産家で、俳優自身、現在はその家業をついでいる。

 俳優業は趣味でしている人で、ユメ達が降板させられた後のドラマに追加キャストとして出ていたのだ。

 立原と意気投合し、何かあったら資金面なり人脈なり協力してあげようかとその人はドラマの収録の休憩中、常日頃言っていて、立原が事務所を立ち上げた時に、道楽だからと言って【夢の扉】に入ってくれた。

 新しく設立した事務所だけれども、資産家の俳優の協力もあって妨害があまり入らず、仕事を取る事に成功している。


「私、本当にここに入っていいんですか?」

 ユメは、信じられなかった。

 もう、自分を必要としている場所は無いと思い込んでいた為に、即座には信じられないのだ。

「うん、君も必要なんだ」

 立原は、そんなユメの気持ちに気づいたのか、笑顔で答える。

 必要だと言われたのがこれほど嬉しい事だったのかと、ユメは思う。

 今度こそは、大丈夫なのだろうか。

 ユメは絵美里の方を見た。

 絵美里のお兄さんはどうなったのかと気になったのだ。

 そんなユメの気持ちに気づいたのか、絵美里は聞かれる前に実の兄が今どうしてるのかを話しだした。

「お兄ちゃんね、あれから改心して、勉強頑張って、なんとか就職したみたい」

 だからもう大丈夫だよと絵美里は言う。

 過去の事をどこかで突っ込まれたら、今のお兄ちゃんは改心して普通の人になりましたってはっきり言うと絵美里は笑ったのだ。

 実際に少しだけモデルの仕事をした時に、インタビューされた事があったので、堂々と記事に書いてもらったのだ。

 今はもう大丈夫だと。

 そのお願いした記事は無事雑誌に掲載されていた。


 ユメは、絵美里がとても強い人だと感じていた。

 もう前へ進んでいるのだ。

 自分がずっといじけて実家で暮らしていたのが恥かしいと思うくらい。

「あんな事あったんだから、少しくらい休憩は必要だったんだって」

 少し落ち込むユメを絵美里は励ました。

 絵美里に助けられてばかりだなとユメは思う。

 事務所に入らないかと誘われたが、自分には何があるのだろうかと考えた。

 絵美里は背の高さとスタイルの良さを生かしてモデルをしている。

 演技も昔から上手だったので、将来は演技の世界に再び行くのだろう。

 勇次は、もうすでに演技の世界にどっぷりと入り込んでいる。


 ではユメは。

 上野ユメのしたい事は。

 どう考えても歌しか無いのだ。

 ユメには、大好きな歌しか。

 幼少の頃から、六歳の頃から、歌しか無かった。

 歌が一番好きだった。

 けれど、前の事務所との契約が気になっていた。

 事務所を辞めてから三年間は歌を販売する事を禁止されていたのだ。

 まだ三年は経過していないはず。

 どうすればいいのかと、事務所のソファーに座り考え込んでいたら、社長の立原が安心しなよと笑った。

「歌は歌えるよどこでもね!」

「どこでも…ですか?」

「ネットで無料配信もできるし、ラジオに出た時にでも歌えるし、うちの事務所は有料チャンネルだけど専用番組もあるし」

 歌う場所はどこでもある。

 そう言われたのが嬉しくて、気がつけばユメの瞳から涙がこぼれていた。

「何ならね、今から君の家に行って、親御さんを説得しようか?」

 社長である立原の提案にユメはハンカチで涙をぬぐいながら少しだけ笑う。

「うちの両親、海外旅行行ってますから、四日後にならないと帰国しないです」

「そうなの?ユメくん一人置いて旅行?」

 年頃の娘を一人置いて旅行へ行った事を知ると、立原は驚きの声をあげる。

 最近はそうなのかと呟く姿は、自称四十一歳といってはいるが、本当は何歳なのかユメにはわからない。


「じゃあ、帰国した日以降に挨拶に行こう」

 立原の提案で、両親への挨拶は五日後に決定した。


 五日後、スーツ姿の立原と、秘書としてついてきた絵美里の兄。

 他の仕事もしているが、絵美里の兄は過去にやらかした事が原因で、絵美里からの頼まれ事は断らないのだという。

 芸能事務所に所属している者たちの顔が個性的すぎる為、少しでもユメの両親が安心するようにと考えた結果、穏やかな外見の人を立原の横につけようと絵美里が考えたのだ。

 二人とも綺麗なスーツ姿。

 昔、ユメが六歳の頃、週刊誌に写真を撮られた絵美里の兄は、目つきも鋭い怖そうな人だった。

 今は、その時の面影は全くなく、絵美里と同じ薄い茶色で、髪の毛は短く整えられた大人しそうな青年に見える。

 ユメが両親と共に玄関で出迎えると、立原と絵美里の兄は深く頭を下げた。

 居間へと通され、礼儀正しく座る立原と絵美里の兄を見て、両親は、上機嫌だった。

「上野ユメさんには歌という素晴らしい才能があります。この才能を生かせるように誠心誠意、心を込めてバックアップ致します。どうか、私の事務所に入っていただけないでしょうか」

 おみやげを差し出して、立原は丁寧に挨拶をする。

 両親は、事務所の社長が自ら挨拶に来てくれた事で上機嫌だった。

 立原については、収録現場にユメを送り届けていた母親が何度か見かけていたので、あの時の親切な俳優さんだと気づき、ならば安心だと。

 断る理由などどこにも無かった。

 両親の夢は、ユメを芸能人にする事だったのだから。

 歌で認められたのだから。

 喜んで事務所の契約書にサインした。

「前の事務所との契約で、歌を販売するのはもう少し時間が経過しないと無理なので、それまでの間、ラジオや有料チャンネルですが専用番組も持っていますし、歌のレッスンをこなしてからユメさんの歌声を宣伝いたします」

 立原は丁寧に両親にこれから先のユメの活動について説明する。

 両親は、計画的に事を進めるのだと知り、さらに上機嫌になった。

 ここの事務所ならば、まかせられると。


 立原と絵美里の兄が帰った後、夕食は久しぶりに明るくなっていた。

 今までユメが駄目だったのはタイミングが悪かったせいだと両親は笑顔で、ユメはご飯を食べながら、少し安心する。

 ずっと家にいてて、息苦しかった。

 何もできない自分がみじめで仕方がなくて、苦しい気分を味わっていたのだ。

 それが今日から、家の中は苦しくない。

 それだけでも素敵な日を迎え、ユメの気持ちも軽くなる。

 明日から、上野ユメの新たな芸能生活がはじまるのである。

 ユメは自室に戻り、交わされた契約書の控えを机の上でまじまじと見る。

 契約書に書かれた内容を何度も何度も読み直した。

 変な事も書かれていない。

 サインもちゃんとある。

 本当に立原が設立した芸能事務所【夢の扉】に入る事ができたのだ。

 夢では無い。

 現実なのだ。


 翌日から、電車を乗り継いでユメは事務所のあるビルへと通った。

 幸い、ユメの実家から事務所までは電車で一時間くらいなので、通いでいいと立原社長は言っていた。

 絵美里はドラマの騒動で祖父のいる場所へと引越したが、元の住んでいた家は売却しておらず、そこに移り住んで事務所に通っているらしい。

「帰る時間が遅くなったらうちの家に泊まりなよ」

 絵美里の優しさに感謝するユメだった。

 貸しビルの三階にある【夢の扉】の事務所の隣のフロアには、レッスン室もある。

 そこで、ユメは久しぶりに歌う為に必要なボイストレーニングを開始した。

 久しぶりとあって、喉の使い方を少し忘れていたユメは、歌う感覚を思い出すのに一週間かかってしまった。

 毎日歌を歌える。

 すごく楽しい。

 嬉しい。

 自分の生きがいを思い出したかのようにユメはレッスンにはげんだ。

 そして、ある曲が記された紙をユメは渡された。

 事務所のスタッフの一人で、作詞や作曲をする担当の永野さんがユメの為の曲を用意してくれていたらしい。

 この永野さんがボイストレーニングも見てくれていた。


「社長に半年前に頼まれてね、完成したから練習しようか」

 ユメの手に震えが走る。

 自分の為に、作られた曲。

 子供の頃歌っていた歌は、だれかが歌っている他人の歌だった。

 プチラブリーの頃は、歌ってはいたが、ユメの物では無く、プチラブリーの物だったから。

 自分の曲は、はじめてもらったのだ。

 それがとても嬉しかった。

 歌詞の内容は夢に向かって希望に満ち溢れている気持ちに溢れている内容で、今のユメの気持ちにぴったりで。

「な、永野さん…ありがとうございます」

「ん…いいのいいの!これ歌えるようになったらゲストの仕事あるから、出ようね」

 永野さんの言葉に、ユメはとても嬉しくなった。

 芸能事務所【夢の扉】に正式に所属が決まってから、ユメにとっての初仕事が決まったのだ。

 ゲストに呼ばれて、少し歌を歌えるらしい。

 ラジオの収録だろうか。

 事務所の有料チャンネルの専用番組でだろうか。

 どこでも歌えるのなら、嬉しい。

 ユメはよりいっそう歌のレッスンにはげむ。

 ちゃんと歌を歌う。

 やっと、仕事ができる。

 頑張ろうとユメは思うのであった。


 ユメの知らない所で他にも色々計画があったのだが、それを知るのはもう少し後の話なのである。


 ユメは、現在通信制の高校へ通う手続きをしている。

学校は全く行っていないと言うと、通信制の高校か、全日制の高校かどちらか行くかと絵美里に誘われて、選んだのは通信制の高校の方だった。

 まだ人に慣れていないのだ。

 つい最近まで、家族と最低限の会話しかしない生活をしていたのだから。

 通信制でも通学する日があると聞いているが、毎日行くわけではないので大丈夫だとユメは思う。

 勉強は自主的にしていた為、課題を出されてもどうにかなりそうなのである。

 また、学校へ行くのを頑張ろうと思うのであった。


 事務所に行くと、色々な人に出会う。

 絵美里の兄は、普段は別の仕事をしているのだが、昔迷惑かけた事もあり、人手不足だと伝えると、仕事の無い日は手伝いに来てくれる。

 弱みを握ってるから、お兄ちゃんはなんでも動いてくれると絵美里はほくそ笑んでいる。

 絵美里の兄は、償いはまだまだ終わらないねと笑いながら仕事をしている。

 一人っ子のユメからしたら羨ましいと思える光景だった。

 雪原勇次は、舞台の練習に毎日励んでいる。

 たまに事務所にやってくるが、ユメとはあまり会話する事はない。

 勇次はどうやら絵美里が好きらしいと聞いたのは社長の立原の情報だった。

 少し前の話だが、絵美里以外の女性と絵美里の見てる前で会話したら、その女性に気があると勘違いされた結果、仲を取り持とうとされかけた事があるので、会話は最低限で控えている。

 それを社長から聞いているユメは勇次に声をかけないようにしているのだ。

 事務所にいる人達は、勇次がいつ絵美里に告白するかで夕食をおごるかおごらないかの賭けをしているらしい。

 ユメはどうするかと聞かれ、二ヶ月後くらいに全く気づかれなくて痺れを切らした勇次の方が告白するのではないかと予測しておいた。

 こういうたわいもない話をする機会も久しぶりで。

 この事務所に来て本当に良かったと思うのだ。

 楽しいとは、こういう事だったと、ユメは久しぶりに思い出した。


 そうしている間に、時間は過ぎて行った。

 とうとう、ユメの初仕事の日。

 芸能事務所【夢の扉】に所属してからの初めての仕事の日。

 心臓の鼓動がとても激しくて息がつまりそうになる。

 久しぶりに人前で歌を歌うのだ。

 少しお客がいると聞いていたので、歌い終わった後の反応がすぐ見れると言われ、ユメはドキドキしていた。

 最後に仕事で歌ったのは、十三歳の夏。

 アイドルグループ・プチラブリーとしての最後の夏。

 野外ライブで、アカペラで一人で歌ったあの時。

 あの時は、最後になるかもしれないと思って必死に歌ったのだ。

 でも、最後ではなかった。

 こうしてまたチャンスをもらえたのだ。


 今日は、上野ユメとしての再スタートの日。

 本当に久しぶりに人前で歌を歌える日。

 この日をユメは絶対に忘れないで覚えておこうと決意した。


 控え室に用意された椅子に座り、深呼吸を一回、二回と繰り返す。

 だんだんと落ち着いてきた。

 服装はおかしくないかなと自分の着ている物をじっと見回す。

 髪の毛は後ろに綺麗にまとめてある。

 服も、清潔感あふれる感じで大丈夫だろう。

 今日の為の衣装なのだから。

 落ち着いた頃に、ユメの出番がきたと教えられ、カーテンの先へと歩を進めた。

 カーテンの先へ光の導く先へ進む。


「ユメちゃんおかえり!」

 カーテンの先にはユメが思っていた以上の人数が観客席にいた。

 何人いるのだろうか。

 ざっと見ても百名くらいはいないだろうか。

 どうして?

 そして、今聞いた言葉は何なのだろうかとユメは思う。

 ユメちゃんおかえりと聞こえたような気がするのだ。

 おかえりとは、帰宅した時にもう家の中にいる家族が出迎える時に言う言葉。

 どうして今?

 観客席にいる人の顔を見回すと、どこかで見たことあるような顔の人が数名いた。

 この人は、ユメがアイドルをしていた頃、プチラブリーのライブによく来て、最前列にいた人なのではないか。

 握手会の時に、ユメに熱心に声をかけてくれた人ではなかったか。

 ユメは当時人気が無かったので、熱心に声をかけてくれた数少ないファンは少しだけ記憶にとどめていたのだ。

 その人達がどうしてここに。

 それに、百名くらいいる人達はなぜ。

 今日は、何かのトークショーだと聞かされていた。

 そのトークショーにユメはゲストで呼ばれ、少しだけ自分の歌を披露すると聞かされていたのだ。

 トークショーにいるはずの事務所の先輩の人はいない。

 絵美里がマイクを持って笑顔を見せていた。

 気がつけば、ユメもマイクを持たされている。

 今すぐ歌えというのだろうか。

 ドキドキして口を開いて歌おうとした時、絵美里に止められてしまう。

「ストップ!歌う前に、これを見て欲しいんだなぁ」

 後ろを振り向きなよと合図され、振り向くと、そこには大きなモニターが用意されていた。

 絵美里に椅子を用意され、画面から斜めの位置にユメは座った。

 観客も黙ってその様子を見ている。

 一体何が流されるのかと見ていると、画面が急にある場所を映した。


 ここは、見覚えがある。

 ユメはそう思った。

 画像は少しブレてはいるが、音声ははっきりととられていた。


『え、愛菜の歌声じゃないって?』

『意味わかんねぇんだけど』

『どういう事だよ!』

 混乱する観客の声が聞こえる最中、ステージに立つ少女が、アカペラで急に歌いだす。

 ここは覚えている。

 これは、あの夏の日。

 ユメがアイドルとしてプチラブリーの活動をしていた最後の日。

 野外ステージでの映像をだれか録画していたのだ。

 あの状況の中、自分の事で頭の中はいっぱいで、最後になるだろうと思って歌っていたあの日。

 一生懸命に歌っていたあの日の自分をこうして見たのははじめてだった。

 音声は、画像は、気がつけばユメだけをとらえている。

 最後まで歌いきった後、ユメが深く頭を下げて退場するところで映像は終わっていた。


「絵美里ちゃん…この映像は何?」

 ユメが声をかけると、絵美里は得意げに言う。

「この映像はね、ユメちゃんが辞めた後もネット上にずっとあげられていた画像でね、これでユメちゃんのファンになる人が多くて、いつか芸能活動復活する日を皆が待ってたの!ここにいる観客の人達は、皆ユメちゃんのファンなんだよ?事務所の公式サイトにこのステージへ無料招待するって言ったら、申し込みが殺到したんだから」

 ここにいるのは百名だが、実際に申し込みされた数は六百件ほどあったらしい。

「最初にしては上出来よね!このステージ」

 観客席の方を見ると、大人の男性、女性、自分のお母さんと同じくらいの女性、中学生くらいの子など、年齢層が幅広い。

「この人達、みんな、私の歌を聞きに…きたの?」

 ユメの言葉に、観客席にいる人達は声をあげて返事をする。

「ずっと待ってたんだよ!」

「そうだよ聞きに来たんだ」

「ユメちゃんの歌聞かせて!」

 口々に言われ、ユメの心臓は再び激しくなる。

 ネット上にあの日の歌声が流されているとは思わなかったのだ。

 プチラブリーが解散して、その反応を見るのが怖くて、インターネットは見ないようにしていたのだ。

 きっと何か悪口を言われているだろうと。

 愛菜やリオの方が人気あったのだから、愛菜に自分の声じゃないと言わせたのだろうと言われていると思っていたのだ。

 だから、一切インターネットを見ないで生活していたのだ。

 悪口は見たくない。

 芸能活動もできない。

 完全に引きこもっていた。


 そしたら、自分の知らない所であの日の歌声が当日現場にいなかった人にも見られていて、ファンになった人がいたのだ。

 それは知らなかった。

 自分からその評判を知る手段を完全に遮断していたのだから、それは当然の話なのだが。

 今、知ってしまった。

 幼い頃から歌を歌うのが大好きな子供だった。

 皆に歌を聞いてもらうのが大好きで、今もその気持ちは変わらない。

 ユメの歌声を好きだと言ってくれている人がこんなにもいる。

 抽選にもれて来れなかった人もいる。

 ユメにとってはとても嬉しい事だった。

 立原は、ネット上でユメがまた復帰する日を待っている人がいる事を知っていた。

 だからこそ、ユメをこのまま埋もれさすのはいけないと思ったのだ。

「ユメちゃん、この様子はネットでも無料配信されてますので、今日来れなかった方も見てくれてます。画面の向こうの人にも挨拶しよう?」

 急にカメラを向けられ、ユメは動揺したが、なんとか言葉を紡ぎ出せた。

「み、皆さんありがとう…頑張って歌います」

 ユメがそう言うと、曲が流れ出した。

 さきほどまで緊張していたのに、曲が流れ出すとユメの心臓はだんだんと落ち着きを見せる。

 そして、作詞作曲してくれた永野が用意してくれた新曲を歌いはじめた。

 ユメは、人前で歌を歌うのは久しぶりだから、本当に大丈夫なのかどうか不安ではあった。

 けれど、その不安な気持ちを外に出さないように、ちゃんと歌詞の意味を考えて表現できるように、一つ一つ丁寧に歌い上げた。

 五分程度の歌だったが、ユメは一瞬で終わったような感覚に陥っていた。

 やはり、歌うのは楽しいのだ。

 みんなの前で歌えて嬉しい。

 歌い終わった後、観客は静まりかえっていた。

 ちゃんと歌えなかったのだろうかと、心配したのだが、それは逆だった。

 ユメの感情を込めた歌を間近で聞いて、みんな感動してすぐ声が出なかったのだ。

 どこからともなく、拍手の音が聞こえてきた。

 しだいにその音は大きくなり、ほとんどの人が立ち上がって拍手をした。

 拍手は三十分ほど途切れる事は無かった。

 中には、感動して涙をこぼしている人もいた。

「ユメちゃん良かったね…六歳の頃から見ていたよ」

 座って拍手していた女性は涙をハンカチでたまにおさえていた。

 自分の子供のように見守ってくれていた人もいる。

「やっぱ本物が歌うのはいいな!」

 アイドル時代にファンになった人もいる。

「生で聞いたの初めてだけどすごくいいじゃない!」

 ネット上にあげられた動画を見てから興味を持った人もいる。

 

 それぞれ、あらゆる方法でユメの存在を知り、この場に来てくれたのだ。

 ネットの無料配信を見ている人のコメントも見れて、ユメは嬉しさでいっぱいだった。

 自分は、確かに今、人に必要とされている。

 必要としてくれていた人達が目の前にたくさんいる。

 その真実がとても嬉しくて、あまりにも嬉しくて、ユメの瞳に涙があふれてきていた。

「みんな…ありがとう…ございます…」

 観客席に向かって、ユメは頭を下げた。

 これでまた、大好きな歌を歌えるのだ。

 ありがとう。

 その気持ちで今はいっぱいなのだ。

 前の事務所の契約で辞めた後は三年は歌を販売してはならないという話だったが、今日は完全に無料ライブで、ネットも無料配信の番組を利用している。

 三年の契約も、あと少しで切れるのだ。

 その間に歌の宣伝をいっぱいしようと社長は言っていた。


 元プチラブリーの上野ユメが芸能界に復帰した事はその日のうちにネットニュースとなって流れた。

 トップを飾った所もある。

 一人だけ、ずっと消えたままで、ユメは忘れられていると思っていたのだが、ネット上にあげられていた歌の評判がすごすぎたのだ。

 記事によっては引きこもりになっていた事まで調べられていたが、実の兄の不祥事が原因で芸能界を干されたという話を聞かれる度に嫌がらずネタにして盛り上がっている絵美里に逆にネタにしちゃえと言われたので、雑誌のインタビューで聞かれた時は、嫌がらずに笑いながら受け答えした。

 ただ時間がすぎるのをぼんやり待っていたとか、親との会話もほとんどないという生活をしていたと正直に答えたのだ。

 そうしたら、そこからさらに深く聞かれる事は無くなった。

 絵美里が言うには、隠すよりも多少は話したほうが興味が無くなるんだよという事だったが、本当だったので、ユメはなるほどと思う。


 そして、勇次と絵美里の恋の行方だが、ユメの予想通り、勇次の方がしびれを切らして絵美里に告白したらしい。

 結果はどうなったのか絵美里は教えてくれなかったが。

 でも絵美里の笑顔で、二人は上手くいったのではないのかとユメは感じていた。

 夕食をおごると賭け事をしていた事務所の人達は全員考えがはずれ、誰もご飯をおごることはなかった。

 ユメの予想は当たってはいたが、時期ははずれていたので、完全に勝ったわけではなかったので、お菓子を買ってもらうだけに落ち着いていた。


 ユメは現在、事務所が一週間に一回流しているネットの無料配信番組に出たりしている。

 歌の販売が可能になる時期がくるまで、少しでも顔をみんなに知ってもらうべきだと社長が提案したのだ。

 毎週その番組に顔を出し、何かしらトークをして、歌も歌う。

 そのネット配信番組は評判を呼び、閲覧数が少しずつだが増加傾向にあるという。

 ユメは、歌を歌いたかった。

 大好きな歌を。

 思う存分歌いたかった。

 その夢がやっと叶うのだ。

もう入り口に立っている。


 彼女の夢の扉は、今、開いたばかり。

                                   


                                     完


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夢の扉~天使の歌声~ M.Maria @junsuihouse

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