風の道:心・玄月
りん、と季節外れの音がした。
風が流れる音だ。
年中軒先に吊るされていながらも朽ちた音ではなく、変わらず無機質な高音を響かせている。
晩秋の冷たい風の中だとその音はどこかもの悲しさを感じさせる。
「もう少し……あと少しだけ待っておいで」
縁側から庭木に舞い降りた鴉にそう呟いて、彼女は空を見上げた。
「あと少しだけ……」
***
去年、大学を中退して就職を考えた。
でも、それもうまくいかなくて、母の勧めで茶道教室をしている祖母のところに三ヶ月前から居候している。
花嫁修業の一環で、というのは頑固な祖母に対しての口実で、手が不自由になった祖母のため、家事や身の回りの手伝いを私にさせるためだ。
茶道は小学生の頃から祖母の家に里帰りする度に少しずつ習っていたから、ある程度知識はあるが、家事は苦手で自信はなかった。
だけど実際居候してみると、手が不自由になったといっても左手の小指に包帯をしていたが、痛みも何もないようで、家事はほぼ祖母が中心になって私はちょっとした手伝いをするだけだった。
気鬱な日常。
でも、祖母といることは家にいるよりはマシだった。
古臭い人だけれど、余計なことは言わない。それがとても気を楽にしてくれた。
「えっと、これが……」
「
そんな中、一週間前に新しい生徒さんが入った。
大学生くらいだろうか。
若い男が茶道に興味を持つ経緯は分からないけど、おばさんばかりの茶道教室で既に彼はアイドルとなっている。
彼目当てに一昨日二人生徒さんが増えた。
いいことだね、と祖母は苦笑していたが、彼は全くの初心者で他の生徒さんと一緒にやるのは無理だと判明。
おまけにおばさんから質問攻めに合うなどして、稽古にならないので昨日から時間をずらして個人授業をしている。
それも、祖母は私の訓練だと言って、私が彼の面倒を見ることになった。
なんとなく、その口振りは彼を避けているように思えた。祖母のそんな素振りは初めてだったから、私はあまり彼にいい印象を持っていない。
それに普通は週に多くても二回のところ、彼は教室が休みの土日を除いて毎日通っている。
「茶筅って?」
「お茶を点てるものよ。コレがそう」
茶筅は茶道を知らない人でも見たことはある。
あのお茶を点てる時に使うシャカシャカと混ぜるアレだ。
だから、すぐに名前を覚えるかと思ったのだけど。
彼はあまり茶道には向いていないと既に思う。
正座は苦手だし、道具の名前も覚えられないし。
私の教え方も悪いのかもしれないけれど、それでもやっぱり向いてないと思う。
「また……」
鴉の鳴き声に、私は縁側に出た。
庭木に最近鴉がよく来るのだ。
「こらっ」
近くに寄るのは少し怖かったので、部屋から戸を少し開けた状態でそう追い払おうとした。
だが、鴉の方は私をじっと見つめたまま動こうとしない。
「放っておけばすぐにどこかへ行きますよ」
彼はそう笑んで私を見上げた。
りん。
風鈴の音が乾いた音をたてた。
その音はなぜか鴉よりも怖く私の中に響いた。
「お婆ちゃん、やっぱり無理だと思うんだけど……」
夕食の片付けをしながら、私は祖母にそう言ってみた。
「
「うん。私はまだ教えられるほどじゃないし……」
「おや。もう泣き言? 諦めるのが早いねぇ」
「だって……」
「お茶を点てるのはまだまだ。まずは道具の名前や基本的な流れを覚えて貰わなきゃね。それまではあなたでも大丈夫だと思ったのだけど?」
そう言われると返す言葉がなかった。
「何でお茶をやろうと思ったのかな?」
「理由は人それぞれ。若い人が興味を持ってくれるのは嬉しいことだよ」
祖母はそう言ったけど、その表情は複雑だった。
「……あの人、知ってる人?」
「どうして?」
「なんとなく……」
私が濁した言葉の奥を見透かして、祖母は何かを隠すように苦笑した。
「男のお弟子さんを持つのは初めてだから……それにあんな若い子。何を話したらいいか分からなくてね。あなたとは三つかそのくらいしか違わないようだから、押しつけちゃった」
冗談ぽく笑って、祖母は奥へと引っ込んだ。
私はもう祖母に何も聞けなかった。
翌日。
相変わらずぎこちない彼に、私は思い切って聞いてみた。
「どうしてお茶を習おうと思ったの?」
急な質問に彼は庭の方に目をやって、それから自分の手元に目を落とした。
「……大学で日本文化について学んでて、それでお茶に興味を……」
多分、これは嘘だ。
「ここの教室はどこで知ったの?」
「大学の友達がこの辺に住んでて……」
「……祖母のこと、知ってたの?」
その問いに彼はまた庭の方を見た。
庭に何があるというのだろう。
りん、と風鈴の音がした。
「……すみません」
彼は静かにそう謝った。
「決まりですから……」
「何の?」
その問いに彼は俯いて答えなかった。
とても辛そうに哀しそうに顔を歪め、そんな表情を見たらそれ以上質問することはできなかった。
***
「見つかりましたよ」
りん、と風が流れた。
「そう……残念」
彼女はとても哀しそうに庭木にとまる鴉を見つめた。
「あと、もう少しだったのに」
そう悔しそうに彼女は背後を振り返る。
そこには
「不当にここに留まることは許されません」
そうね、と彼女は呟く。
「あの子が哀しむわね。せめてお嫁に行く姿は見たかったわ。でも、誰かに奪られちゃうところを見なくて済むんだから、それはそれでいいことかもしれないわねぇ」
「……すみません」
「あら、謝る必要はないのよ。むしろ私がここを離れようとしなかったんだもの。謝るのは私の方ね。でも、謝らないわよ」
「はい。構いません」
どこまでも辛そうにする彼に、彼女は泣きそうな顔で笑んで空を仰ぎ見た。
「……だけど、もう少し……もう少しだけここにいたかったわ」
「それでも、あなたの器はもう既にここにはないのですから、繋ぎ止める為の道具を壊さなければ……」
「分かってるわ。未練はたくさんあるけど、見つかってしまったなら潔くするわ。私は仮にも茶道を教える者。道を教える者なのだから……」
だから自分で壊すわ、と彼女は凛とした表情で彼を見据えた。
その瞳の儚い強さに、彼は握りしめていたものを躊躇いつつも彼女に手渡した。
受け取った彼女の手は僅かに震えていたが、その震えを止めるかのようにぎゅっと握りしめて心に整理をつけると、足袋のまま縁側に下りて思い切り庭石に投げつけた。
りん、と風が流れた。
無機質で季節外れな高音が響く。
それは風が流れた音で、ただそこを通過したという音だ。
何度も風は風鈴を鳴らすけれども、それはそこに風が留まっている音ではない。過ぎゆく音なのだ。
割れたガラス球を見つめ、彼はガラス片の中から女の髪の毛と小さな骨を拾い上げた。
「それをどうするつもりだ?」
庭木の枝から鴉の姿は消え、代わりに少年が木の下で意地悪い笑みを浮かべ、彼を見上げていた。
「役所に報告して終わりだろう? 役所は誰が彼女にこの玉を渡したかを調べさせる。それでこの件は処理されて彼女の処遇が決まる。二回目だから分かるよ」
彼は少年にそう言って、複雑な表情を浮かべた。
その表情を見、少年は憮然とした顔になる。
「……いちいち感情移入してたらやってられないぞ。誰だって未練はあるさ。お前だってたくさんあったはずだ。門を越えればそれも忘れる」
「自分で納得して忘れるんじゃないだろ? 強制的に忘れさせられるんだ。だから、忘れることが幸せなことと同義じゃない」
「幸せかどうかが基準じゃない。ただ一度リセットする為にあの門はあるんだ。あの世には天国も地獄もない。知ってるだろ? だから幸せかどうかなんて問題じゃない。お前もいずれ分かるようになるさ」
そう笑みかけた少年の顔が厳しいものへと変わったのを見、彼は背後を振り返る。
そこには彼女の孫が立っていた。
「……お婆ちゃん……?」
庭に落ちた彼女の着物に視線が注がれているのを見、彼は俯いた。
「木元りょうさんは……三ヶ月前に既に亡くなっていたんです」
彼の言葉に彼女の孫は呆然と着物と少年と、そして彼を順に見回した。
「どういう……こと? だってお婆ちゃんは……あなた達は……誰……?」
何が起きたのか理解できずに混乱する孫に彼はゆっくりと顔を上げ、
「僕は
そう静かに言った。
***
「生きてる人間に名前は名乗ってはいけない。それは基本的な決まりだと思ってましたが……? 鬼流という名は特別であると最初に教わる筈なんですがね。その為に玄月という字があるのでしょうに。おまけにご丁寧に職業まで明かしたそうじゃないですか」
木元家の近くの橋の上。
役所の
その横で玄月は溜め息を吐いている。
「悪いな、手間を取らせて。コレはバカだから全然学習しないんだよ」
そう玄月が困った表情で言うと、狼は今度は玄月を睨んだ。
「あなたの監督不行き届き、教育不十分と見受けましたが?」
矛先が自分にも向けられた玄月は不機嫌そうに狼を見返し、お前のせいだぞ、と言わんばかりに心を小突いた。
「ま、酒を頂いたのでこのことは伏せておきますが、処理に苦労したことと少々経費が要ったことはよぉく覚えておいて下さいね」
にこりと笑う狼に、心と玄月はただただ苦笑した。
役所で働くこの狼という老齢の男は、大の酒好きでザルなのだ。
大量の酒を渡せば大抵のことは黙って処理をしてくれる。
今回の場合は木元りょうの孫の記憶を書き換える作業を頼んだのだ。
具体的には心が彼女に名を名乗ったことと職業を明かしたことを記憶から消し、それに加えて彼女の為に木元りょうが三ヶ月前に死亡していた事実を、もっと分かりやすいものへと変換することだ。
木元りょうは何者かの力を借りて、死んだ身体を生きているかのように見せかけていた。
割れたガラス球から出てきた髪と骨は彼女のものだったが、ガラス球は人の手によるものではなかった。
それにそれは彼女が死の淵にいる時、誰かが彼女の髪と小指の骨を抜き取り、ガラス球を作ったようだが、それができるのは彼らの身内にいる可能性が高かった。
だからわざわざ顔の利く狼を現世に呼び出して報告をしたというわけだ。
酒で動く奴ではあるが、それでもこういうことに加担するような奴ではないことを玄月は知っている。
そういう信頼もあって狼に調査する術師の人選も依頼した。
面倒なことを、と文句を言ったが、内心楽しんでいることを玄月は知っていた。
面倒な事案ほど燃える奴でもあるのだ。
「さて、そろそろ戻りますか。ああ、それはそうと、木元りょうを岸に送った時、センに術師行きの旨を伝えましたか?」
「あっ」
短く叫んだ心の横で玄月もヤバイ、という顔をした。
そんな二人に狼はうんざりした様子で溜め息を深く大きく吐いた。
それに呼応するように風が一陣、通り抜ける。
りん。
季節外れの音が風の行く道を変わらず知らせていた。
幽世綺譚1:常世の門 - The Gate Of World Only With Nights 紬 蒼 @notitle_sou
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