月の家
昔々、竹取の翁という者がいた。
ある日、光る竹の中から小さな女の子を見つけ、家に連れて帰り大切に育てたが、やがて美しく成長した女の子は月に帰ってしまった。
女の子の家は月にあったのだ。
だが、月は満ちては欠ける。
新月の日はここからだと家が見えない。
***
辺りは静寂に包まれていた。
まるで、全てが死に絶えてしまったかのような、風の
見渡す限りの闇。
月も出ぬ新月の闇夜。
人通りのない橋の上に音もなく降り立つ。
橋や交差点、いわゆる辻と呼ばれるような所は、彼岸と此岸を繋ぐ場所になっていることが多い。
「心!」
呼ばれて
振り返らずともその声の主は決まりきっている。用件も分かっていたので、ぞんざいに返事をする。
「今、行くって」
死神の試験に合格して、一ヶ月が過ぎた。だが、まだ半人前である。一人前になるにはまだまだ道のりは遠い。
一ヶ月前。心は死神の試験に落ちた。
が、その後、鬼籍に名前が上がりながらも、現世に縛られた魂を偶然見つけ、それを見事彼岸に導くことができたので補欠合格を貰い、合格の印である名まで得た。
その時、分かったことが一つだけある。
心は目はいいが、自分が何を見たか理解できない鈍感だということだ。
普通、修業を積んだ高位の死神でも、故意に現世に縛りつけた魂を見つけることは難しいのである。
それを偶然とはいえ見つけただけでなく、縛りつけている元凶を見つけて処理し、無事に彼岸に魂を導いたことは、飛び級ものの出来事である。
しかも子供のお使い程度の試験に落ちた、落ちこぼれの新米死神がそれをやってのけたのだ。
だが、半年経った今も魂を縛りつけた者のことは分からないらしい。それを探すのは死神の仕事ではない。
死神の仕事は死者の魂を彼岸に導くこと。ただそれだけなのだ。
生者を殺すこともない。扱うのは死者の魂だけ。何者かが関わっていた、とただ報告するぐらいしかできない。
心は自分の無力さを思い知った。
「心!」
再び呼ばれて心はああ、とかうう、とか唸るような返事を返してその場を離れた。 深夜。夜の底の暗闇が広がる中を、心は歩き出した。
***
街灯の下。
大学生くらいだろうか。男が一人、立っていた。空を見上げている。
男の姿は街灯に照らされて、妙に闇に浮かび上がって見えた。
私は男の視線の先を追って空を見上げた。
月もない。暗闇ばかりが広がっている。
一体、何を見上げているのか。
黒い髪。カラスの濡れ羽色とはあんな色をいうのかもしれない。それとは対照的に白い肌。黒いロングコートをぴっちりと着ている。
闇の中、そこだけが街灯のお陰で明るいせいだろうか。まるで別世界にいるように見えた。辺りがとても静かすぎるせいかもしれないし、この時期に黒のロングコートを着込んでいるからかもしれない。
私の足はゆっくりになる。なぜだかその男から目が離せなかった。男が何を見ているのか気になったせいもあるが。
そんなことを思いながら、その男の横顔を見つめていると、ふいにその男が振り返ったので目が合った。慌てて逸らす。
一瞬だったけれど、深い闇色の瞳が目に焼きついて離れない。
私は目を合わさないように、少し俯き加減になって男の横を通り過ぎた。
背中に男の視線を感じた。
少し足を速める。
「あ、あの」
男の声が私の足を止める。綺麗な声だった。
「明日……」
え? と振り返る。が、そこに男の姿はなかった。
幻……だったのだろうか。
辺りを見渡す。
細い、人通りのない裏道。真っ直ぐに横道などなく続いている。
道の片側は川で、反対は民家だ。
私は少しの間、その場に立ち尽くしていた。
残業で疲れているせいか、幻でも見たのだろうか、と不思議に思いながら。
再び街灯を振り返る。
街灯の下にはやはり誰もいなかった。
小さな橋の上。
そこにどこからかふわり、と舞い降りた大小二つの人影。
「お前、バカ?」
言われて心は身を竦めた。
欄干にふわり、と座るのは少年、
心は欄干に背を預け、少し俯く。
それで二人の高さは同じくらいになる。
「お前はバンシーか? どこに生身の人間に死ぬ日を教えるバカがいんだよ?」
玄月に言われて心はますます身を竦める。
バンシーとは人の死を予言する
元老院の地下で鬼籍に名を記しているのがバンシーだと言われている。
「だって……」
と小さく呟いたが、その先が続かず、玄月に溜め息を吐かれてしまう。
「お前は何だ?」
「死神……」
「死神の仕事は?」
「死者の魂を彼岸に連れて行くこと」
「死神がやってはいけないことは?」
「……まだ生きてる人に死ぬ日を教えてはいけない」
「分かってるなら、何で教えたんだよ? ああ、もうっ!」
監査官にバレたらどうすんだよっ、と玄月は頭を抱えて吠えた。
監査官は高位の死神が、死神を見張ることを仕事としている。死神が死神の仕事をきちんとこなしているか、と。
「しかも今回は自分で見つけて、じゃないんだぞ? わざわざ振られた仕事なんだぞ?」
ごめん、と心はますます俯いた。
「俺は長く生きてこの仕事も長くやってるけどな、お前みたいなバカは初めてだっ」 玄月はそう言うとカラスの姿に変わり、頭冷やせっ、と叫んでどこかへ飛んで行ってしまった。
一人取り残され、心は軽く溜め息を吐いて、またふわりと地を蹴った。宙に浮いた身体はどこかへと消えていた。
***
「ただいま」
そう言って「お帰り」と返って来なくなったのはいつからだろう。
私は灯りを点け、リビングのソファに上着を脱ぎ捨てると、台所で食事を探す。適当に冷蔵庫から今夜の夕飯の残りだと思われるものをテーブルに出し、茶碗にご飯をよそう。
静かな室内に私が食事をする音だけが響く。
妻とはもうあまり口をきいていない。中学になる息子と最後に会話をしたのはいつだったか思い出せない。息子の誕生日も妻の誕生日も覚えていない。結婚記念日などはもう何年も祝っていない。
虚しい生活だった。何が家族だろう。妻と息子だけが家族のように思え、自分は何の為に誰の為に働いているのか分からなくなる。
趣味の釣りも仕事が忙しくてする暇がない。その上、釣りだゴルフだと言うと、妻の機嫌は悪い。
食事を済ませ、食器を流しに運ぶ。
パジャマに着替えてそのまま眠る。
妻とは一緒に寝ない。別々の寝室。
溜め息を吐く。
ふと、帰り道に見た不思議な幻のことを思い出す。
明日、とは何のことだろう。
いや。あれは幻だ。特別な意味などない。明日も今日と同じことの繰り返し。何も変わらない。変わる筈もない。
私は目を閉じ、短い睡眠を貪った。
翌日。
朝は息子が起きるより早く家を出る。妻と同じ時間に起き、会話もあまりなく、ただ、「今日も遅いの?」「ああ」という会話がいつもだった。
だが、今日は違った。
「おはよ」
息子がなんか目が覚めた、と起きてきた。
「夕飯何にします?」
と、急に訊いてきて、私がえ? と瞬くと、だって今日はあなたの誕生日でしょ、と呆れた返事が返って来た。
ああ、と私は頷く。忘れていた。妻は覚えていてくれたのか。
「じゃあ、今日はなるべく早く帰れるように頑張るよ」
私は笑った。久し振りに笑った気がした。
幻はきっと私の誕生日を教えてくれていたのだ、と思った。
息子が何か欲しい? と訊いて来る。
「そうだなぁ」
私は新聞を広げて考える。
事故で誰かが死んだ、という記事から、経済の記事へと目を移す。
「何でもいいよ」
と、私が答えると、息子は何でもかぁ、と考え込むような声を出した。
「いつも何でもなのね」
妻が少し困った声を出した。
私はこの時間にいつまでも浸っていたい気分になる。ゆるゆるとした流れが心地良い。
息子がテレビをつける。
『……この事故で亡くなったのは……』
毎朝見るいつものニュース。画面に表示された時間を見て、私は新聞をたたみ、急いで朝食を片付けると、背広に着替えて慌しく家を出た。
少しゆるゆるとしすぎた。
だが、今日はいい日になりそうだ。
家族が待っている。
今日は「お帰り」と言って貰える気がした。
きっと。
***
「十時か……」
電車の中で腕時計を見、溜め息を吐く。
早く帰ると約束したのに、やはり少し仕事が長引いた。
家に着くのはどう見積もっても十時。
私は急いだ。
駅から走った。
家まではそんなに遠くない。走れば十分で着く。
が。信号に引っかかる。
こんな日に。
信号が青に変わった。瞬間、走り出す。
急がないと。妻が、息子が待っている。
妻が料理に腕を振るい、息子が私にプレゼントを持って。
私は走った。とてもとても走った。
日頃運動しないせいか、すぐに息が切れた。それでも走った。
が。
なぜかなかなか家に着かない。
「あなたの向かうべき場所はそちらではありませんよ」
静かな声が背後でした。
振り返ると。
あの、幻が。
「私の家はこっちだ」
私がそう言うと、黒いコートの男は悲しそうな顔になる。
「僕はあなたを……迎えに来ました」
私は眉間に皺を寄せる。
「私は急いでるんだ」
私はそう言って男を無視して走り出した。
が。
角を曲がると男が立っていた。
「だから、あなたの行くべき場所はこちらではないんです」
男はそう言って私の背後を指差した。振り返ると、交差点へと戻っている。
何が起きたのか理解できずに、私は立ち尽くした。
「思い出して下さい。あなたに何が起きたのか」
私は交差点に目を向ける。人がたくさん集まって、口々に何か言っている。何を言ってるのか私には分からない。
「何かあったのか?」
私が男に訊くと、男はよく見て下さい、と人垣の中心を指差した。
何かが転がっている。
赤い……あれは血か。
「事故でもあったのか?」
私の問いに男は一層悲しそうになった。
「はい。交通事故です。ひき逃げですよ」
「ひき逃げ……そりゃ、酷い」
かわいそうに、と私が呟くと、男は目を閉じた。
「君の知り合いか?」
男は首を振る。誰だか分かりませんか、と男は静かに問うた。
私は人垣に近寄る。人々の隙間から中を窺う。
血にまみれた背広の男。私と同じ位の年だろう。目を見開いていた。
「信号が変わった途端、飛び出したみたいで」
「轢いた奴、誰か見たか?」
「警察はまだか」
「救急車は?」
「心臓マッサージとか……」
「いや、先に出血を止めないと……場所移動させた方がいいのか?」
「動かさない方がいいんじゃ……?」
「酷いな」
「かわいそうに……」
会話が一気に私に押し寄せた。
その中心に転がってるのは……
あれは……
私、か。
「そうです。あなたは助かりません。僕の役目はあなたをあの世へ導くこと」
男の声はよく響いた。周りがこんなに騒がしくても。
「私は……どこへ行くんだ?」
私は力なくそう訊いていた。
死ねば天国か地獄に行く。
そんな御伽噺は信じてはいないが、死んだらどうなるのか知りたかった。
この男は何なのだろう。
「それを決めるのは僕ではありません」
男のその声に別の声が重なる。
「もうダメだ……」
誰のものとも分からない声が耳に届く。
「あなたは今、死にました」
男が無表情に宣告した。
「君は……何者なんだ?」
私の問いに男はこう答えた。
「死神です」
***
『
名前が書き込まれ、鬼籍が閉じられた。
この一ヶ月、毎日のようにたくさんの死を見てきた。
死んだ後に迎えに行くこともあるし、死の前に出会うこともある。
今回は死ぬ一日前に見つけた。
そして、なぜか死を防ごうと思った。
防げないならせめて、死ぬ日を知っていれば何か思い残すことを一つでも減らすことができるんじゃないか、と考えた。
なぜだか分からないが、そんなことをすれば死神にとっては重罪だ。
「バレてないみたいでよかったな」
帰り道、玄月がそう意地悪く呟いたので、
なぜそうしたのかは玄月にはバレていないはずだ。
「もし、バレてたら謹慎だな」
玄月は言いながら笑う。
「それはクロも同じだろ。僕達は二人で一人なんだから。同罪だよ」
心がそう言うと、玄月はやっぱ半人前だな、とふふん、と鼻を鳴らした。
「俺はお前の半身だが、死神かっていうと厳密にはそうじゃない。俺はお前の仕え魔みたいなもんだ。だから、全ての責任はお前にある。勿論、俺がヘマした時もお前が罪を被るんだよ。だが、お前の罪は俺には降りかからない」
不公平だな、と心がぼやくと、玄月は楽しそうに笑った。
***
「家に……帰りたかった……」
今日だけは、と竹谷勲は門の前で呟いた。
が、それも門をくぐれば光の中で記憶の全てが消えた。
九時。
「お父さん、遅いわね」
食卓には豪華な食事が並んでいる。冷蔵庫にはケーキもあった。
「プレゼント、靴下にしたんだ。なんかさ、この間、破れたやつ見ちゃったんだよなぁ」
十時。
「また無駄になっちゃったみたいね」
溜め息が室内に零れた。
「ケーキ食べてい? どうせもう帰って来ないよ」
「……そうね。食べちゃいましょうか」
十二時。
電話が鳴る。
「やっと謝りの電話かしら?」
苛立つ声。
「はい。竹谷です」
「竹谷勲さんはお宅のご主人ですか?」
「……ええ。そうですが?」
声の調子が変わる。
「誠に申し上げにくいのですが……お宅のご主人が事故でお亡くなりに……」
「え?」
状況が飲み込めていない表情。
「ひき逃げに遭われましてね。死亡推定時刻は午後十時前後。目撃者も数人いましてね、どうやらよほど急いでらしたようですよ。詳しいことは電話ではなんですので、こちらの方に来て頂いて……ああ、もう遅いので、明日の朝ご遺体の確認も兼ねてお願いしたいのですが……あの……?」
崩れ落ち、息子が部屋から顔を出す。
「父さん、何だって? もう帰って来る? 母さん?」
それは突然。
どんな手を尽くしても、女の子を引き止めることはできなかった。
迎えが舞い降り、女の子は空へと昇る。
そして、二度と地上へは戻らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます