幽世綺譚1:常世の門 - The Gate Of World Only With Nights

紬 蒼

本編

一炊の夢

 人は生まれるとき、両手を握り締めて生まれてくる。

 それはあらゆる欲望を握り締めているから。


 人は死ぬとき、両手を開いて死ぬ。

 それはあらゆる欲望を手放すから。


 そんな話を昔誰かに聞いた。

 なるほど、と一瞬思ったけど、手を握り締めたまま死ぬ人もいる。

 それは死んでもなお、欲を握り締めているからだろうか。


 死んだら人はそれで終わり。

 死んだらもう何もできず、何も感じず。

 まるで電気のスイッチを消したみたいに、真っ暗闇になって全てが消え去る。

 ただ、土に還るだけ。


 なら、手放せない欲なんかないんじゃないか。


 でも。


 こんなに科学が発達した現代でも、死んだ後のことは誰も知らない。

 幽霊だってまだその存在を完全に否定できていないのだから。


 死んだらどうなるのだろう?


 それは今の僕たちにはまだ分からないこと。

 生きている僕たちにはまだ分からないこと。



***


 ひらり。


 桜の花弁が一枚、舞った。

 池に落ちる。

 波紋が小さく広がる。


「契約成立だな」


 男は口許くちもとを歪めた。

 笑っているのか。

 目は笑んでいない。

 本当にこれでいいのか。


「娘は返したぞ」

 静かな声がよく響いた。

 す、と男は私の背後を指差した。その先には、満開の桜があった。


「それが目印だ」

 私はただ、俯いた。


 満開だった桜が、一気に花を落とした。

 池に大雨がザアァッと降り注ぐように波が立ち、その音は胸の奥まで響くようだった。


 池が淡く染まった。


***


 ひらり。


 桜の淡い花弁が一枚、膝の上に落ちた。

 試験に落ちた。


 青い空を見上げていると、落ち込んで悩んでいる僕がとても小さな存在に思える。


「いい天気だなぁ」


 春の昼下がり。人もまばらな公園。

 ベンチにだらしなく腰をかけて、のんびりと春をしみじみ感じていると、視界を一羽のカラスが横切った。


「あんな簡単な試験に落ちるなんて、へっぽこだな」

 ベンチの後ろから小学生くらいの少年が、ニカッと笑って顔を出した。

 視線を空から目の前に戻すと、少年は落ち込む僕の横に腰を下ろした。


 いつのまにか少し離れた場所で、小さな子供と母親がボール遊びをしていた。

 スカートをはいてるから、女の子だろう。

 転がるボールを子供が追いかける。

 どこにでもある普通の親子の風景だった。


 だが。

「なんか妙じゃないか?」

 僕がそう違和感を訴えると、試験に落ちたのによく分かったな、と少年に皮肉で返された。


 子供が転ぶ。母親が慌てて子供に駆け寄り、大丈夫、と声をかけている。

 子供は痛がる様子がなく、きょとん、としている。

 転んだ拍子にめくれたスカートから、パンツが丸見えになってるのを、母親が直している姿が微笑ましい。


「どうにかしろよ」

 少年は僕の肩をパシッ、と叩いた。

「どうにかなったら、僕の未来は明るくなるかな?」

 なるんじゃないか?と少年は楽しそうにした。

 僕はしばらくその親子を眺めていた。


***


 澄んだ水面に桜の枝が映る。

 夜にはそこに月が重なり、美しい姿が浮かび上がる。

 だが。

 花弁が風に舞い、水面に落ちる。

 波紋が広がり、それまで美しく浮かび上がっていた景色が歪む。

 花弁一枚。

 ただそれだけで、そこに映っていたものが消えた。



 春の昼下がり。

 僕と少年は翌日もまた同じ時間に公園に来た。

 ボールが転がる。

 公園に入るなり、僕の足元でボールが止まった。

 それを子供が走って取りに来る。昨日の女の子だった。

 膝にはバンソウコウが貼られていた。ガーゼの部分が紅く滲んでいる。


「年はいくつ?」

 僕はボールを拾い上げ、屈んで子供と目線を合わせて訊いてみた。

 子供は僕を見上げ、四つ、と指を三本出して言った。

「四つだとね、指が一本足りないね」

 僕は笑って言ったが、多分子供は小さくて理解していない。

「名前は?」

 そう訊いているところで、母親がすみません、と言いながら僕からボールを受け取り、そそくさと去る。

 なかなか近づけない。

 が、なんとなく事情は分かった。

 さて、どうしたものか。


「……あの子を連れて行けば試験に合格できるかな?」

「ただ連れて行くだけじゃ合格できるか怪しいな……俺達のことわりは何だ?」

「あるがまま?」

「ま、ざっくり言うとそうだな。じゃ、何すればいいか分かるな?」

「……元を探す?」

 僕が恐る恐る訊くと、少年は鼻の頭を掻いて、臭いはこの近くなんだけどな、と呟いた。僕は周囲を見渡したが、よく分からなかった。

「夜の方がやりやすいか……」

 僕がそう呟くと、少年は落ちこぼれだからな、と笑った。



 夜。

 再び公園に入る。

 月がとても大きく見えた。

 その下で、満開の桜が揺れていた。風が冷たい。


「あれだけ花があまり咲いてないね」

 この公園の奥には桜並木とまではいかないが、数本の桜が並んだ道がある。

 側には水溜りのような小さな池がある。

 池の水面は散った花弁で半分程覆われていた。

 その池に一番近い桜の木が一本、それだけが花をつけていない。他の木は全て満開だというのに。


「見ろ。傷だ」

 少年がその木の幹を指して言った。確かに傷がある。その傷は特別な意味を持っていた。

「これはプロの仕事だな」

 少年が真剣な表情で傷口を見つめて言う。

 こういうことに関して、僕よりこの少年の方が詳しい。

「じゃあ、あのお母さんが誰かに頼んだってこと?」

「頼んだってより、そいつの方から営業でもしたんだろ」

「営業?」

 僕が問い返すと、少年は溜め息を吐いた。


「そんくらい分かれよ。だから試験に落ちるんだよ」

 僕は素直にごめん、と苦笑する。

「普通はな、プロのことを知ってる人間ってのはいないんだ。だから、向こうからそういう奴捕まえて、こんなことできるけど契約しないか?って持ちかけて来るんだよ。弱ってる人間はそういうのに漬け込まれやすいからな。すぐに契約の内容なんて聞かずに頼んでしまうんだ」

 説明されて僕は改めて傷口を見た。


「悪徳商法だよ」

 少年は軽蔑して言った。

「じゃあ、どうすればいい?」

「プロは放っておけ。それは別の奴等の仕事だ。俺達はあるがままに戻すだけだ。そう習っただろ?」

 うん、と僕は頷く。僕は僕にできることをする。できないことはどうしようもない。それはとても残酷な気もするけど、限界はどうしてもある。僕は万能じゃない。その上落ちこぼれだ。

「この傷を消して、流れを元に戻せば花が咲く。そうすれば……全て元に戻る、だね?」

 僕が確認すると、少年はそういうこと、と静かに頷いた。


***


 昼間、春だというのに黒いコートを着た青年が公園にいた。

 昨日も見た。今日は娘に話しかけていた。

 母親の私以外にはあまり話さない、人見知りの激しい子なのに。

 娘は普通に話をしていた。

 怖かった。

 その青年が娘をどこか遠くへ連れて行く気がしたからだ。

 また、一人になるような気がして。

 とても怖かった。


 四年前。私は夫と離婚した。

 離婚後、夫の子供がお腹にいることが分かった。

 でも夫には何も言わなかった。もう、他人だったからだ。生まれた子供は女の子で、とても愛らしく、大変だったけど癒された。一人じゃない、とそう思えたから。


 その娘が死んだ。


 娘はまだ一歳になったばかりだった。

 風邪だった。ただの風邪をこじらせて死んだのだ。

 それだけで?

 私は温もりの消えた小さな娘の身体を抱いて、ただ悲しいというより驚いていた。

 すぐに病院には行かなかった。死んだということを受け入れられなかったからだ。だから、涙も出なかった。


「娘を返して欲しいか?」

 死んだ娘を抱いて、私は多分、眠ってしまったのだ。


 それは夢だった。

 男が現れて、娘を生き返らせてくれる夢。

 いや。娘は死んでなどいなかった。

 そう。娘が死んだということが夢だったのだ。

 嫌な、本当に嫌な夢を見た。


 目を覚ますと、娘はやっぱり生きていた。

 ちゃんと背も伸びた。ご飯も食べる。いつもの生活だ。変わらない、何も変わらない娘がそこにいた。

 ただ、表情が極端に乏しいように感じたが、娘と一緒にいられるならそんなことはたいしたことじゃなかった。

 転んでも泣くこともなく、くすぐっても笑うこともないけれど。


 それから三年が経った。

 娘は桜の咲く季節になると、とても元気になる。

 そういえば。

 娘を連れてよく行く公園には桜がある。公園にいる間、娘はどことなく嬉しそうだ。表情には出さないけれど、そう感じる。


 桜。


 夢にも出てきた。

 夢では桜の花は全て落ちたけど。


 ことん。


麻衣まい?」

 娘の名を呼ぶ。部屋は静まり返っていた。


 夕食の後片付けの間、麻衣は一人でテレビを見ている筈だった。

 私はテーブルを拭いていた手を止め、テレビのあるリビングに行く。

 テレビの前のソファ。娘はソファに座らずにその前の床に座ってテレビを見る。

 私は予感のようなものを抱いて、そっとソファ越しにその向こうに座って、テレビを見ている筈の娘を覗き込むようにして見た。


 私は娘の名を叫んだ。悲鳴に近い声で。

 異様な光景が視界に広がる。

 床に倒れている娘。

 その身体に厚みがない。


 娘はテレビの前で。

 白骨化していた。


***


 闇は夜よりも夜明け前の方が深い。

 それは夜の底なのか、それとも朝の蓋の裏側なのか。



 桜が咲いた。

 桜の木の後ろから女の子が現れた。

 それは昼間公園で見た子供だった。

 膝にバンソウコウはない。転んだ傷は綺麗に消えていた。

 僕のするべきことは、僕にできることは、この子が行くべき場所へ連れて行くこと。迷うことなく、そこへ辿り着く為に。

 それが僕と少年の仕事。



栗原麻衣くりはら まい


 そう記入され、本が閉じられた。

 表紙には『鬼籍』と書かれている。


「ご苦労。これで試験合格とする」

 静かな声がよく響いた。


「名を鬼流心きりゅう しんとし、あざな玄月シュアンユエとする。門をくぐるがいい」


 門の前に立つ。

 桜の命を死んだ子供に移すことで、あの女の子は生きていた。いや、生きていたのではない。そう見せかけていただけだ。死んだ人間を生き返らせることは誰にもできない。


 女の子が門をくぐる。

 この世とあの世を隔てる門。

 光が眩しく満ちている。

 その光はこの世とあの世の記憶を消す。一番強い感情だけを残して。


 そして、僕達は門の向こう側に立つ。

 僕は振り返る。

 桜は散り、やがてまた春が巡れば花を咲かせる。

 終わりではないけれど、その儚さは人の夢のようだ。


 少年はカラスになっていた。

 もうただの少年でもカラスでもない。これは僕の字で呼ばれる、僕の半身だ。


「玄月は呼びにくいなぁ」

 僕はそう笑って、クロ、と呼んだ。

 少年――今はカラスの姿であるが――は、少し不服そうにしたが、それでもいっか、とぼやいた。

『玄』という字は『クロ』とも読む。


「じゃあ、お前はしんか」

 僕はくすぐったい気持ちでうん、と頷いた。


 僕達はそうやって死神になった。


***


 唐の時代。盧生ろせいという貧しい青年が、旅人から不思議な枕を借りて寝たところ、夢の中に自分の生涯が映し出された。夢は青年もやがて結婚し、子を持ち、大臣にまでなって幸福な人生を終えるというものだった。

 青年が夢から覚めてみると、彼がうたた寝を始めた時に、旅館の主人が蒸していた黄梁こうりょうがまだ蒸れていないほんの一瞬のことだった。【出典:一炊の夢】



「嫌な夢……」


 目を覚ます。娘を失って三年経つ。

 三年間、毎日同じ夢を見た。

 娘が生き返って、また幸せな毎日を送る夢。


 でも、目が覚めれば娘のいない寂しい生活。何度も娘を奪われた気分になる。

 それでもその夢が私の支えになっていたのは確かだ。

 だから、あれはいい夢でもあった。


「麻衣……」

 呟くと娘の笑い声が聞こえた気がした。


「ごめんね……」

 私は涙を流した。


 ふと、桜の香りがした。

 そんな気がした。


 もう夢の中で娘は成長することはなかった。毎日見続けた夢も今はもう見ない。

 振り返ると、それは瞬くような僅かな間の幻だったのかもしれない。



※黄梁:大粟おおあわのこと。

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