φ


 その日も、少女にとってはいつもと変わらない、さして取り上げることもない平凡な〝逃げ出したくなるような〟日常のはずだった。


(私のことを知ってる人がいない、遠くの場所にいけたらいいのに……)


 朝起きると、少女はそう考えるのが習慣になっていた。続けて、


(この世界がただ悪い夢なだけだったら……)


 と、いつの日かなにかのきっかけで目が覚めるんじゃないか、そう心の奥のどこかで望んでいた。


 こうして少女の一日は始まる。


 両親は共働きで、三つ下の弟は部活で、朝早くから少女以外誰もいない。

 朝だけでなく学校から帰ってきても、二十時過ぎまで一人というのは別段珍しくなかった。


 ベッドを出ると一階にある脱衣所の洗面台で歯を磨く。そのままパジャマを脱ぎ、簡単にシャワーで昨夜の寝汗を洗い流してから、制服に着替える。

 朝食はというと、いつも箱単位で買い置きされているゼリー飲料だ。どんな場所でも手軽にエネルギー補給ができるという謳い文句の食品を、テーブルの席にしっかり座って食べる辺りが、少女の生真面目な性格がうかがえる。


 リビングで映るテレビでは、最近世間を賑わす〝神隠し〟の話題についてどこかの大学の教授が難しい顔をして論じている。どうやらここ数ヶ月で、行方不明者が五万人にのぼるらしい。


「よし……」


 少女は自分を鼓舞させるように呟くと玄関の扉を開け、うんざりするような世界へと足を運ぶ。


 少女に対する周囲の評価は「地味で鈍臭い、抜けてるけどそれなりに真面目で、多分良い子」というぼんやりしたものだった。

 小さく童顔な頭部を包み込む髪は、特別長いわけでも、短すぎるわけでもない、一般的なミディアムショート。もちろん脱色もなく真っ黒、そして艶やかであった。

 日中通う高校指定のブレザーも至ってシンプルな黒のジャケットとプリーツスカート、ネクタイの色もこれまた平素な赤で、より一層少女の地味な印象を後押ししていた。

 というのも、今時の女子高生はそういった定められた制服の範疇から校則の抜け目を見つけたり、あるいは堂々と破ってオシャレに躍起になるもので、ジャケットの中に可愛らしい色のカーディガンを着てみたり、スカート丈を膝上になるように短く折ってみたり、その他様々な創意工夫をするものであるが、少女は一切無頓着だった。


 そんな制服に包まれた体は、小柄で細く、貧相とまで言わずとも華奢で、典型的なインドアタイプ。それに加えてセルフレームのメガネを掛けていたら、「地味」と言われても仕方ない要素しかなかった。

 なんとも言えない田舎臭さを醸し出すその姿こそ、彼女らしさなのかもしれない。


 評価の内で「多分」と曖昧に言われてしまうのにも理由があった。

 少女は高校に入学してまだ半年ほどだが、友達を一切作ろうとせず、休み時間も自分の席で読書をするか絵を描いているだけで、昼食もまた一人だった。


 その様子はさも「話しかけないでください」と言わんばかりで、入学当初こそ数回クラスメイトの女生徒たちが昼食や放課後の寄り道に誘ったものだが、それも何かしら理由をつけてことごとく拒否していたようで、とうとう完璧に孤立し、彼女のことをよく知っている者がほぼ存在しないのだった。

 どうして人との関係を拒むのか、それは「鈍臭い、抜けてるけどそれなりに真面目」という性格が原因となっている。


 今でこそこうだが、インドアタイプな部分は変わらずとも実のところ少女は中学二年の初め頃まで聡明で明るく、人当たりの良い子だったのである。

 弟がいることが手伝って男にも多少慣れており、女子の友達だけでなく男子生徒とも満遍なく交流していた。人当たりの良さや真面目さが相俟って、人から頼られることも多かった。

 しかし、それは次第に「頼られる」から「利用される」へニュアンスを変貌させていく。断りきれない意思の弱さからみんながやりたがらないことを押し付けられていった。クラスの学級委員長に任命されたり、学校の行事などで指揮するポジションにも就かされたが、彼女は真面目に取り組み、頼られる嬉しさを感じつつ楽しんでいた。


 そんな少女がなぜ変わってしまったのか。


 小学校や中学校一年の頃は、真面さと人当たりの良いという性格が助けて、彼女が少々鈍臭かったり、失敗をしても周りは皆「わざとじゃないから。ただ空回りしちゃっただけだよね」くらいで済んでいた。かえって表向きではドジキャラとして可愛がられる愛玩動物のようなポジションを得ていたともいえる。


 だが、少女にとっては居心地がいいものではない。不本意だった。いつか愛想をつかれるのではないかと、不安を心のどこかで漠然と感じていたのである。

 その不安が現実になるのは、中学二年の文化祭前夜にクラスで教室の装飾に勤しんでいた時。

 押し付けられるような形で、少女はリーダーとなった。


 クラスでは、お化け屋敷を行なう予定だった。

 メインの作業は、教室の壁一面を埋め尽くす大きさのダンボールにペンキや絵の具で絵を描き、お化け屋敷の恐怖感を演出していくというものだ。

 決めた計画に少々無理があったらしく想定よりどんどん押してしまったが、クラスメイトは嫌な顔一つせず張り切り、その作業を楽しみつつ完成に向けて協力し合っていた。

 そして完成した。


 窓の外は、すっかり暗くなっている。

 クラスメイトはみな歓喜し、互いに顔に付いたペンキで笑ったり、最高の文化祭を迎える準備は整った。


 ――きっかけは、些細なことだった。


 少女が足元にあった物につまずいてしまったのである。

 ただ、疲れていただけかもしれない。少女でなくとも気が散漫し、誰がやってもおかしくないくらいに、そこにいた全員の疲れが溜まっていた。それがたまたま、また少女だっただけのことなのだ。


「?」


 視線を足元に落とす。

 その光景に、少女は息を詰まらせた。

 ゆっくりと押し寄せ、静かに浜を侵食するさざ波のように広がる白い塗料。

 しかし波のように引いてはくれず、描かれた絵を上塗りしていきながら満ちていくだけだった。

 あっという間にクラスの努力の結晶は水の泡になってしまった。

 少女の小さな不注意が、その全てのダンボールを一瞬にして無駄にしてしまった。


 冷たい手が、心臓に触れた気がした。


(またやっちゃった……)


 頭が真っ白になって、息が苦しくなった。


「え……あ……」


 スカートの裾にペンキがついてしまうことも気にせず、慌てて缶を退けてダンボールを立てるが、取り返しのつかない域まで染まっていた。


(朝からこんな時間まで……みんなでやったのに……)


 自己嫌悪の念が、頭の中で渦巻き暴れる。


「うわ~、やっちゃったか」

「え? なになに? どうしたの?」

「まぁ、疲れてたしな……」


 少女の周りに、野次馬のように生徒が集まる。意外にも、非難の言葉はなかった。少女の人生はこういったエピソードを列挙したらきりがない。日常茶飯事だった。


 そんな声が聞こえると、少女は心のどこかで(またみんなが許してくれるんじゃないか)と考えてしまった。少女の失敗だらけの人生で、初めてそんな都合の良い考えに至ってしまった。


「また描き直せばいいじゃん? ドンマイドンマイ!」そう、また誰かが言ってくれるんじゃないかと、愚考を抱いてしてしまった。


「ふざけんなよ……」


 囁き。


 とても小さな声だった。


 しかし残酷にも、少女の耳にははっきりと届いていた。


 騒めく生徒たちのなかで、その言葉がやけに響いた気がした。


 誰かの囁きを皮切りに、あっという間に雰囲気が変わった。


 積もりに積もったクラスメイトの怒りや不満、苛立ちの感情は、言葉に形を変えて少女に容赦なく降りかかった。


 小さなきっかけ。要因であって、原因ではない。僅かでもヒビの入ったダムは、そこから止めどなく水が溢れ出し、決壊に導く。まさに同じだった。



 その日を境に、少女の日常は大きく変わった。



 周りの評価は一変し、無理矢理任されていただけのものが「でしゃばりのクセに足を引っ張る奴」というものに変わり、最終的には「可愛い子ぶるためにわざとやってるあざとい奴」にまで転落し、仲が良かった友達は自然と離れていった。少女が虐められるようになるまでには、そう時間はかからなかった。


 いつしか以前の明るさなど見る影もない、暗い卑屈な性格に移り変わってしまった。


 少女には居場所がなくなった。


 日々の生活に希望がなく、ただ時間を無為に消化するだけ。誰に相談できるわけでもなく、自分の胸の内に溜め込む。


(どこか他の世界にいきたい……)


 そう考えるようになった。


 与えられた困難や理不尽にとりあえず立ち向かおうという責任感やポジティブな考えは、どこかに消えた。現実逃避が癖になった。すっかり塞ぎ込んでしまった。


 それが過剰に人を避ける理由だったのだ。

 だから彼女は、できるだけ人と関わりたくなかった。

 今日も必要最低限の会話だけで学校生活を過ごし、休み時間を利用して小説を一冊読み終えた。少女が逃げ行きたいような異世界を舞台にしたファンタジー小説である。

 校門を出た先に見えるすっかり秋めいた街路樹の道を抜け、帰路についた。

 バスと電車を乗り継いで、一時間掛からないほどの距離に、少女の家はある。


「ただいまぁ……」


 誰もいないとわかっていながら、少女は律儀に声をかける。もちろん返事はない。

 そのまますぐに二階の自分の部屋に向かう。


(今日もやっと終わった……)


 家へ帰ると部屋着に着替える間もなく、制服のままベッドへ倒れ込む。

 神経が人より細い少女は、何事もなくとも学校に行くだけでも気疲れしてしまうのである。


「あとどのくらいこんな生活が続くんだろ……大学生になったら変わるのかな……」


 見慣れた天井を見つめて呟く。

 すると、ふと今朝のニュースを思い出した。

 三ヶ月ほど前から世間を賑わしている〝神隠し〟と呼ばれる、集団失踪事件のことである。

 当事者に共通点はなく老若男女、さらには住んでいる場所や状況もまばら。忽然と姿を消す、怪事件。なんらかの組織の陰謀なのか、はたまた自然現象によるものなのか、全く原因がつかめていない。現在確認されている行方不明者は五万人と今朝報道されていた。


 しかし、ネット界隈では

「報道規制されているだけで五万人を遥かに上回る」

「海外でも起こってるから、規模が計り知れない」

「過去に多くの行方不明者を出した事件や災害も、この事件と関連しているのではないか」

 など、まことしやかに囁かれ、噂は広まるばかり。


 現実の逃避を繰り返す少女にとっては興味を持つには十分すぎる出来事で、彼女なりに様々調べたものだが、なにもわからなかった。

 少女は宝クジの一等を夢見る大人のように、漠然と〝神隠し〟に希望を抱いていた。


「もしかしたら、この世界から逃げられるのではないか」と。


(神隠しか……私も神隠しにあって、どこか行けたらな……って、ちょっと不謹慎かな)

 そう考えていると、疲れが少女を襲い、瞼が重くなる。


(せめて着替えてから寝ないと、制服がシワになっちゃう……)なんてことを考えていたが、思考に反して意識は次第に朦朧となり、視界が暗くなっていく。


 そのまま少女の意識は落ちていった。


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