第9話 想定外

 「歩けない方は何人でしょうか?」桜井さんが車掌さんに状況を確認しているところにやっと追いついて皆さんの輪に入り聞き耳をたてる。「全部で8名いらっしゃいます」もともと怪我をされていた方、避難誘導中に怪我をされた方、体調が悪く動けないかた、視力が悪く介助がないと動けそうにないかた、想定以上にこの人々を後ろの駅まで安全に誘導するのは大変そうである。普通に歩ける人でも水の抵抗を受けて歩くのは体力を相当奪われた。車両の中は比較的涼しく、みなさん座席にゆったりと腰掛けられているので無理して移動しなくてもいいのではとも感じる。カンテラの明かりだけでは少し薄暗いので心もとないのと、外の排水溝から流れ落ちる水の音が不気味に鳴り響いていることが不安をあおるが、車両の中は何も問題なく快適である。

 近藤さんが車掌さんとしばらく二人で話し込んでいる、たしか国の災害対策関連の仕事をされていたから、その知識を基に今後の最善策を提案されているのだろう。薄暗いが車両の外側の水かさは先ほどからはほぼ変わらず落ち着いているように見え、排水溝からの水音も心なしか小さくなっているように感じる。ほどなく車掌さんが「皆さん、一旦この場所にて待機をお願いいたします。復旧の見込みはまだはっきりとお伝えできませんが、ここの状況は安定しておりますし無理して動くことは得策ではないと判断させていただきました。救助に来ていただいた皆様には大変感謝しておりますが、このまま一緒にこちらで待機いただけますようお願いします。」力強く簡潔な言葉で伝えられた。皆さんも同じように考えていた様子で特に反論もなく、ほっとした空気が流れる中それぞれ近くの座席に腰掛けたり、横になられたりしている。本来は本部の指示があって対応を取るのだろうが、音信不通の状況の中で勇気ある決断である。なんとかこの非日常の状態からみんな無事に日常に戻れることを祈るしかない。自然の驚異の前では我々は本当に無力であると実感した。

 ほっとしたのも束の間皆が顔をあげた「ゴォ~ッ…」地鳴りのような不気味な音とともに車両が一瞬ズンと下に引っ張られたように沈み込んだ感覚を覚えた。「ガシャン…」吊り輪にくくっていたカンテラがはね落ち明かりが消える「なんだ…地震か?」と言っている最中に身動きは取れなくなる、大きな縦揺れが連続して襲ってきた、暗闇の中なんとか座席の横にある鉄パイプをつかんで踏ん張る。周囲の人を助ける余裕はまったくない。自分自身のことを守れるかもわからない激しい揺れである。次の瞬間車両の後ろ側がななめに沈んでいくことを感じた。なぜ地下鉄で車両が沈んでいくのかまったく理解できなかったが、必死に鉄パイプにしがみつく。あっという間に車両の中に水が流れ込んできている。「きゃあ」「ジャボッ、ジャバッ…」小さな悲鳴と共に誰かが水の中に落ちたようだ。揺れはまだ断続的に続いている。下の水のほうからは声も音も聞こえてこない、沈んでしまったのか、助けに行きたいがこの状況ではどうすることもできない。「ウッ、ハァハァ」下のほうから激しく呼吸をしている音が聞こえた。「大丈夫ですか?」こちらの問いかけには反応はない。揺れの恐怖もおさまらないなか、車両の中に水がどんどん入ってくる。何故こんな状況になっているのかまったく理解できないのだが、車両からなんとか脱出しないといけないのだけはわかる。車両の窓の開け方はわからないままなので、緊急時にドアを開けられるレバーのありかを探す。普段なんとなく目にしていたのだが、あせると見つからない。車両の端にしかないのか、すべてのドアについているのか、座席の下だったか、消火器の近くだったか、スローモーションで時間が流れている感覚なのだが実際は何もできていない危機管理能力のなさを今更だが反省する。あっと言う間に水かさはすぐ近くまで迫ってきた。暗くてはっきりわからないが、水中に5~6名くらい浮かんでいるようにみえる。「窓の開け方か、緊急時のドアの開け方わかるかたいらっしゃいますか」水の中でそれどころではないと思いつつも水面のほうに声をかけて反応を待った。なんの反応もなく、私もあっという間に水に飲み込まれた。泳ぎには自信があるが、外に出られなければこのまま溺れ死ぬのを待つしかないかと頭を過ぎる。そう思った瞬間、急に腕をつかまれる暗くてはっきりと人物はわからないが、指をさしてこっちに泳いでこいと言っているようだ。一度顔をあげて大きく息を吸い込んで水中に戻る、先ほど示された方向に泳ぐと、車両の窓が開いていて外に脱出することができた。すぐに上に向かって浮き上がると、同じように脱出された方が5名いて斜めになった車両の屋根部分につかまっている。まだ車両内に取り残されているかたが複数名いるようである。桜井さんも車掌さんの姿も確認できない。

 

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