第8話 車掌
「お急ぎのところ大変申し訳ありません。先方の駅に前の電車が止まっている状況ですので、しばらく停車いたします。状況がわかり次第お知らせさせていただきます。ご迷惑をおかけし大変申し訳ございません。」ラッシュの時間帯でもないのに、信号停止は珍しい。無線の連絡でも何が理由なのかわからない様子である。緊急停止ボタンや急病人の発生、人身事故の連絡も入っていないようである。雨が激しいようだが、雨で地下鉄が止まるなんて聞いたことがない。雷であれば停電するはず?停電しても緊急用のバッテリーですぐ復旧するはずである。空調も無線も無事なのだから雷でもなさそうだ。乗務して30年この時間帯に止まった理由がすぐにはっきりしないなんて初めての経験である。
無線で運転手の中村さんから「木村さん、こんな状況今までにありましたか?」と問いかけられた「残念ながらないんだよ。過去に一度だけ乗客を線路に降ろして誘導したことがあるんだが、今回もそうなるかもしれないなぁ。前回は乗り入れ先の小田●線の線路に木が倒れ込んでと理由は明確にすぐわかっていたんだがね。理由がすぐわからないなんてことはなかったね。」「ですよね。理由がわからないなんてサ●ン事件の時くらいですから、まさかテロじゃないですよね。」そうかサ●ン事件があった。20年も前のことをすっかり忘れてしまった。あの時でも霞ヶ●駅を通過して運転するようにと指示がすぐあったのだから今回はテロではなさそうだ。それにしても理由がわからないのがこれほど気持ち悪いとは、乗客のイライラが溜まるのも恐ろしい、早くこの状況が打開されることを祈るしかない。
「後ろの駅に誘導ですか?戻るんですか?」本部から復旧の見込みがないとのことで乗客の誘導の指示が来た。たしかにいつまでも車内に乗客を残していることは得策とは思えない。線路には最近LEDの誘導照明もついたこともあり、そんなに暗すぎることはない。「中村さん、一番後ろの車両から避難誘導をはじめる、申し訳ないが線路に降りて最後方車両まで来てくれ」一人で誘導をはじめるよりも、直接中村さんとすり合わせをしてから二人で誘導をはじめたかった。「木村さん了解です。車両のロック点検完了したらすぐに行きます。」カンテラを手に私もすぐに線路上の安全確認に降りた。いつもと変りなく線路上に問題はないようである。足元に新設されたLEDの誘導灯もしっかり光っていてこれなら転倒もなく行けそうである。中村さんを待っていると、どこかの車両で非常ボタンが押されたようで車掌室の無線応答用の受話器がけたたましく鳴り私を待っている。すぐに戻り受話器を取ると「女性が急に倒れて意識がないようなんですが、どうすればいいですか」と女性の声である。私は「今安全確認をしておりますので、少しお待ちください」としか答えることができなかった。その方が出血多量でも心肺停止の意識不明であっても同じ回答しかできない。情けない、すぐにでも駆けつけたいところだがなんとか乗客の皆さんで介抱してくれることと軽い貧血程度であってほしいと祈るだけである。そろそろ中村さんが到着しそうなタイミングで、さらに嫌なことがおきる車両の電気系統がすべていかれてしまったようである。車内のあかりは乗客の皆さんの携帯やスマホの明かりでなんとかなりそうだが、車内アナウンスが不能になった。車内アナウンスをしてから誘導するのと何もアナウンスなく誘導するのでは難易度が数段違う。時間はかかってしまうが慎重に少しづつ誘導していくしかないだろう。「木村さんお待たせしました。電気だめっすか?途中で雨水がはげしく落ちてるところあるんで、水の影響ですかね」中村さんは冷静に状況判断されている。「線路上は特になにも異変はなかったので、誘導をはじめて問題ないと思います。誘導をするアナウンスできてないんですよね。一番後ろから少しづつ降ろしていきましょう。」私の考え方とほぼ一致しているので動きは速い。「中村さん、私が車掌室のブラインド上げて最後方の乗客に窓越しでアナウンスしますので、伝わったタイミングで最後方のドア開けてくれますか」「了解です。手動なので電気の影響はないと思いますが、急に開けて乗客の転落だけはないようにしないといけませんね」訓練で近しい状況の経験をしたことはあるが怪我なく進められるよう慎重に対応するしかない。
大きな混乱もなく無事に最後方の車両から誘導をはじめることができた。通常はお子様・高齢者・女性を優先していくのだが、後方に近いところから順に降ろしていることもスピーディな誘導には効いている。乗客の中から自然と誘導を手伝ってくれている方もいらっしゃるようで大変ありがたい、大きな問題もなく時間的にも想定より早く進んで行きそうである。順調に2両目までの方が線路への誘導が終わったころ、少しトラブルが起きた、前方の車両から誘導を嗅ぎ付けた方が数名押し寄せ、高齢の女性1名が押し倒されて足をくじいてしまった。幸い複数の将棋倒しや骨折、出血など最悪の事態はまぬがれたが自力での移動は困難な模様である。一旦座席に座っていただき安静になれる場所を確保し、カンテラを吊り輪に下げ明かるさも一定確保した環境を作る。何名かこの後も動けない方が出てくることを想定して、この場所に救護が必要な方を一旦集めることにした。さっきの非常ボタンで連絡のあった女性も含めて、介助が必要な人数はできる限り増えないことを祈るばかりだが…。
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