第30話
ペダルを漕いでいるといつしか見覚えのある閑静な住宅街を進んでいた。
確かこの辺りにMの住んでいるマンションがあったはずだと思い、キョロキョロと辺りを見回すと、五階建ての薄汚れたマンションを発見した。
「あった。えっと時間は……」
携帯を開き時間を確認する。学校を出て丁度二十分だった。物思いに耽って運転していたのでもっと時間が掛かったと思っていたが、そこまでペースは落ちていなかったようだ。
入り口横の駐輪スペースに自転車を止め、エレベータに乗り込みMの部屋を目指した。
部屋の前に立ちチャイムを鳴らすと、ガチャッと鍵を開ける音と共に扉が開いた。
「あら早かったわね。どうぞいらっしゃい」
Mはそう言うと僕を招き入れた。
服装は今日もセーラー服だった。幼い容姿のMにはセーラー服は良く似合っていたが、Mの年齢は二十歳みたいなので、コスプレ以外の何者でもなかった。
出会ってまだ三日の僕にはなぜセーラー服を着ているのかは分からないままだった。
趣味なんだろうか……?
「お邪魔します」
靴を脱ぎ中に入ると絨毯の上で音ちゃんがすやすやと寝息を立てていた。僕は起こさないようにそっと座ると、テーブルを挟んだ向かいにMも腰を下ろした。
「昨日はお疲れ様。怪我の具合はどうかしら?」
「Mさんに言われたとおり湿布を貼って寝たら、腫れも痛みも引いたので、動くのに何の支障もないですよ。今日も体育でバレーをしましたけど、いつも通りに動けましたね」
「それはよかった」
Mは僕の顔に貼られた絆創膏に視線を移す。
「顔の傷のほうも大丈夫なの?」
僕は思わず絆創膏に手で隠す。
怪人に付けられた傷跡を隠す絆創膏を。
そんな僕をMは厭らしい笑みで見てきた。
「音ちゃんも英雄君が帰った後反省していたわよ。顔に傷が残ったら、『責任とってお嫁に行く~』とまで言っていたもの」
そう、この顔の傷は怪人にやられたものだが、その怪人と言うのは音ちゃんの事だ。
昨日、猫型の音ちゃんにお風呂を覗かれそうになった時、激しい戦いの末、僕は音ちゃんの首根っこを掴み外に出す事に成功した。
けれどその時、抵抗し手を振り回す音ちゃんの爪が当たり、顔に深い切り傷を負ったのだ。
……馬鹿みたいな話だった。
まさか五体もの怪人と戦い、最初に流血させられた相手が協力者の音ちゃんなんて……恥ずかしい。
「いえ全くもって大丈夫です! この絆創膏だってもう剥がしていいくらいですから!」
そう言って絆創膏を剥がした。今朝、鏡を見たときは薄い線のような痕が残っていたが、そろそろ治っているだろう。
「どれどれ」
Mが顔を近づけ、傷跡をまじまじと見てきた。
えっ距離が近い!
僕はそれなりに女子人気がある男子だとは思うが、恋人が出来た事はない。ちやほやされても恋愛関係に進展するような事はなかった。
もちろんキスの経験もない。
だからこんなに女性の顔が近づくなんて生まれて初めての経験だ。
あれ? なんだろう。凄くドキドキする。
「あっ、はのっ! Mひゃん……らっ……」
何を言って良いか分からない僕は、何を言っているか分からない言葉を発した。
「綺麗に治ったわね。傷跡も顔を近づけないと分からないぐらいだわ」
そう言うとMは傷跡にそっと手を這わせた。
「………ッ!」
あまりの出来事に言葉を失った。心臓の鼓動がはちきれんばかりに高鳴っていく。顔が熱く、真っ赤になっているのが分かる。
「あら、顔が真っ赤よ風邪かしら?」
また部屋の隅に追いやられるのかと思ったが、Mはさらに身を乗り出し、僕の前髪をかきあげると、額に自身の額をくっつけた。
「……ッ!」
驚きのあまり僕は目を見開いた。
目の前にはMの大きな瞳がある。見詰め合うと吸い込まれそうだった。
僕は慌てて視線を下げると、そこにはMの小さな唇が見えた。Mの唇は淡いピンク色で、潤い微かに光っていた。リップを塗っているようだが、昨日までのMは口元にメイクはしていないように思えたのだが、なぜ今日はメイクしているのだろうか……。
「熱はないようね。体が資本なんだから、体調管理にはしっかり気をつけるのよ」
Mは額をくっつけたまま言った。なんで離さないんだろう……。
「……あっ、あの、Mさん……そろそろ離してもらえないでしょうか……」
Mはクスッとイタズラに笑った。
「英雄君、離してもらいたいの?」
「あっ……いえっ、そんなわけじゃ……できればずっとこうしていたいくらいですが……あっいや、なんでもないです」
何を口走っているんだ僕は……。この発言ではまるで僕がMのことを好きみたいだ。
いや確かにMは可愛いし、嫌いじゃない。むしろ好きだけれども……。
いや、好きと言っても人間としてだよ。
ヒーローのマネージャーとしてだよ。
見た目が可愛くて、冷静で、嫌味や人の弱点や欠点をあざ笑ったり、痛めつける事を厭わないどころか、喜ぶくらいの残虐非道、暴虐非道な女性だけど、マネージャーとしては好きだけど、決して一人の女性として好き……あれっ?
なんか悪い点しか頭に浮かんでこないな……なぜ僕はこんなにドキドキしているのだろうかと頭に浮かぶ。
「英雄君は可愛いわね。でもこのままでいいのかしら? 例えばこう……」
そう言うと、Mは額を離し、変りに唇をゆっくりと近づけてきた。
すると、僕の中のMへの不満点は全て消え去った。
えっキスされる! なに、この展開!
これが俗に言うモテキと言うものなのか!
どうする?
どうするんだ僕!
身を委ねるべきなのか?
いや、ダメだ!
キスというものは好きあった男女が行うものであって、こんな一方的な思いだけで行うものじゃないだろ。
あれっ?
一方的と言う事は、Mは僕のことが好きなのか?
えっ、じゃあ僕がMの事を好きなら何の問題もないじゃないか。いやいや、僕はMに恋愛感情がないと自己分析した所じゃないか。
ならばここは拒否するべき所、男らしくMの肩を掴んで、『そういう事は男を振り向かせてからやりな』と言うべきだ。
よしやるぞ。男らしくバシッと言ってやる。
答えを出した僕は、とりあえず目を瞑った。
うん。だって僕十五歳だもん。
キスに恋焦がれるお年頃だよ。
日本男児なら断わる所でも、思春期なら受け入れてしまう。これが青春の暴走と言うものか。
僕もまだまだ青いな。
そんな自分を守る心のガードを作りだし、彼女の唇を受け入れるため軽く唇を突き出した。
すると唇になにかが触れた。
ああこれがキスか。
これが女の子の唇の感触か。
柔らかくプニプニしているけれど、弾力もある。まるで肉球に触れているような感触で、心地良かった。
……うん?
肉球のような心地良さ? キスの表現だとマシュマロとか聞くが、本当は肉球なのか?
なんだか嫌な予感がしてくる……。
僕はうっすら目を開けて見ると、唇に音ちゃんの前足が当たっていた。
肉球の感触がするはずだ。だって僕は肉球とキスをしていたんだから。
「……ッ! なんで肉球!」
僕は慌てて飛びのき、音ちゃんには大変失礼ではあるが、唇を袖でごしごしと拭った。
Mは抱えていた音ちゃんを絨毯に下ろす。
「英雄君静かにして、音ちゃんが起きちゃうでしょ」
と、叱ってきた。
「えっ、いや、だって――」
「英雄君、それ以上騒いだら黙らせるわよ」
彼女の目は冷たく、これ以上騒いだら何かしらの手を使い……早い話暴力によって黙らせると語っていた。
うん。この目の時は反抗しちゃダメだな。とりあえず僕は黙ることにした。
さっきの彼女の行動は僕をからかっていたんだろうか……。
目を閉じ唇が来るのを待っていた行動も見られているのかと思うと、相当恥ずかしかった。
「Mさんからかわないで下さいよ」
「あら英雄君、私はからかったわけじゃないわ。本当にキスをしようとしたわよ」
「えっ……本当にですか?」
「ええ本当。照れている顔が可愛かったからキスしたくなっちゃったのよ。まずかったかしら?」
「えっ? いや……全然まずくは……ないのですが……」
「私とのキスは嫌かしら?」
「嫌と言うことはないんですが……そのお付き合いもしていない男女がキスをするのは……」
「なるほど。英雄君の貞操観念は夢見る少女に並ぶほど強いというわけね。ちなみに英雄君は私の事は嫌いかしら?」
「えっと……好きか嫌いかで言えば……好きですが……」
「あら、じゃあ私達は両思い。キスを隔てる壁はなくなったようね」
と言う事は……Mも僕のことが好き?
女性に好きなんて言われるのは人生初の事だ。つまりは僕とMは両思いと言うことか?
いやいや、ちょっと待て、僕は好きか嫌いかで言ったらMの事は好きではあるが、それはラブと言うよりも、ライクと言う感じじゃないか。
あれ、でも、顔を近づけられた時恥ずかしくて赤くなったな。つまりこの反応はラブの反応なんじゃないのか?
ダメだ。彼女いない歴十五年の僕じゃこの感情も、これからどうすれば良いのかわからない。
虎彦は今朝、何かあったら助けるから直ぐに言えって言ったが、今その助けが欲しかった。今まで何人もの恋人を作ってきた虎彦のアドバイスが欲しかった。
いや、待てよ、虎彦ではダメかもしれない。
きっとアイツなら、『男ならとりあえずキスしてから考えろ』とか言いそうだな。
兎貴も助けになると言ったがそれも期待出来ないな。兎貴が誰かと付き合ったことがあるとは聞いたことないが、クラスの女子や先輩に可愛いって言われて頬や唇にキスをされている所は幾度となく見てきた。
兎貴はそれにもう慣れているのか別段恥ずかしがるような素振りや、嫌がるような素振りを見せたことはないな。きっともう挨拶のようなものなんだろう。
「それじゃあ英雄君の了承も取れたことだし……キスしましょうか」
僕が助け舟を失い大海原で溺れていると、Mが言ってきた。
今度こそキスするのか!
どうする……また僕をからかっているんだとしたら?
あれっ? Mが目を瞑っているよ?
どうして? えっ、これって僕からキスして来いってことなのか?
どうする英雄。
もし、これがからかっているんじゃなくて、本当にキスをしてもらうために目を閉じているのならば、ここでしないのは彼女に恥を掻かせることになるのではないのか?
そんなの日本男児として許されることではないぞ。
……よし、キスをしよう!
幸いにも、ここに来るまでに兎貴がジュースを溢したお詫びとして進呈してきたぶどう味のガムを噛んできたし、昼食には匂いのきついものを食べてはいない。口臭は大丈夫のはずだ。
ありがとう虎彦。昼食のキムチコロッケパンを奪った虎彦に心の中で感謝した。
僕はテーブルから身を乗り出し、Mの顎を持ちゆっくりと唇を近づける。
顔を斜めに傾け、僕も目を瞑る。
顎を持つ手が震えるのが分かった。
緊張を気取られるな英雄!
大丈夫、キスシーンなんか漫画やドラマで嫌って程見てきたじゃないか。
いつか出会うはずの運命の女性とのキスを夢見て、枕で何度も練習したじゃないか。
大丈夫。きっと上手く出来る。
自分を鼓舞しゆっくりと唇を近づけると唇が触れ合う感触が伝わってきた。
ああこれがキスの感触。
彼女の唇は柔らかくプニプニしているけれど、弾力もあった。まるで肉球に触れているようで、とろけるような心地良さがあった。
うん? ……肉球のような心地良さ?
僕はうっすら目をあけて見ると、唇にまた音ちゃんの前足が当たっていた。
「また肉球!」
僕は声を張り上げた。
慌ててMから離れる。
「なんでまた音ちゃんなんだよ!」
「うるさいわね!」
Mは僕の顔目掛け音ちゃんを放り投げた。
音ちゃんは投げられると、空中で目を覚まし、「にゃ~!」と一鳴きし、くるりと一回転し僕の顔面に爪を立て着地すると、「ふしゅーふしゅー」と威嚇するように毛を逆立て鳴いた。
どうやら着地を上手く決めた音ちゃんは無傷のようだが、僕の額からは付き立てられた爪が刺さり、血が流れた。また、軽症を負った。
音ちゃんは辺りをキョロキョロ見回し僕の額から飛び降り、絨毯に着地する。
「あれっ? アスパラガスとクジラの勝負はどうなったの~?」
寝ぼけているのか謎の言葉を口走った。
ってか、どんな夢をみているんだよ……。世界観もシチュエーションもなにから何まで謎だよ。
「あっ、Mちゃん英雄っちおはよ~。あれ~? 英雄っち頭から血が出ているけどどうしたの~?」
やっと目が覚めたらしい。
僕の頭の傷は、君に対する動物虐待によって付いたんだよと言ってやりたかったが、僕はぐっと堪えた。
その話をすれば、僕とMとのやり取りも話さなければならなくなる。それだけは避けたかった。
どう誤魔化せば良いものか。僕が言葉に詰まっていると、Mが事情説明をした。
「英雄君の怪我は、頭でゆで卵の殻を割ろうとして付いたのよ。音ちゃんもこれからはゆで卵を割るときは頭を使っちゃだめよ」
そんな出鱈目な嘘を誰が信じるというのだ。僕の頭は卵の強度に負けたということになるぞ。
「ゆで卵って怖いね~! 音ちゃんこれからはちゃんと膝を使って割るね~!」
信じる馬鹿がここにいた。そして膝を使って割るというのは、どう考えても正式な割り方ではないだろ。
けれど、今回は事実を話されるのが怖かったので、音ちゃんの特殊な思考回路に助けられたとしか言えない。
「うん。それが一番だね」
とりあえず僕は話に乗った。
その後、音ちゃんから、ゆで卵のきれいな割り方や、半熟たまごの簡単な割り方の話を聞かされたが、僕は興味がなく聞き流した。
頭の中はなぜMが僕にキスをしようとしたのか、そしてなぜ途中で拒まれたのか考えるので精一杯だった。
やっぱりからかっていたのかな……。
そう思うと恥ずかしさで顔が赤くなりそうだ。
音ちゃんの演説はその後数分ほど続き、「やっぱり塩が一番合う!」の一言で終了を迎えた。
「ためになる話だったわ、ありがとう」
Mは演説が終わった音ちゃんに拍手を送った。とりあえず僕も拍手しておくか。
「御清聴ありがと~」
僕らから拍手を送られた音ちゃんは立ち上がり頭を下げた。
「さて、音ちゃんも起きたことだし、そろそろ怪人を狩に行く準備をしましょうか。英雄君、スーツに着替えてきて貰ってもいいかしら?」
Mはキスをしようとしたこと、されかけたことなど何もなかったかのように、普段の態度でベッドの下から紙袋を取り出し僕に差し出した。
Mがそういう態度を取るなら僕も平然としよう。そう思ったのも束の間、紙袋を受け取ろうとした時に、Mの指先が触れた。
すると途端に気恥ずかしさが込み上げ、顔が熱くなった。やっぱり、あんな事があった後に平然とした態度でいるのは僕には無理だよ。
ああ、きっと笑われているんだろうな。そう思いMをチラリと見ると、彼女は笑いを堪えようとしているのか、下を向いて顔を隠していた。
ああ絶対に笑っているよ。
「きっ、着替えてきます!」
扉一枚とは言え、この場から逃げたかった僕は、紙袋を抱えバスルームに急いだ。
昨日はネクタイをつけるところで悪戦苦闘し時間を掛けてしまったが、家で父さんのネクタイを借り練習した成果が出たのか、今日はすんなりと着替えを済ませる事が出来た。
そして昨日の一戦で懲りたのだろう、音ちゃんが覗きに来ることもなかった。
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