第4話
「……ッ!」
なぜ僕に向って来るんだ!
考えてみれば簡単な話だ。攻撃を避けられてしまうのなら、避けさせなければ良い。
また人質を取って戦えば、無条件で殴り続ける事が出来るからだ。
ヒーローも駆け出すが、追いつきそうにない。いくらスピードで勝っていても、スタートを切るのが遅すぎる。
どんなに足の速い短距離走の選手でも、一秒も出遅れれば、追いつく事は不可能だ。
「タコハーフ待て! お前の相手は私だぁっ!」
けれど怪人は止まる事無く、駆け寄って来る。
「少年! 逃げろ!」
逃げなきゃ。そう思っても脚が動かなかった。
頭が混乱して全てが分からなくなっていた。
脚ってどうすれば動くんだ? 歩くってどうするんだ? 走るってどうすればいいんだ? 逃げるってどうすればいいんだ……逃げるってどこに逃げればいいんだ……。
「無理……だ……」
その時には怪人は僕の目の前まで駆け寄ってきていた。怪人の背後には必死に走るヒーローの姿が見えるが、やはり追いつく事は無理そうだ。
また人質に取られるのか。
……いっその事舌でも噛み切って自害したほうがいいのかな。
……いや舌を噛み切っても死ぬことは無いって聞いたことがあるし、痛い思いするだけなら、ここは捕まった方がいいのかもしれない。
無抵抗で捕まれば、怪我をすることもまずないだろうし、死ぬのも先延ばしに出来るだろう。
どう思考をしたところで行き着く先は死だけだった。
絶望が溢れた目でヒーローを見る。
ああ、これが、死が迫っているという事なのか。怪人もヒーローの動きもコマ送りのように見えた。
薄気味悪い表情で怪人は僕を見つめると、左の蛸足を振り上げた。あの蛸足でまた縛り上げられるのかな?
ヒーローも賢明に手を伸ばしてはいるけれど、怪人とはまだ距離があり届きそうにはなかった。
怪人もチラリと振り返りヒーローが届かない事を確認すると……四本の蛸足を地面に振り下ろし――急停止すると、くるりと180度方向転換をし、ヒーローに向かい飛び掛った。
「なっ!」
ヒーローの口からは驚きの声が上がった。
全力で駆けている脚は急には止まることは出来ず、怪人と正面からぶつかった。まるでトラックに跳ねられたかのように、ブルーの体が宙に舞う。吹き飛ばされながらも腕を伸ばし受身を取り、地面を二度、三度バウンドした。
それでも、ふらふらとだがヒーローは起き上がった。
僕は車に轢かれた経験も怪人に吹き飛ばされた経験もないので、その衝撃がどれくらいなのかは分からないが、常人が耐えられるような威力ではないだろう。
そう言えば以前見たテレビで、相撲取りのぶちかましの威力は一トンを超えるって言っていたな。人間が生み出す破壊力が一トンを越えるなら、人外の化け物――怪人が生み出した一撃はどのくらいの威力があるんだろうか……。
ヒーローはまた左手を前にした構えを取るが、ダメージが大きいのか、拳がプルプルと震えていた。
「あらまだやるの?」
怪人は小首を傾げ聞くと、ヒーローの返事も待たずに駆け出した。距離を詰めるとフック気味に蛸足を振るう。ヒーローは何とかその一撃をガードするが、衝撃に耐え切れずに、膝がガクッと落ちてしまった。
ダメージが大きい事を確認した怪人はまた顔にいやらしい笑みを浮かべ、左の蛸足一本を後ろ手に引き、勢いを付けヒーローの腹部目掛け拳を振るった。
「うがぁっ!」
悲鳴が上がる。
蛸足と言う名の拳はヒーローの複部にめり込むと、みしみしと骨を砕く音を奏でた。ヒーローの体はくの字に曲がり、脚は宙に浮き、腕に駆けられたジャケットのように力なく蛸足にぶら下がった。
初めからこれが狙いだったのか。当たらないなら、当たるようにする。僕を人質に取るのではなく、僕を囮に使い、避けられない状態を作り出すのが目的だった。
怪人は拳を引き抜くと、反対の右蛸足を使いボディにもう一撃打ち込んだ。一本の蛸足でも体を浮かせるほどの力があるというのに、怪人の放ったボディブローは4本の蛸足を絡めての一撃だった。
腹部からはまたみしみしと骨が軋む音がし、ヒーローは吹き飛び、アスファルトの上をまるでボールのように跳ねてから、地面に倒れこんだ。今度は受身を取ることもなく。そしてヒーローはそのまま動かなくなった。
「ヒーロー!」
僕は悲鳴のような声をあげるが、動かないヒーローからは返事はなかった。
「ヒーローちゃん、あなたを弱いって言ったこと、特別に訂正してあげる。あなたは弱くない。あなたは……甘い男よ……甘すぎて、早く家に帰って歯磨きしないと、私の綺麗な歯が虫歯になっちゃいそうだわ……クッ……ククク……クハァーハッハハハハハハハハ。どうあたしうまい事言ったかしら? ヒーローちゃん面白かった? うんっ?」
怪人はヒーローに近づいていくと、首に蛸足を巻きつけ引き上げると、頭を揺さぶった。
「おーいヒーローちゃん? 起きてまちゅかー?」
人をおちょくるような態度だが、ヒーローは怒る事はなかった。怒るどころか返事を言う事もできないように見えた。
僕の脳裏にはたった漢字一文字が浮かんでいた。母を早くに亡くし、親族は父一人だった僕が、物心ついてから一度も直面したことのない漢字。
死。
ヒーローは死んだのか?
ついさっきまで自分が直面していた死だが、実例を見た事のない僕は言葉の意味だけの死しか知らなかった。けれど今、僕の眼前には死が――動かないヒーローが転がっていた。
知識に実例が伴い、一気に死がリアルなものに感じられた。心臓の鼓動が早くなり、冷たい脂汗が湯水のように溢れ出てきた。
冷たいのに湯水のように。
逃げたい。でも逃げられない。
死にたくない。でも死なない未来などない。
体が震えてくる。壊れたブリキのおもちゃみたいにガタガタと小刻みに振動し、上顎と下顎が震え、歯がガチガチとぶつかり合う。
「……っち、なんだよもう終わりかよ」
怪人は蛸足を乱雑に放り投げると、ヒーローが頭から地面に落ち、ゴツッという音を鳴らした。
それでもヒーローは起きず、声を発する事もしなかった。
「おーい坊や、残念ね、ヒーローちゃんは……死んじゃったみたいよ」
ヒーローが死んだ……怪人の手にかかり、戦って死んだ。
……僕を助けようとして死んだんだ。
武器を捨て、怪人に素手での戦いを挑んだ。僕が人質だったせいで。
僕を襲おうとした怪人を止めようとして駆け出し……死んだ。
僕があの時足を止めずに逃げていれば、こんな事にはならなかった。
怪人の殺すなんていう制止を振り切って逃げていれば、こんな事にはならなかった。
なぜ僕は足を止め……戻ってきたんだ。これじゃあ……彼を殺したのは僕のようなものだ。
「さあ、これで私達の愛を邪魔するものはいなくなったわね。キャハッ。二人で……愛死合いましょうね」
その言葉でまた新たな恐怖が僕を襲った。当たり前の事だ、ヒーローが負ければ次に死ぬのは……僕だ……。
震える僕に一歩一歩怪人が近づいてくる。アスファルトを踏みしめる足音と共に怪人は近づいてきた。
「あぁあっ……あっうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」
絶叫を上げ、僕はその場にしりもちを付いた。臀部に痛みが走るがそんなこと気にしていられるような状態ではなかった。
逃げないと。
手を付き、後ろに這ってでも逃れようとしたが、震える腕には力が入らず、下がることすら出来なかった。
怪人はその様子を見て、にたにた笑いながらゆっくりと近づいてくる。顔を歪ませ舌なめずりをしながら。
「本当に……美味しそうな坊や」
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