第2話

「……」

 僕は下手な期待をしたくないので、無言でいた。


 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、怪人が口を開いた。

「あーら、ヒーローちゃん、私からこの子を助け出せると思っているの? 思い上がりも甚だしいわよ。この子は私の手の中にいるの。生かすも殺すも私しだいよ。この子を離して欲しかったら、それなりの対応があるんじゃなくて?」


「それなりの対応と言うとなんだ?」


「分からないの? その危ない武器を捨てろって言ってんだよ」

 怪人は柔らかいオカマ口調を崩し、どすの利いた口調で言うと、ヒーローは慌てて両手に持った武器に目をやった。


「なっ! それは出来ない」


「そう……ならこの人質の坊やは用無しね……」


 首に巻き付いた腕に力がこもる。頭に酸素が行き届くなったためか、目眩がしてきた。そしてなぜか臀部を鷲づかみにしている腕にも力がこもってきた。

 悔しいがその痛みが、意識を失うのを防いでくれた。


「やめるんだタコハーフ! その子を離せ! ちょっと待ってくれ、相談するから、少しだけでだけ待ってくれ。一分だけでいいから!」


「じゃあ一分だけね」


 聞き分けのいいタコハーフと呼ばれた怪人から、一分だけ猶予をもらうと、ヒーローはまたもや無線で話を始めた。


 なんだろう……こんな臀部ばかり掴んでくるオカマの怪人と、相談ばかりしている決断力のないヒーローに、生殺与奪の権利を預けていると思うと無性に泣きたくなる。


「……ああ分かっている……大丈夫だ……十万だし……ああ一発で決めるよ……じゃあまた」


 ぼそぼそ喋ると、耳から手を放し、手に持った武器に目線を移した。どうやら話は終ったらしい。十万や一発など分からない所や聞えない所は多かったが、助ける算段はついたようだ。


 ヒーローは空を仰ぐと、決断したかのように怪人を見据え、腰につけた刀と銃を投げた。


「さあこれでいいんだろう。その少年を離せ」


「ふん。坊やみたいな軟らかいお尻を離すのは惜しいけど、約束だから仕方ないわね。坊や、すぐにその丸腰のヒーローちゃんをやっつけちゃうから、そこの自動販売機でカフェオレでも買って待っていてね」


 怪人は首に巻きつけていた腕を優しく解いた。もちろん抱きついていた腕も、臀部を掴んでいた腕も解いてくれた。


 僕はその瞬間脱兎のごとく駆け出した。


 助かった。死の恐怖からも貞操の危機からも開放された。

 安堵感と嬉しさがこみ上げ、涙が溢れ出てきた。


 その涙はとても温かく袖で何度拭いても溢れてきた。涙が視界を狭めたので、立ち止まり鞄からハンカチを取り出し、しっかり拭きたかったが、少しでも遠くに逃げ出したかった僕は、怪人から離れても足を止めずに走り続けた。  

 もしこの涙が今拭かなければ一生止まらないものだとしても、僕は足を止めることはないだろう。非現実的な出来事で混乱していた為か、怪人に捕まっていた時、僕はそんなに怯えはしなかった。


 けれど、いざ離れると、どれだけ危険な状態だったのか分かった。走る足は恐怖を思い出し振るえ、涙と共に体中の毛穴から汗が噴出してきた。


 怖かった。

 怖かったけれど……僕は助かった。

 僕は……生きているんだ。


 ヒーローの横を通り過ぎ、走り始めて数秒、五十メートルを越えたかどうかと言う所で曲がり角が見えた。ここを曲がれば逃げ切れる。


「ちょっとー逃げちゃダメヨー。それ以上離れたら――」


 離れたらなんだと言うんだ? この角を曲がったら僕は助かるんだ! 足を止めるわけないだろ。

 そう思ったけれど、僕の足はその場所で止まった。流れ続けていた涙も一瞬で止まる。


 僕の足と涙を止めたのは、怪人の怒鳴り声だった。たった一言。僕も冗談で友達に言ったこともある言葉。


「殺すぞ」


 殺すぞ。この言葉を恐ろしく感じたのはこの時が初めてだった。

 言葉には力がある。言霊で人を操り、自由を奪うことが出来ると本で読んだことがあるが、その時はそんな事があるものかと馬鹿にしていた。


 けれど今、それが本当だと分かった。僕の脚は地面に縫い付けられたかのように、それ以上、前に動く事は出来そうになかった。


 僕は震えながら振り向いた。すると先程と同じ場所で怪人は蛸足を振っていた。


「おーい坊や、自動販売機はそっちじゃないよ。戻って戻って。ちゃんと待ってないで、今みたいに逃げ出したら殺しに行っちゃうよ。キャハ。さっき二人で抱き合って愛を育んでいた時に、坊やの体に粘液つけちゃったから、どこに行ってもわかっちゃうのよ。ずっと追いかけてっちゃうわよ。お家に帰っても、ご家族皆殺しにしちゃうんだから。どこに逃げても殺しにいっちゃう。怪人からは逃げることなんて出来ないのよっ。すぐにヒーローちゃんをずったずったにして、ヒーローちゃんのぶつ切り作っちゃうから、いい子にして待っていてね。ぶっつ、ぶっつ、ぶつ切りにしちゃうんだから」


 怪人は嫌らしい笑みを浮かべ、八本の腕を使い投げキッスを飛ばした。


 僕の考えは甘かった。怪人に捕まった時点で、僕の運命は殺されるのを待つだけか、ヒーローが怪人を倒し、心身ともに解放されるのどちらかしかなかった。

 元から逃げるなんて選択肢はなかったんだ。


 その現実を受け止めると、体が震えだし、歯がガチガチと鳴り出した。

 涙がまたとめどなく流れ出す。


 先程の涙とは違い、今度の涙は冷く感じた。

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