第1話
一日目。
怪人。その存在はネットやニュースで見聞きしていたし、目撃したという高校のクラスメイトの話を聞いた事もあったけれど、一度も怪人に遭遇した事のない僕からしてみれば対岸の火事のような存在でしかなかった。
だから、自分自身が遭遇するなんて思ってもいなかったし、ましてや怪人に捕まるなんて夢にも思わなかった。
駒野英雄こまのひでお十五歳、ただいま怪人の人質になっております。
「ごめんね坊や、お姉さんあのヒーローちゃんに殺られそうでどうしようって思っていたら、ドストライクの可愛い子がいるのに気づいちゃって……思わず人質にしちゃった。キャハ。でも安心してね、あのヒーローちゃんが武器を捨てたら解放してあげるからねっ」
怪人は猫なで声で僕の耳元にそっと呟いた。背筋にぞわりと悪寒が走った。
気持悪い。
今すぐにでも逃げ出したかったが、怪人の腕が僕の首に巻きつき、さらに臀部を鷲づかみにしているので逃げ出す事は出来なかった。
僕も思春期真っ只中の男だ。
もしこれが美人の怪人だったならば、恐怖半分トキメキ半分の心境だっただろうが、僕を捕らえているのは、八本の蛸足の様な腕を胴体から生やしている化け物で、体はごつく、頭は産毛一つないスキンヘッドのおっさんのような見た目をした怪人だった。
体臭は磯臭く、巻きついている腕はぬるぬるしている。
恐怖もトキメキも僕の心の中には生まれなかった。生まれたのは嫌悪感だけ。
「気持ち悪い放せ」と、言ってやりたかったが、僕は言葉を発する事が出来なかった。
怪人に殺されるんじゃないかという恐怖もあったが、蛸足が後六本あるという事の方が恐ろしかった。
一本の腕が首に巻きつき、一本が臀部を鷲づかみにしている。
残りの六本の腕でなにをされるのだろうか……股間付近にある腕が特に恐ろしく感じる……。
駒野英雄十五歳、ファーストキスもまだなのに貞操の危機です!
「坊やどうしたの震えちゃって。お姉さんが怖いの? 大丈夫よ。怖かったり痛かったりするのは最初だけ、後は気持ち良くなるからね」
怪人は残っている腕を二本使い、ゆっくりとした動きで優しく僕の腰を抱きしめると、徐々に蛸足に力を籠めていった。
まるで万力で締め上げられているような圧迫感を腰に感じた。
ミリミリミリと、生まれてこの方自分の体からは聞いた事のない異音がし始め、痛みのあまり「かっぐっ」っと、息を漏らすと、生まれてこの方出した事のないほどの量の涎が垂れ落ちた。
「あら、綺麗なお顔なんだから、汚しちゃダメよ」
怪人はそう言うと僕の顎を伝った涎を蛸足で拭った。
涎はふき取れたがその代わりにぬるぬるした粘液が顔にへばりつき、まるで何十匹ものナメクジが顔の上を這っている様な気持ち悪さを感じた。
「さあヒーローちゃん、この坊やの体が二つに分かれるのが嫌だったら、さっさと武器を捨ててもらえないかしら?」
怪人は目の前に立つヒーローに言うと、絶対的な優位立っていることが嬉しいのか、「くすっ」っと、笑った。
僕が人質にされてすぐ、ヒーローは「その少年を放せ」と言う言葉と共に現れた。
青の体にぴっちりの全身タイツに青のフルフェイスのマスク。首元には青いスカーフを巻いていて、いかにも特撮のヒーローと言った格好をしていた。
普通、ヒーローが現れれば、人質の少年は安心し、瞳を輝かせながら、「助けてヒーロー」と言う場面なのだろうが、僕はそんな言葉は口に出さずに訝しげな目を向けた。
気持ち悪いな。
テレビの中で見るのならカッコよくも見えるが、実際に見ると変態以外の何者にも見えなかった。ここがプロレスの会場ならまだ見ることも可能だろうが、ここはもちろんリングの上でもないし、プロレスの会場でもない、ただの通学路の路地でしかない。
けれど僕はこの変態――ヒーローにすがる事しか出来なかった。
『ヒーロー。その存在は怪人が現れて程なくして現れた正義の使者』と言われている。
その謳い文句はどうなのだろうと思った事もあったが、ヒーロー達はその謳い文句に負けない活躍を見せてきた。何体もの怪人を倒し、人々を守ってきた。
そして何者なのかも告げぬまま去っていく、まさに正義の使者だった。
だが、その正義の使者は数分前から耳元に手を当て、小声で何か話していた。
話している時間が長くなるにつれ、『助けてもらえる』と言う思いは、『助かるかな?』から、『助からないかも』と言う思いに変っていった。
「……うん、うん……そのパターン……だよね、やっぱり……じゃあ彼は……ああ……わかった……それでギリギリ行けると思う…」
どうやら無線で誰かと話ているらしい。僕を助ける算段をつけているみたいだが、最後に聞えた、「ギリギリ行けると思う」ってどういう事だろう。百%の確証なしに挑むって本当に大丈夫だろうか?
ヒーローが僕の方を向き語りかけた。
「少年、安心したまえ。今から助けてあげるよ」
安心できません。あなた今ギリギリ行けそうって言っていましたよ。
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