第2話

 この店、アクターズ・ハムに入店するにはちょっとした条件がある。「稽古中の台本を持っていること」、もしくは「その日公演された舞台演劇のチケット半券を持っていること」。‥‥と、言いつつ、私のように顔パスの人間ももちろんいる。

 その日に行った稽古での不満、反省から団体の展望までを熱く語り合う者達もいる。公演終了後、客も交えてそれぞれの解釈や本来の意図を語らい、表現者が客を育て、客が表現者を育てる構図をこの場で効率的に凝縮する者達もいる。そうしてこの小さな店舗の中で、多数の小劇団がその存在を主張し、互いに尊重しあい、それでいて静かに火花を散らしている。ここは謂わば、よりよい舞台演劇の顕現を志す者達による人生の鉄火場なのである。

 それもあってか店内の空気は、今のように別段客も多くないはずだというのにどこか張り詰めた感があった。彼女らがどうにも居住まいが悪いよう感じているのも無理はない。だが多くの劇団員は、本番中の舞台上に似たこの空気こそがアクターズ・ハムの魅力だ、と言って通うのだ。かくいう私もそういった方面の人間である。とはいえ、あの2人組がすっかり小さくなってしまっている原因は何も空気だけでは無く、私の目の前に立つ北沢にもあるように思えた。

 北沢は、一般的にあるバーテンダーのイメージとは大きく異なる、客商売をするにはいささか相応しくない風体の男である。髪型こそ綺麗に整えられた白髪交じりのオールバックであるが、著しいのは服装だ。彼はバーテンダーとしては一般的な黒のベストやエプロンはおろか、白いシャツさえ着ることが無い。もしシャツを着ることがあってもそれはいわゆるアロハシャツと呼ばれるような、まるでこの店の内壁のように互いの色がやかましく主張しあう派手な物ばかりだ。下半身も色あせた作務衣を、誰もが1度は見たことのあるであろう便所用サンダルで支える年相応とは思えない‥‥いや、ある意味では年相応といったような格好であった。それは全身を見れば統一感の無さに思わず笑ってしまいそうになるが、カウンターから上、上半身だけを見れば、髪型も相まって少々近寄りがたい雰囲気を醸し出していたのである。

 あの2人組が入店時に何を北沢に告げ、そして北沢が2人をどう迎え入れたのかは分からない。しかし私から見ても彼女らはおおよそ舞台演劇において、”どちら側”にも属しているとも思えない人間に見えた。おそらく、台本も半券も持参していないだろう。一見様にはよくあることだが、普段なら門前払いであるはずの客であるのに、何故北沢が入店を許したのかが不思議に思えてならなかった。

「悪いな。今日は俺も付き合いたい気分なんだが、千万億が来るとなりゃお預けだ。」

「ああ、かまわんよ。」

 私に気を遣ってくれたのか、あの2人組に無言の圧力をかけることに疲れたのか。北沢は背後の換気扇から垂れる紐を、まるで訓練された動物を操るかのように何度か引いてから、カウンター脇の黒いカーテンから店の奥へと消えていった。程なく換気扇はおとなしくなり、私はまさにクルクルという擬音が似合う状態になったそれを見つめながら、手に持ったウィスキーグラスを軽く掲げ、静かに自身を労ってから一口目をいただいた。口の中一杯にモルトの香りが拡がり、ジワリとノド元を滴っていく。芳醇な香りが鼻からスンッと抜けていくのを感じながら大きな一息をつきグラスをテーブルに置くと、中の氷が崩れて鳴った。大して大きな音でも無いはずだが、静かな鉄火場にその音はよく響いた。それに反応したのか、私の視界の隅で黒色だった一部が肌色に変わるのがわかった。私が反射的に一瞥すると、2人組の片方、小型犬のような雰囲気の若い女性と目が合った‥‥が、途端に目をそらしてしまった。

「こんばんは。」彼女の視線を追いかけるように私は声をかけた。大きなお世話かとも思ったが、1人の常連として、なじみの店に悪い印象を持たれてしまうのがどうにも忍びなかったのだ。

「所沢から来たというのは本当かい?」

 私の問いかけに、2人は困ったように互いの顔を見合わせた。私たちは酔っ払いに絡まれているのかと無言の協議をしているのかもしれない。やや間があってから先の小型犬のような女性がこちらを見て小さく頷いた。唇が小さく動いているようにも見えたが、声らしき音は私には聞き届かなかった。


(続) ※気が向いたら、続きます。

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アクターズ・ハム @Ut-Amamori

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