アクターズ・ハム

@Ut-Amamori

第1話

 埼玉県川越市。「鐘と倉の街、小江戸」として古くから残る建物や町並みを目当てに多くの人々が訪れる観光地である。

 しかしながらこの街が演劇や映画などの芸能的な、いわゆる浮世な文化が古くから強く根付く土地であるということを知っている人間は、あまりいない。

 このバス停から見える、あの小さな路地。あれを曲がれば目の前にあるのは築100年以上。明治後期から数多の芝居を上演してきた小さな芝居小屋がある。そこまで行けば江戸だ明治だと言った町並みはすっかり過去のモノだ。どれだけ保存、維持をしようにも今は21世紀で、大木のようなマンションがより良い日当たりを求めて高く高く空に伸びていく。なるほど、コンクリートジャングルとはよく言ったモノである。もしかすると今も聞こえてくるあの18時を告げる鐘の音は、反響によって当時よりも聞こえが良くなっているのかもしれない。

 そんな上昇志向ある石灰達の生存競争の中で私は敢えて地下を目指す。大木と大木の間、切り株のような小さな建物の脇に根まで通じる薄暗い階段がある。今にも焼き切れそうな濃いオレンジ色のランプを頼りに下ればそこに、昼間を生きるのに疲れた雑草たちが集う空間。アクターズ・ハムが待っている。私の通うバーだ。 映写室へと続きそうな鉄と木の重い厚い扉を開けると、ドアベル代わりに下げられた南部鉄器の風鈴の音が小気味よく響いた。ほのかにタバコの香りが漂ってくる。間接照明とランプによってやや薄暗い店内の様子をうかがうと、すぐ左手にあるテーブル席に一組の客がいるのがわかった。私は視線をゆっくり右へ移し、いつものようにカウンター内に立つ中老の男、北沢に尋ねた。

「やぁ。今日は改めなくて良さそうだね?」

「ああ、今のところはな。」

 北沢は煙草の煙を遠くに吐いてから答えた。

「だがもうじき千万億(つもる)のガキ達が来る。吸うモノ吸うなら今のうちだ。」

 千万億とは、この辺りで活動する演劇団体の名だ。鶴ヶ島の方にある大学の、昨年度の卒業生で構成されていること以外、詳しいことは知らない。確か、名前はもっと長かったはずだ。

 私はカウンター席の最奥、北沢の常駐する真向かいに腰を落ち着けた。特に混雑していなければいつも座る、私の特等席だ。

「モクがイヤって?どうにも余裕がなくていけないねぇ。」

 ライターを探す私に、北沢は火の付いたマッチを音も無く差し出した。私が驚く間もなく点火は済み、タバコとリンの香りが口の中で混じった。北沢はマッチの火を手首のスナップだけで鎮火すると、私がポケットに突っ込んだ両手をタバコに添えるよりも前に話し始めた。

「ああ確かに、余裕が無いのはいけない。」

「よせよ。」

「あいつらはまだ、現実と夢にハッキリとした区別が付いてやがるのさ。年を取りゃ嫌でも変わる。それまでは若い方にジジイから合わせるんだよ。それが俺たちの仕事さ。」

 北沢はそう言いつつ、気だるそうに壁掛けの大きな換気扇の紐を引き、回転を速めた。店内に換気扇の駆動音が響く。北沢は私と2人だけで会話したいときによくこうする。私は先より声を少し張った。

「そうかね?夢との区別をハッキリしたまま年を取る役者もいると思うぜ。」

「そんなヤツらはとっくに浜松町だとかで大入りの箱を埋めているさ。最後列からでもわかるぐらいにデカイ笑顔でな。こんな店には現れない。」

「こんな店‥‥ね。」

 私は改めて店内をぐるりと見回す。店内は10人も座れないカウンター席と、4人掛けボックス席が3つある。壁には開店当時からこの地域で公演された舞台の告知ポスターが所狭しと重ね貼りされ、見方によっては芸術作品のようだが、私から言わせて貰えばまるで地層のようだ。今、私に一番近いところで存在を主張しているポスターは、千万億の次回公演のもののようだ。なるほど、公演は今週末か。より一層余裕も無くなるわけだ。

「ところで‥‥」

 私は念のために声を張らずに、出入り口から一番近いボックス席に座る女性2人について尋ねた。

「新顔かい?」

「所沢からの一見様さ。どこかでウチの噂を聞いてきたらしい。特別に入れてやった。」

 彼は声を潜めること無く答えた。背後の換気扇で聞こえないと判断したのか、わざと聞こえるようにしているのかはわからなかった。

「特別、か‥‥。」

「ああ、そうだ。」

 北沢は音も無く作っていた1杯目を私の眼前に静かに置きながら言うと、くわえたタバコをマッチであぶり、大きく飲んでみせた。その姿は見ようによってはヤクザのようだ。女性2人の肩身がますます狭くなって行く様子が、遠い対角にいる私にもハッキリとわかった。

(続) 

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