もしもの話はまた今度

「みんな、今日の稽古をよく頑張ってくれた! 感動した! 感動をありがとう!」

 日が落ち、グラウンドの夜間照明が明滅を始める。

 そんな逢魔が時を迎えても、竹内のテンションは上り調子だった。

「小学生から高校生まで、幅広い世代の子たちが集まってくれた。運動にはそれぞれ得意不得意がある。だからこそお互いを尊重し、支え合い、切磋琢磨してくことがスポーツのあるべき姿だと僕は思う。今回の稽古を通して感じたことはまさに……」

 彼を囲う生徒たちは、その閑話などに興味はなかった。間もなく始まる、とあるイベントの開幕を今か今かと待ちわびている。

「夕食は済ませた! 風呂も入った! あとは寝るだけ……というとでも思ったかい? これより、花火大会を始めるぞーっ!」

「おーーーーっ!」

 生徒たちの歓声がグラウンド中に響き渡った。

 各自思い思いの花火に点火し始める。色とりどりの火花に照らされる笑顔は、一様に輝いていた。

 優己は一団から離れた位置にあるベンチに腰掛け、線香花火に興じていた。






「――犬?」

 優己は、午後のサッカー見学中に目撃した犬について、剛我たちに話した。

「うん。多分、野犬だと思うけど。ずっと僕の方を見てたから、気になっちゃって」

「確かここは、もともと山林を切り崩した土地だと聞いています。残った自然地帯にいた野犬が降りてきてもおかしくはないですが……」

「まぁ、警戒に越したことはねぇかもな」

「ねぇねぇ、そのワンちゃんって可愛かった? チワワ? トイプードル?」

 剛我と竜真が気持ちを引き締める中、ふみかは能天気な質問をぶつけていた。

「お前、話聞いてたか?」

「犬がいたって話でしょ? 聞いてるよ」

「あのな、お前……いや、待てよ?」

 剛我は一瞬思案顔を浮かべたのち、ふみかに向き直った。

「おい、ふみか。お前、優己のお守りしとけ」

「へっ?」

「オレと竜真で、この辺を見回ってくる。その間、優己頼むぞ」

「ちょっと待ってよ。そりゃ、誰か一人は優己君についてなきゃダメだろうけどさぁ。あたしが空からパトロールした方が良くない?」

「そんなこと言ってお前……花火大会楽しみにしてたんじゃねぇのか?」

「あ……」

 ふみかは、合宿のしおりを眺めていた際の自身の呟きを思い出した。

「覚えててくれたの?」

「……決まりだな。竜真、準備しとけ」

「はい!」

「ちょ、ちょっと剛我!?」





 

 一人残ったふみかの姿を追う。

 生徒たちに混じり、花火の煌めく様を楽しそうに眺めていた。

 もしも、彼女が本当にならば。人見知りしない楽観的な性格だ、きっと生徒たちと仲良くなれるだろう。

 ただ、現に交流こそ叶わないが、剛我の計らいは無駄ではない。ふみかの様子を見て、そう思った。

「……あら、優己。ちょっと右足見せてみなさい」

 いつの間にか隣にいた母が、足元へと腰を落とす。見ると右足のテーピングが剥がれかかっていた。

「汗で湿っちゃったのかしら。巻き直さなきゃね」

「あぁ……いいよ。自分でやるから」

「何言ってるのよ。私に任せて」

 母はウエストバッグから湿布やテープを取り出すと、手慣れた様子で巻き直していく。

「……ねぇ、優己」

「なに?」

「無理に来させてごめんね。居心地悪かったでしょ?」

 稽古に付きっきりだったせいか、母の表情には疲れが見えた。

 優己は首を横に振った。

「そんなことないよ。すごく楽しかった。部屋にこもってるよりずっと」

「本当に?」

「うん! 今日は迷惑かけてごめんね」

「何言ってんのよ。今日は来てくれて助かったわ。あたし一人じゃ、正直心細かったから……」

 心なしか、母が顔を背けたような気がした。弱音も久しぶりに聞いた気がした。いや、二つとも思い過ごしと捉えてはいけなかった。

「そうだ、母さん。今度、空手教えてくれないかな? それか、こう……簡単にケガしない体づくりの方法とか」

「あんた……無理しなくていいのよ。だって」

「本気だよ! 高校生にもなってさ、小・中学生になんて負けてられないって! ケガが治ったら教えてよ。それで……」

「?」

 一瞬、優己は逡巡した。次の言葉は軽々しく発してはいけないものだ。おそらくは今後の人生をも左右しかねない。

 いや、そうであらねばならないのだ。

 なぜなら。

「それで……いつか、道場を継ぎたいなぁ、なんて」

 なぜなら。

 もしも、剛我が生きていたら。

 もしも、剛我がDフェスで優勝し、生き返ったら。

 彼はきっと十文字家の大黒柱となって支えてくれることだろう。

 しかし、母の頭の中に、そんなはありえないのだ。

 現実問題、母を支えなければいけないのは息子である自分自身だけなのだから。

 剛我のような“つよさ”は持ち合わせていない。ならばせめて優己という名を受け継いだ以上、“優しさ”で母に寄り添いたかった。

 それが決して易しい道ではないとしても。

 母は呆気にとられた表情を浮かべた後、プッと吹き出した。

「どうしちゃったのよ、ほんと。あんた最近……まぁ、いいわ。自分で言ったからには最後まで頑張りなさい」

「うん!」

「はい、終わり。あんた、これ持ってなさい。自分でできるようにね」

 母はウエストバッグを優己に手渡した。

「優菜さーん、ちょっといいですかーっ!」

「はい、今行きまーす!」

 竹内に呼ばれ、母は向かっていった。

 去り際に肩を叩き、歩き出す横顔が照れ臭そうに綻んでいたことを、優己は見抜いていた。

 束の間の安心を与えただけではいけない。これから有言実行していかなければならないのだと腹を括ったとき。

「!」

 背後の茂みから擦過音がした。

「誰か……いるの?」

 返事の代わりに微細な物音が続く。

 不慣れな松葉杖を使い、おぼつかない足取りで茂みへと向かう。

「だ、誰かぁ。いないよね。いないって言……っ!?」

 覗き込もうとした拍子にバランスを崩し、茂みへ倒れてしまった。

「イテテ……」

 体を起こそうと身をよじったとき、耳元に吐息を感じた。

「ヴルルル……」

「え」

 くだんの野犬がそこにいた。否、

 数は四頭。いずれも首輪はつけておらず、一様に唸りを上げている。

 ほぼ同時に顎を広げる。鋭利な牙が優己に差し向けられていた。

「……っ!」

 極限の恐怖に陥ると声が出ないものなのだと、このとき優己は思い知った。






 松葉杖を残して優己がいなくなったことに母が気づいたのは、それからまもなくのことだった。

 剛我と竜真が戻ってくると、取り乱す母に、それをなだめる竹内の姿が目に留まった。

「あの足だから、そう遠くには行けないはずだけど……っ!」

「優菜さん、落ち着いてください。まだ、施設内にいるかもしれません。職員の皆さんも一緒に探してくれるそうですから……」

 周囲に集まる生徒や施設職員も、不安げな表情を浮かべている。

 中でも一際大声で泣きじゃくる人物がいた。

「ひぐ……っ、ごめん、剛我ぁ、竜真くぅん。あた、あたしのせいで、優己君がぁ……うわぁあんっ!」

「ふみか……ったく、何やってんだよお前」

「はな、はなび、はなびぃ……花火、見てて……うわぁあんっ!」

「あー、わかったわかったっ!」

 叱責する気力すら削がれ、剛我は頭をガシガシと掻きむしった。

「剛我先輩。優己君が勝手にどこかへ行く可能性はまずありえないと思います。何か事件に巻き込まれたか、もしくはプレイヤーの仕業か。どちらにしてもまずいですね」

「ああ。さぁて、どこをどう探すか……」

「ごめん、二人とも。あたしのせいで……もし、もし優己君に何かあったら」

 涙を湛えるふみかの肩を、剛我が叩く。

「もしもの話はまた今度だ。お前だけが悪ぃんじゃねぇ。オレたちはもともと優己がこうならねぇようについてきたはずなんだからな。気ぃ抜きすぎたみてぇだ。まぁ、何にしろ」

 十字架を掴んだ拳を固く握り締めた。

「優己に手ぇ出したこと、後悔させてやる……っ!」

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