第五章

カレーライスはニンジン硬めで

 見知らぬ天井だった。

 まだ真新しい木目調のデザイン。普段天井を仰ぎ見る機会はないが、自宅のどの部屋のものでもない。

 続いて風が薫った。ほんの僅かながら、い草の香りがする。畳敷きの室内の空気を舞い上げたのだろう。

 窓の方へ目をやると、外の景色を眺める剛我の横顔が見えた。右腕には依然、ギブスがはめられたままである。

 ふみかと竜真は神妙な面持ちで壁にもたれ、座していた。その視線を一身に受けることに気恥ずかしくなり、顔を背ける。

 足元では、正座した母が黙々と作業を続けていた。

「……はい、終わったわよ」

「あぃだっ!?」

 右足に平手打ちを受け、優己は反射的に飛び上がる。見ると右足には丁寧なテーピングが施され、ボストンバッグの上に乗せられていた。

「まさか稽古の準備体操で捻挫するなんて……それも自分より小さい小・中学生の前で」

 頭を抱え、母は深く嘆息する。優己は力なく苦笑するほかなかった。

「準備体操の準備体操を怠ったみたいで……あはは」

「あはは、じゃないでしょ! あたしは情けないわよっ!」

「ごめんなさいっ!」

「……ま、腫れてなかったし、痛みも少ないみたいだから軽症だとは思うけど、しばらくそのままでね。何かあったら呼びなさい」

 母は道具を手早く片付けると、部屋を後にしていった。

 優己の右足をまじまじと眺めながら、ふみかが言った。

「いやぁ、災難だったねぇ優己君」

「こんなことになるなら、やっぱり意地でも来なきゃよかったですよ……」

 その言葉を受け、眉根を顰めたのは剛我だった。

「どうやら、まずはテメェの腐った性根を叩き直さなきゃいけねぇみてぇだな?」

「ひ……っ」

 振り向いたその険相に、優己は竦み上がる。すかさずふみかが両者の間に割って入った。

「ちょっと剛我! 優己君、ケガしてるんだよっ」

「オレの方が重傷負ってるっつうの! そもそもなぁ、こいつやお袋は空手道教室の合宿の手伝いに来てるんだぞ。むしろ足引っ張ってんじゃねぇか!」

「剛我先輩、優己君は足を捻ったんですよ」

「テメェはふざけてんのかマジで言ってんのかどっちだよ?」

 貸し道場では多くの顧客を抱えているが、中でも懇意にしているのが小・中学生向けの空手道教室“竹内空手スクール”。今回、そこのレクリエーションを兼ねた一泊二日の合宿に、母と優己が手伝いとして参加することになったのだ。

 剛我、ふみか、竜真の三人は、優己をプレイヤーの脅威から守るために同行したと述べている――が、その実小旅行気分でついてきたのでは、というのが優己の見解である。

 貸切バスに揺られ、約一時間半。

 着いた先は体育館、野球場、サッカーグラウンド、テニスコート、ゴルフ場と豊富なスポーツ設備を整えた大型複合施設であった。

 山の一部も所有しており、キャンプなどの野外活動においても充実している。

 小・中学生の生徒たちは今頃、最寄りの体育館で稽古に勤しんでいることだろう。 

 そしてここは宿泊所の一室であり、窓から施設一帯を望むことができた。

「まぁ、ケガしたのは残念だけどさ。どうせ土日なんだし、ゆっくり休んでもバチ当たらないよ。ね、優己君」

「むしろ普段運動しねぇから、そんなバチ当たったんじゃねぇか?」

「剛我は黙ってて! それよりさぁ、あたし合宿なんてしたことないからワクワクしてるんだよねぇ。でも、このしおり見るとさぁ、あんまり練習とか稽古ばっかりってわけじゃないんだね。そういうものなの? あ、夜に花火大会やるみたいだよ、やった!」

 テーブルに置かれた合宿のしおりを、ふみかは興味津々に覗き込む。

「まぁ、レクリエーションだから、他に色々やるんじゃねぇか?」

「れくりえぃしょんって何?」

 剛我は一瞬の間を置いて、隣の知恵者を一瞥する。

「……竜真」

「レクリエーションとは、端的に言えば娯楽やレジャー活動といったところでしょうか。今回参加された子どもたちは、みんな空手初心者ばかりらしいので、稽古に比重を置くだけじゃなく、体を動かすこと自体の楽しさや集団行動でのコミュニケーション力向上そのものが、この合宿における意味合いだと考えられますね」

「まぁ、そういうことだ」

「分かんなかったから、竜真君にふったでしょ」

 場所が変わっても三人の織りなす賑やかさは相変わらずだった。

 傍目からすれば、優己一人が寂しく療養している状況に見えるだろう。しかしそれで構わない。自分が三人を認識し、理解し、受容できれば、そこに彼にとっての幸福な時間が成立するのだから。

 いずれは終わりゆく時間だとしても。

 

 


「いただきまーすっ!」

 稽古も一段落し、昼休憩に入った。

 食堂に響く大音声。生徒たちの目の前に並ぶのは大盛りのカレーライスだ。

 芳しい匂いを前に、待ちわびた食べ盛りの面々。次の瞬間にはスプーンに乗せた一山を、大口へと放り込んでいた。

 優己の背後では、三人が物欲しそうに食事の模様を眺めていた。

「カレーいいなぁ、食べたいなぁ……」

「我慢しろ、オレたちゃ見てるだけなんだからな」

「わかってるよそれくらい……ねぇ、優己君。どう、辛い? 甘い? あたしニンジン硬めでお肉柔らかいの好きなんだけど」

「知るかよ、テメェの好みなんざ」

「剛我に訊いてないでしょ! せめて味の感想くらい聞きたいじゃん!」

「いや、ふみかさん。この状況では言いづらいと思いますが……」

 竜真の言葉に、優己は心のうちで首肯した。大仰に「味の宝石箱やぁ!」とまでは言わないが、わざわざ味の感想を口に出せば、わざわざ好奇の目に晒されるのは必至である。 

 談笑混じりの昼食が進む中、大柄の人物が優己の前に腰を落とした。手に持ったトレーには、2度目のおかわりとなる大盛りカレーが鎮座している。

「いやぁ、優己君! 怪我の具合はどうだい! さぁ、どんどん食べて体力をつけて!」

「は、はい……」

 彼は合宿主催の空手道教室“竹内空手スクール”の指導員、竹内であった。筋骨隆々の肉体に日焼けを宿す、竜真とは別ベクトルのスポーツマン然とした大男だ。

 早々にリタイヤした自身に対してもねぎらいを忘れない姿勢。多少の暑苦しさを感じつつも、優己からすればの一人だった。

 もっとも、竹内の掲げる教育方針が“褒めて伸ばす指導”であることは窺っているため、彼にとっては平常な対応なのだ。

「優菜さん! 優己君はね、素質ありますよ!」

 突然熱心に語りかけられ、優己の隣に座る母は困惑する。

「そうですか? 準備体操で捻挫するような子ですよ?」

「そこですよ! 年頃の子っていうのは、体に異変を覚えても、多少無理をしちゃうところがあるんですが、優己君は正直なんです。やっぱりスポーツにとって無理はいけない! 根性論は時代錯誤なんです!」

「はぁ」

「まずは体作りです! 何と言っても体が資本! そのためには美味しい食事! そしてこのカレーは美味い! おかわり行ってきます! 優己君、きみもどうだい!?」

「だ、大丈夫です……」

 竹内の人柄に関しては先ほどと評したが、ではあることを、優己は思い出した。

 母が、自身と優己の分のお冷やを注ぎながら言った。

「にしても、ずいぶんと雰囲気変わったわねぇここも。優己、覚えてる?」

「え……ここ、きたことあるの?」

「あるわよー。ま、あんた小さかったし、忘れちゃったのも無理ないわね。ここね、昔だったのよ?」

「遊園地?」

 優己は手を止め、辺りを見回す。しかし、記憶を辿っても見覚えはない。

「はっはっは! この建物は改修されて、当時の面影はほとんどないからね。覚えてないのも無理ないだろうさ。でも数年前までは本当に、よく賑わったテーマパークだったんだよ!」

 いつの間にか戻っていた竹内が向かいの窓を指し示す。

「ちょうどあの窓から見える方向に、立派なジェットコースターがあったんだよ! 僕もよく家族を連れて行ったもんだ。いやぁ、怖かったなぁ!」

「そうそう、私たちもそれ目的で行ったのよ。でもね……ふふっ」

 母が口に手を添えて柔らかく笑んだ。

「ジェットコースターに乗るのを一番楽しみにしてたのが剛我だったの。でもいざ並ぼうとしたら、身長制限でギリギリ届かなくてね。諦めなさいって言っても、乗りたい乗りたいって入り口で駄々こねながら座り込んじゃって。あの時は参ったわねぇ」

 含み笑いでこちらを見つめるふみかの視線を感じ、剛我はそっぽを向いた。

「ちょっと剛我ー、可愛いところあるじゃん」

「ガキの頃の話じゃねぇか……でもお前、よく考えてみろ? 前日一睡もできないくらい楽しみにしてた遠足や運動会が、雨天中止になったときどうする? どんな気持ちになる?」

「そりゃ、残念だけど……でも剛我の場合は、コースターはダメでも他のアトラクションには乗れたわけでしょ? 少し違くない?」

「バカお前、あのときなぁ、オレの身長があと1cm高かったら乗れたんだよ! オレの体が未熟だったせいで……だんだん思い出してきたぞ。あのときの怒り、悲しみが……」

「ちょっと何熱くなってんの?」

 背後で繰り広げられる不毛な会話を聞き流し、優己は竹内に続きを促す。

「竹内さん、何で今は遊園地じゃなくなっちゃったんですか?」

「うん!? まぁ、施設の老朽化や後発のテーマパークに人気を奪われたのが原因らしいね。経営難に陥って、ついに倒産してしまったわけさ。それでも熱心なファンが存続させようと署名活動やらやってたみたいだけど、結局アトラクションはほぼ取り壊されたんだよ。それから、この施設を含むいくつかの建物や土地を買い取って改修したのが、今の経営会社なんだ。尾上コンツェルンとか言ってたかな!?」

「おがみ……?」

 どこかで聞いた覚えがある響きだったが、優己はさほど気には留めなかった。むしろ関心を示すべきは相対した剛我のはずである。

 当の本人は未だ、幼き頃の思い出に憤りと興奮を抑えられずにいた。

「確か“デブドラゴン”とかいう名前のコースターだったような……」

「何それダサくない?」

「いや、でも見た目はめちゃくちゃカッコよかったんだぞ。ブルーやシルバーの色合いがすげぇ……おい、竜真。お前何か覚えてねぇのか?」

「いやぁ、僕も一度乗った覚えはあるんですけど、そんな名前だったかどうかは」

 剛我の表情に、義憤の影が落ちる。

「は? 乗ったってお前……裏切りやがったな?」

「えぇっ!?」




 昼食後、午後の稽古が始まった。

 と言っても行うのは、空手とは何も関係がなさそうなサッカーである。レクリエーションと銘打っている通り、運動を通じた参加者同士の交流が目的だ。

 無論、優己は見学の身である。

 苦手な運動を正当な理由で休めるのは心地いい。が、やはり小・中学生が懸命に体を動かしているのを見ると、眩しげに移ってしまう。

「ヒマだなぁ……こっそりゲームでも持ってくるんだった」

 少し視線を移すと、山の一部を切り崩して作られたゴルフ場が目に入った。整地された芝生の黄緑と残された森林の濃い緑の、不自然なコントラストが目を惹く。

 施設内にも多少の緑地は残されているものの、申し訳程度であまり意味があるようには見えない。

「……ん?」

 ふと、雑木林の木陰で何かが動いた。

 自分以外に見学している子がいるのか?

 注視するとその予想は覆された。

「犬……?」

 ピンと伸びた耳。細長い顔立ち。黒と白の混在した毛に覆われた痩躯。ただし決して弱々しさは感じられず、筋肉の絞り込まれたアスリートに似た印象を覚える。

 まっすぐ上がった尻尾は硬直し、少なくとも友好的な感情でないことは明らかだ。

 琥珀色の眼光は、優己を捉えて離さない。

 野生的な佇まいから受ける威圧に息を飲んだとき。

「優己君、危ないっ!」

「うわっ!?」

 突如、鼻先をサッカーボールがかすめた。優己は思わず仰け反り、ベンチから転げ落ちそうになるのを何とかこらえる。

「優己君、大丈夫かーっ!」

「は、はいっ!」

 竹内に声を投げ、木陰に視線を戻す。犬の姿は消えていた。

 胸の不穏な高鳴りは残ったままだった。サッカーボール急襲による緊張からか、犬が何処かへ消えた不安からか。それは結局判然としなかった。

 そして――夜が訪れた。

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