第23話 遠山綺吏紗の告白2

 一年前。






「――テメェー、何やってんだ?」

「……えっ?」

 文字を打つ手を止める。携帯画面から目を離し、綺吏紗は振り返った。

 ペントハウスの前に、一人の男が立っていた。白シャツに黒地のジャケット、暖色のカーゴパンツ。彼女の審美眼によれば、悪くないセンスである。ただ、胸元に光る十字架のネックレスは厳つく、主張を強く感じる。もっとも、一番厳ついのは着ている本人だが。

「あんたこそ、誰?」

「オレが先に訊いたんだぞ、テメェから答えろや」

 強面通りの、粗暴な口調で返す。感情が高ぶるのにも、理由があった。

 彼女は鉄柵を乗り越えた先の、わずかな縁に立っていたのだ。一歩踏み出せば、足元に広がる虚空へと身を落とすこととなる。

 綺吏紗は鉄柵に肘を預け、頬杖をついた。

「見て分かんない? 飛び降りようとしてんの。自殺よ、自殺」

「ジサツ?」

 聞くや否や、見る見るうちに男の表情が険しくなる。

「冗談だろ?」

「マジ」

「……そうか」

 不穏な気配を綺吏紗は察する。同時に本来は秘匿とすべき事態を、安易に他人へ漏らしてしまったことを悔やんだ。もっとも、飛び降りてしまえばそんな後ろ暗い感情など関係ないのだが。

「……分かったら、さっさとどっか行ってよ。気が散るから」

「あのな、ここはオレのお気に入り昼寝スポットなんだよ。それをテメェの自殺現場にされちゃ、たまんねぇんだっつうの」

「そんなのウチ知らないし」

「オレだってテメェの自殺事情なんて知らねぇよ。ほら、帰れ帰れ」

 あくまでこちらの、まさしく自殺事情など意に介さないといった、冷めた態度。

 所詮、赤の他人に自身の現状など理解しえない、と綺吏紗は悲嘆する。いや、彼の言うように一度頭を冷やして引き返す道もあるかもしれない。

「(……ううん、ダメ。あのハゲオヤジ、もう家や学校に連絡してるかもしれない。そうなったら……)」

 背水の陣に置かれる今、残された道はただ一つ。自らの命を絶つこと。思わぬ邪魔が入ったが、なおのこと意地でもここから飛んでやろうという気持ちが強く芽生えた。

「あー、もう腹決めたから。そこで見ててよ。現役JCの生自殺なんて、なかなか拝めないんだから」

 決意を固め、外へと向き直る。顎を掬うように吹き上がる風が、髪を激しく煽る。乱れるのを危惧した彼女は、髪を押さえようと腕を持ち上げた。その右手が、携帯を握りしめたままだったことに気づく。

 危うく懐に収めて、身を投げてしまうところだった。そうなれば、メモ帳に残した遺書が台無しである。

 いや、遺書を見てもらうことよりも懸念すべきことがある。その逆――他人に見られてはいけない画像や検索履歴が残っていないか。土壇場になって、そんな不安が膨らみ始める。

「はぁ……」

 あらゆるしがらみから逃れるための自殺だというのに、なぜ死後のことも配慮しなければならないのか。人間とは、甚だ面倒な社会性動物だと嘆息する。

「オイ」

 はっと顧みると、社会性の低そうな人物が相変わらず佇んでいた。

「なに? まだいたの?」

「お前がそこで見てろっつったんだろうが」

「あ。そっか」

「……お前、何でそんなに死にてぇんだよ?」

「別に関係ないでしょ」

「彼氏に振られたか?」

「いないし」

「全財産失くしたか?」

「違うし」

「親兄弟おっ死んだか?」

「生きてるし」

「だったら問題ねぇな」

 その軽薄な口ぶりに、綺吏紗はたまらず激昂する。

「……だからっ! あんたに関係でしょっ、ほっといてよバカッ!」

「バカはテメェだよ」

 一転、凄みの利いた声色に綺吏紗は硬直した。

 剛我の険相が一層張りつめる。

「死ねばどうなるってんだ? 誰のためだ? 誰が得する? 誰が満足する?」

「知ら、ないよ、そんなの……」

「テメェだろ。結局はテメェの独りよがりじゃねぇか。そんでもって、死んだあとのことなんざ考えてもねぇ。周りの人間のこともな」

「そんなこと、いちいち考えてられないし」

「家族はいるんだろ? 残ったやつからすりゃ、すげぇストレス溜まんだよ。イラつくんだよ。勝手に死なれちゃあ」

 剛我は粗雑に頭を掻いた。彼の言葉は自分ではない、他の誰かに向けられているのではないか。綺吏紗はそう感じた。

「……どうすりゃいいんだよ、オレは」

 ふみかが亡くなってから、一年が経とうとしていた。父の死から数年が過ぎ、少しは落ち着いてきたかもしれないと高をくくっていた矢先の不幸だった。未だ心の傷は癒えず、喧嘩という闘争の中に身を置くことで気を紛らわし、精神を保っている状態である。

 女手を振るい育ててくれた母親。素直で優しい弟。なのに気づけば、一つ屋根の下ながら疎遠となってしまった。学校をサボり、街中を彷徨う空虚な日々。

 そんな折、目の前で少女が自ら命を絶とうとしている。

 





 ふみかは明日を生きられず。彼女は明日を生きようともせず。

 




 

 ふと頭上に目をやると、薄暗い不吉な黒雲が留まっている。最後にふみかと別れた日も、丁度同じような天気だった。

「世の中、どうなってんだろうな」

「えっ?」

 おもむろに一歩踏み出す。

「死にたくなかったやつ」

 薄汚れた十字架を指でいじる。父は丁寧に磨いたものだったが、今は見る影もない。手入れにもセンスがいるらしい。

「死んでほしくなかったやつ」

 靴のつま先で擦るように、床面を蹴る。今はふみかに渡した型の新モデルを履いている。

「死にたいやつ」

 綺吏紗を一瞥する。顔立ちの整った美人だ。ふみかより大人びた印象を

受ける。なのに死にたがりとはまったく理解しがたい感情である。

「死んだほうがいいやつ」

 自身の掌に視線を落とし、握り拳に変える。

「いろいろいるもんだな」

「何が言いたいの?」

「“死”ってのは、不公平なもんだなって思ってよ」

 再び彼女を見据える。

「死にてぇやつは死ねばいい。ただし、オレの目の前じゃそれは許さねぇ」

 大柄な体躯を左右に揺らしながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる剛我。綺吏紗は一抹の畏怖を抱き始めていた。

「オレがそっちに着く前に飛び降りてみろよ。できなきゃゲンコツな」

「……は?」

「テメェの事情なんて分からねぇし、聞く気もねぇ。悪ぃがオレ自身、今はそんな余裕もねぇしな」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「オレができるのは、今日だけテメェを生かすことだ」

「えっ?」

「このあと、すぐに帰れ。んでもってテメェの抱えてるもんを吐き出すんだ。後悔する前にな。誰でもいい、家族でも友達でも……いいな?」

「そんな……勝手に決めないでよっ」

「いいや、オレが決める。言うこと聞かねぇならゲンコツな」

「ほんっと意味分かんないんだけどっ!?」

「死ぬ勇気あんなら、もっとマシなもんに使えっつってんだよぉお!」

 激昂して叫ぶ剛我に、綺吏紗は竦み上がった。 

「踏み出す一歩間違えんな、バカ野郎っ!」

「あの、まっ」

 がくん、と体が降下する。足元が抜け、腰が落ち、顎が上がった。

 剛我の気迫か、言葉か。もしくは両方か。心の揺らぎが体に伝播したのか、彼女は足を踏み外してしまったのだ。

 とっさに欄干へしがみついたことで落下を免れた――かに思えた。不吉な軋みを耳にするまでは。

 鉄柵が根元から外側へと折れ曲がっていく。老朽化のためか、彼女の体重を支えるほどの強度を有していなかったのだ。

「ちょ、やだ……っ!」

 投げ出された両足をバタつかせる。踏み外した際、縁へぶつけた脛への鈍痛をこらえてでも、懸命に足場を探る。その行為が、鉄柵にさらなる負荷がかかるという考えは失念していた。

「あ、あ、あ……っ!」

 外側へ傾く鉄柵。体が、徐々に中空へと導かれていく。

「おいっ!?」

 こちらへと駆け出す剛我の姿が見えたのも一瞬のことだった。間もなく仰ぐ体勢となり、目線は暗雲へ向けられた。

 重々しい暗色の塊が、頭上に鎮座している。ふと雨粒が一滴、頬を打った。腕の力が限界を迎えたのは、その直後のことだった。

「あっ」

 気づけば、鉄柵から体が離れていた。黒髪が後頭部から浮かび上がり、うねり、踊る。内臓が込み上げる、気色の悪い浮遊感に襲われた。

 空が、離れていった。






「――へへっ、なんだよそのツラ。死にたがってたんじゃねぇのかよ」

 脂汗をかいたのはいつ以来だろうか。雫となって鼻先から垂れるそれが、自身の強張りで途切れ落ちるのを剛我は懸念する。

 ひとたび汗の落下を許せば、今、彼女との物理的な繋がりさえ離散してしまうのではないか、と。

 綺吏紗のたおやかな右手。剛我の力強い左手。互いの手首を握る形で命綱となっていた。

「だ、だって……っ」

 彼女の顔を見て、剛我は口元を緩めた。まだ汗はこぼれない。

 先ほどまでの生意気な面構えは失せ、不安と恐怖が混濁した様相を見せる綺吏紗。強張る彼女の双眸には大粒の涙がこぼれていた。

 ――ふみかも今わの際、こんな表情を浮かべていたのだろうか。

 ――どんなに寂しく、苦しく、暗い刹那を味わったのだろうか。

 ――当時、自身がそばにいれば彼女を救うことができただろうか。

 今更覆りようのない現実を、何度顧みたことだろう。何度手を伸ばしたことだろう。

 ならば、現在いま

 目の前の彼女だけは。

 彼女の心に巣食う何らかの闇まで取り払うことはできないとしても。

 せめて今日の命だけはつないでやりたい。

 そうすれば明日は、何かが好転するかもしれない。

 それだけならば自身にも――。

「これに懲りたらよぉ、二度と死にたいなんて思うな。ちゃんと向き合うんだ。自分にも、周りにも……。オレも、そうするからよ……」

「うん……わかった、わかったよ……っ」

「よし……なら、いいか? 足元に窓が見えるだろ、ちょうど開いてる……そこに飛び込めっ!」

「し、下っ? 下なんて、見れないって……っ!」

「見ろっ! 見ねぇとゲンコツだからなぁっ!」

 狼狽える彼女に、剛我は叫ぶ。腹の下でひしゃげた鉄柵が軋んだ。

 彼の上体は大きく外側へ乗り出しており、とっさに縁へ引っ掛けた右指先の力だけで、彼女と自身の体重を支えていた。

 腕力に覚えがあるとはいえ、今の体勢で綺吏紗を引き上げることは至難の業である。右腕の限界も近い。もはや一刻の猶予もなく、彼女の自発的な行動に頼るほかなかった。

「飛べぇっ!」

「……っ!」

 綺吏紗は意を決し、剛我の手から離れた。同時に体を捻り、窓へと鋭角な滑り込みを敢行する。

「……ッタ!?」

 床に体を打ち付け、悶えたのも束の間――音がした。

 硬いものが砕け、柔らかいものが潰れる音。外からだった。それきり静かだった。 

「……えっ?」

 立ち上がり、窓の下を確認する。

「……うっ」

 弾けるように窓から飛びのき、たたらを踏んで尻もちをつく。口を押さえ、こみ上げる吐き気をこらえる。

 彼はソコにいた。血だまりの中央に置かれた首が、妙な方向へ曲がっていた。

「うそ」

 誰も肯定しない。

「やめてよ」

 誰も答えない。

「うそだうそだうそだこんなのやだやめてようそだうそだおねがいなんでもするからうそだうそだうそだうそだうそだ……っ」

 抱えた両足の間に頭を埋め、嗚咽を噛み殺す。 

 こんな馬鹿なこと、あるわけない。あってはならない。

 自身を助けようとしてくれた人が死に、死にたがっていたはずの自分が生きている。

 彼の言う通りだった。“死”は不公平だ。不条理だ。

 彼女の慟哭は篠突く雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

 




 ――綺吏紗は沈黙した。小さくすぼまった口を、優己はまじまじと見つめる。次の言葉を待ったが、彼女は俯いたきり動かなかった。

 天井に近い小窓から、歓声が投げ込まれた。遠くの方らしかった。野球かサッカーか、もしくはトラック競技か。判然としなかった。

 やがて沈黙に耐えきれなくなり、優己は切り出した。

「……それから、どうしたの?」

 少しの間を置き、綺吏紗は顔を上げる。瞳は濡れていた。優己は申し訳なく思った。

「ああ、ごめん。えっとね……いつの間にか、家の玄関でうずくまってたの」

「玄関?」

「そう。どうやって帰ったのか全然分からなくてさ。今までの出来事も全部夢だったんじゃないかって、しばらくボーッとしてた。……でもね、あることに気づいたんだ。なんだと思う?」

 そう力なく笑む彼女の目は虚ろだった。

「靴を履いてたの。よく覚えてないんだけどさ、屋上に残した靴を取りにわざわざ戻ってたみたいなんだ。自分がそのビルにいたと思われないようにね。おまけに雨が指紋や足跡を消してくれたから、ウチが剛我さんの死に関わってることは誰にも分からなくなったわけ。ね、結局自分のことしか考えていない……最低の人間でしょ?」

 涙を湛える彼女は、それから淡々と語り始めた。

 結論から言えば、彼女は万引きの処分を受けた。ただし被害届は出されなかった。

 というのも、例の店長が後日、盗撮やわいせつ等の罪で逮捕されたのだった。バックヤードの監視カメラが作動していないことに店員が気づき、代わりに個人用の隠しカメラを発見したことがきっかけだったらしい。

 一連のカメラ映像を見た警察から証言を求められた際、綺吏紗は万引きしたことを話した。

調書を終え、厳重注意を受けた警察署からの帰路。彼女は、同行してくれた両親にありのままの心情を吐露した。苛立ち、不安、後悔。これまでに抱いた感情を率直にぶつけ、陳謝した。対して、両親からは激しい叱責が飛んだ。と思えば、強く抱きしめられ、涙ながらに謝罪された。感情をむき出しにし、顔を涙でぐしゃぐしゃにした二人を目の当たりにし、彼女は戸惑いつつも続いて号泣した。

本音で向き合う。人間関係が虚ろで不安定な現代において、それは簡単なようで難しい。しかし、時間こそかかったが彼女たちはそれを成し遂げた。

こうして互いのわだかまりが解けたことで、彼女に平穏な日々が戻りつつあった――不慮の交通事故で亡くなるまでは。

 結局、剛我の死の一件に関わっていることは誰にも話せないままとなった。

「いつか、ちゃんと言わなきゃって思ってた。剛我さんの家族に、本当のことを……! でも、どうしても勇気が出なくて、結局言えなかった。ごめんなさい、ほんとうに、ごめん……っ!」

頭を垂れ、肩を震わせる。彼女の背負う後ろ暗い感情は、優己にも理解できた。間田たちに虐められていたことを、母に打ち明けられず。唯一察知していた真大には辛い、苦しい、助けてほしいといった気持ちを、素直に告げられなかった過去を思い起こさせる。

「このゲームに参加すれば、剛我さんにも会えるんじゃないかって思ったの。そして謝りたかった。今まで何度か見かけることはあったんだけど、話しかける勇気がなくて……今日まで言えずじまいなの。ほんと、卑怯だよね」

膝の上に重ねた手。小窓からの日差しが落涙に反射し、眩しかった。

彼女は待った。自身を叱責する言葉を。優己にはその資格がある。

「……綺吏紗ちゃん」

 優己は重い口を開いた。

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