第21話 見られたっていい

 ――ふみかは屋上に到着した。着地の間際、足元を弾性化させることで衝撃を最小限に努めた。竜真を背中から下ろし、負傷した背部を接地させないよう横に寝かせる。

「ありがとうございます……」

 彼女に礼を言い、竜真は笑った。頬を持ち上げた拍子に、大玉の汗が零れ落ちる。その異常な発汗量が、彼が必死に抑え込まんとする痛みの凄絶さを物語っていた。

「ごめんね、竜真君。あたしが足引っ張っちゃったから……」

 硬質でいびつな高音。彼女は剥き出しのコンクリートの床に、細く滑らかな爪先を突き立てていた。

「あたしさぁ、この間は剛我に助けられて、昨日はただ見てるだけだったんだ。だから今日こそは頑張ろうって思ったのに」

「ふみかさん……」

「なのに開始早々パンツ奪われちゃった上、竜真君傷つけられちゃってさぁ。何やってんだろうね、あたし。ほんっと、情けないよ……」

 瞳を潤ませ、唇を噛みしめるふみか。二人きりになった途端、しおらしい一面を覗かせる。二階で言い放った『絶対に勝つ』という意気込みは、彼女自身に向けた鼓舞の言葉だったのかもしれない。

「泣かないでください。ふみかさんに泣かれると、僕が困ってしまいますから」

「えっ?」

 竜真は、掴んだ鉄柵を支えに上体を起こす。

「優己君の部屋を出るとき、剛我さんに言われたんです。『ふみかを守れ』って。このままじゃ、僕はあの人に合わせる顔がありません」

「あいつが、そんなことを……?」

 ふみかは慌てて目元を拭った。“剛我”の名前を耳にした瞬間、なぜか彼女の萎れかけた心が奮い立ち始めたのだ。もしも彼がこの場にいたならば、彼女にどんな言葉をかけてくれるだろうか。励まし? 慰め? いや、鼻を鳴らして馬鹿にするに違いない。長年の付き合いから、彼の底意地の悪さは承知している。人間が持つ“優しさ”成分は、弟である優己に渡ってしまったらしい。そんな彼の小憎たらしい笑みを思い浮かべてしまうと、竜真の顔を立てるのは無論のこと、いつまでも弱気な姿ではいられない。

 ふみかは奮然と立ち上がる。彼女の心に、一握りの勇気が芽吹いたときだった。

「追いかけっこはそろそろ終わりにしようか」

 ペントハウスの入り口を抜けて、庄條たちが上がってきた。

「いやぁ、さっき彼を背負って窓から飛び出したときは驚いたよ。さらにそこから空中移動もやってのけてしまうんだからね。推察するに、霊具は……」

 思案顔で眉根に寄せた人差し指を、ふみかの足元へと突きつける。

「その不釣り合いな男物のスニーカーだね? 能力は脚力強化による高い移動性能、といったところか? この場所を選んで正解だったようだ。屋内では本領を発揮できない類の能力だからね、はははははっ!」

 つくづく運が向いていると確信し、庄條は高笑いを抑えきれなかった。

「それではもう一度訊こうか。これで最後だ。ふみかちゃん……俺たちのチームに加入してくれるかい? そうすれば竜真君は見逃してあげよう。どうだ?」

 彼の提案に、ふみかは嘆息する。

「さっき言ったこと、聞いてたと思うんだけど……あたしは、ううん。あたしたちは諦めない。二人の力で絶ッッッ対勝つんだもんっ!」

 再び威勢を取り戻した彼女を、怪訝に見つめる庄條。スーツの埃を払いながら憎々し気に呟いた。

「勝つ……か。若気の至りというのか、何だか眩しいものを感じるよ」

 足元の蟻が目に留まる。蜻蛉の千切れた薄羽を咥え、右往左往する姿がどこか疎ましく思い、つま先で踏みつけた。

「では聞かせてくれないか。この背水の陣というべき状況で、どうやって俺たちに勝つと?」

「背水の陣というのは……こういうことをいうんです」

 竜真は懐に忍ばせていた一球を投擲する。庄條は即座に透視し、中身を車だと見透かした。

「避けろっ!」

「アウトッ!」

 蜘蛛の子を散らすように、投球の射線上から逃れる庄條たち。地鳴りに足がもつれ、床に手をついた拍子に振り返る。ペントハウスは内側から崩壊し、二トントラックが瓦礫の山に埋もれていた。

「しまった……っ! だが」

 階下への出入り口が塞がれ、一瞬表情が陰る。が、すぐに持ち直し、頬を緩めた。

を使ったな? あとは手負いの君を始末すれば、ふみかちゃんはどうにでもなっ」

 満面の笑みが固まる。彼の目に映ったのは、袋小路に追いやられた竜真が本来見せるはずのない、精悍な様相だった。

「庄條さん……どうして今の一球が最後だと分かったんですか?」

「何?」

 竜真は立ち上がり、バットを差し向ける。

「この瞬間……あなたたちの能力は全て把握しました。覚悟してください」

 突如奮起し、こちらを射竦めんばかりの眼光を放つ竜真。不測の事態に訝しがりつつ、庄條はネクタイを緩めながら訊ねる。

「俺たちの能力が……何だって? 把握した、だと? いいだろう、聞かせてくれ。答え合わせでもしようじゃないか」

 説明を促すのは自信の表れか、庄條は余裕の笑みを崩さない。

 竜真は応じる。

「では……この廃ビルに案内されたとき、僕は違和感を覚えました。もし僕が戦場を選ぶならば、見晴らしの良い平地……例えば野球のグラウンドが望ましいと考えます。ところが、あなたたちが提案したこの建物はどうでしょう? 内部は入り組み、廊下幅は狭い。屋内戦では、敵の居場所をいち早く把握する必要がある。そうでないと死角から奇襲を受けるリスクが高いからです。つまりここへ導いたあなたたちは、そのリスクをカバーできる能力を有している……と考えるのが妥当。ここまではよろしいですね?」

 一同は口を結び、竜真の言葉に耳を傾けている。特に庄條は視線を落とし、時折唇を指でつまむような仕草を見せる。眼差しは険しい。言葉尻を逃がさず、揚げ足をとろうと目論んでいるのか。

「最初に廃墟へ進入した僕たちは、一番奥の部屋へ身を隠しました。そこで密談を交わし、間もなくあなたたちがやってきた。その早さに僕は驚きましたよ。まるで僕たちがここに潜んでいることが分かっていたかのようでしたから――実際、そうだったんですよね?」

 バットの先端を、申谷に向ける。彼は思わず肩を浮かせた。

「まずは申谷さん。あなたの能力は“周囲の微細な音をキャッチする”といったところでしょうか?」

 真一文字に結んだ口元がかすかに引きつる。

「確信を持ったのは、二つの発言です。戦闘開始前のことでした。七海さんが通信をとっていたとき、僕は皆さんのやり取りを眺めていたんです。その中で申谷さんだけが、通信先の声を聴きとっていたような口ぶりでした。確か『向こうの話しぶり聴いてりゃお察し……』だ何とか」

 申谷は一瞬、庄條に目配せするも反応がなかった。行き場を失った不安を悟らせないためか、目を伏せる。

「そしてもう一つ、『大丈夫です。貴方は必ず守ります』。これは一階の部屋で、ふみかさんに向けて僕が言った言葉です。しかし申谷さん……先ほど二階で庄條さんに訊ねられたとき、あなたはその言葉を口にした。七海さんの件と同様、僕たちの会話を盗聴していたんじゃないですか?」

 伏し目であっても額の辺りで痛感する、蔑視の圧力。“盗聴”という言葉の語気には、叱責に似た感情が含まれていた。申谷は、その威圧が薄らぐのを感じ、おもむろに顔を上げる。竜真の関心は、庄條に移っていた。

「続いて庄條さん。あなたの能力については非常に悩みました。手掛かりは二度の予知です。一度目は白煙で視界が遮られた状況で車の接近を。二度目は僕が投げようとしたボールの中身を。当初は未来予知か透視と踏んでいましたが、どうやら後者が濃厚みたいですね」

「……根拠は?」

「これも戦闘開始前のことです。七海さんが六稜忌暈を誤って、あなたに向けて打ち出してしまったとき。あなたは直前まで七海さんを見ていましたよね? 未来予知なら『あっぶねぇっ!?』なんて間抜けな声を上げて身を縮めることはなかったはずです」

「そ、そのときは能力を使っていなか……っ!」

 庄條はとっさに口を押えた。思わず漏らした発言こそ、能力の示唆にあたるからだ。

 もっとも、竜真が欲していたのは言動ではなく、“行動”にある。瞬きの数。視線の揺らぎ。手指の挙動。不意に見せる微々たる所作にこそ、得てして本音が隠されているものだ。言ってしまえば未来予知でも、透視でもなくても構わなかった。少なくとも視覚に関する能力だという確証を求めていたのだから。

 竜真は続けた。

「それだけじゃありません。未来予知の場合、まず残りのお二人に予知の内容を事前に説明していないというのは不自然です。ならば直前の未来しか予知できないのかとも考えましたが、それでは二階の死角に配置したボールを見破ったことが説明できない。なぜなら、結局僕はその仕掛けを解いていないからです。そうすると、もう一つの可能性が浮上します。“分岐する未来”が見える。しかしこれも違う。理由は単純」

 まくしたてる彼に圧倒されたのか、口を挟む者はいなかった。

「こうして背水の陣に置かれても諦めず、立ち向かう僕たちの姿……あなたの目に移りましたか?」

 庄條は答えない。その無言こそが返答だった。

「加えてさっき僕が投げたボールを最後の一球だと断言した件含め、ここまでの情報を精査した結果……もっともつじつまが合う能力は、ずばり透視。異論があるなら聞きましょう」

 本職である庄條のお株を奪う、名探偵ばりの洞察力。断崖に追いつめられた犯人がごとく申谷と猿川が狼狽える中、彼は違った。

「なるほど、いやぁ驚いた。その通りだ。俺が君たちの動向を観察し、申谷が会話を探る。情報戦においてまさに無敵と言える能力だろう? まぁ、俺たちの慢心からくる過失を考慮しても、見事な推理だ。素晴らしいよ……そうか。俺たち全員の能力を把握したからこそ、二階での会話で“戦術”などという言葉が出たのか。引っ掛かりがとれたよ」

 庄條は惜しみない拍手と称賛を贈る。そこから一転、表情を硬化させた。

「それで? 能力を解明したからといって、どうなんだ? 現状、追い込まれているのは君たちだが」

「果たしてそうでしょうか」

「……何?」

「結論から言いましょうか? あなたたちの能力を鑑みる限り、こちらに対する有効な攻撃手段を持ち合わせていない」

「!」

「唯一可能性があるのは猿川さんの能力。もっとも、周囲が開けたこの屋上という空間でそれを活かせたらの話ですが」

 猿川の〈呼応今来〉は、物体と自身の間に相手を挟むことで、初めて攻撃に転用できる能力である。先刻、竜真を負傷させた状況を再現するには条件があまりに整っていない。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、という故事があります。事実、未知の能力に対する恐れがなくなった今、気兼ねなく攻勢に転じることができる。攻守交替と行きましょうか」

「……舐められたものだ」

 各々、瓦礫を手に取り、竜真を見据える。

「竜真君。多勢に無勢、という言葉もあるぞ。一人は手負い、もう一人はか弱い少女。大人三人に、その粗末な木の棒で対抗しようというのか?」

「違う。このバットは弟がくれた、かけがえのない宝物だ。本来は武器としては使いたくない、けど……もう迷わないっ!」

 数の暴力へと打って出ようとする庄條たちへの対抗手段はバットのみ。剛我戦においても武器として使用しなかった、兄弟の絆の象徴。しかし、今はもはや躊躇する暇はない。

 これは個人の戦いではない。チームの一員として、何より女性を背に置く漢として臨む“闘い”なのだ。

 バットを握り直し、今まさに駆け出す間際、ふみかが正面に立ちはだかった。

「……ふみかさん?」

「竜真君、ありがとね。今までずっと守ってくれて」

「えっ?」

「そのバットはね、あんな奴らを殴るためのものじゃないよ。下げて」

 バットのヘッドを左手で掴み、そのまま押さえる。諭す声色は心なしか低い。

「で、でも」

「好きなだけ見ればいい。おっぱいでもお尻でも何だって見たらいいじゃない。でもね」

 ふみかは振り向きざま、庄條たちを敢然と睨みつけた。

「あんたらのそんなスケベでバカでくだらないクソみたいな目的のせいで、竜真君を傷つけたのだけは許さないっ!」

 右足を踏み込む。

「よく考えたらさぁ、そうよ。簡単なことじゃん……」

 左足を一歩。

「見られたっていいのよ」

 また右足で一歩。

「どうせあんたたちここでブッ飛ばすんだから」

 竜真の位置からは彼女の背中しか見えないため、表情は窺えない。しかし只ならぬ様相を呈していることは、対面する庄條たちが戦く様子から見て取れた。

「目撃者はみーんな消せばいい……」

「あ、あの、ふみかさっ」

「竜真君」

「は、はいっ!」

 振り返った彼女の表情は、見慣れたにこやかな笑顔に溢れていた。

「しばらく目、閉じててね」

「分かりましたっ!」

 すかさず地に突っ伏す竜真を確認し、ふみかは向き直る。そこから両足を揃えると、膝を曲げ、頭を垂れた。さながら水泳の飛び込み体勢を思わせる姿に失笑しそうになるのをこらえ、庄條は声を投げる。彼は見落とした。彼女の足元が急激に深く凹み始めていることを。

「おいおい、ふみかちゃん。いったい、何をする気だ? まさか君、が……っ」

 一陣の風が横切った。続いて、ふみかの姿を見失った。否、二つの事柄は順序が逆だった。

 庄條がわずかな予想を頼りに振り返る。が、完全には至らなかった。左側頭部に強烈な打撃を受けたからだ。

 視界が揺れ、脳が揺れ。肉体の統制が乱れ、膝をつく。すかさず顎を蹴り上げられ、否が応でも天を仰ぐ。

 何物でも構わない。視界いっぱいに広がる朧げな空を注視し、急拵えで焦点を合わせる。澄み渡る青を捉え、微々たるも安堵が芽生えたとき。

「どこ見てんだよ」

 左右から頭を鷲掴みにされ、強引に正面を向かされる。安堵の芽は枯れ果てた。

 血走る目。眉間に刻まれた逆ハの字型の皺。紅潮する肌。歪んだ唇。その狭間から覗く白い歯からは、硬質な軋轢音が鳴っている。怒張に震えるふみかの形相が眼前にあった。

 しかしその恐ろしい光景を、庄條が長く目にすることはなかった。顔面への膝蹴りで視界が急転したからである。膝蓋骨と鼻骨の正面衝突。弱く薄い軟骨とされる鼻っ柱が、今回の損害を被る羽目となる。

「は、はひゃ、ふぁ……っ」

 仰向けに倒れる庄條。骨折した鼻からの流血が、顔の下半分を赤く染めていた。半開きの口からは言葉にならない声が漏れている。

「しょ、庄條さっ」

 彼に駆け寄ろうと動く申谷に、疾風のごとき回し蹴りが襲い掛かった。

 首が軋みながら右旋回し、後れを取って体が半回転する。受け身もとれぬまま、固いコンクリートに腹から叩きつけられた。

「あぁ、がぁほ……っ!?」

「うぅ……うおぉおおー、この女―っ!」

 猿川は、手に持った瓦礫を投げつける。

 コンクリート片の接近を認めた彼女は焦る様子もなく、右足を胸に並ぶ位置まで高々と持ち上げた。当然太腿はおろか、これまで秘匿としてきた下腹部まで露わとなる。だが、その挙動に羞恥の色は窺えない。

 足裏に触れた直後、瓦礫に異変が起こる。接触面から後部にかけて全体が波打ち始めたのだ。同時に右膝を曲げることで、投擲の威力を完全に殺された瓦礫は一時、静止。ここまで片足で直立を維持するふみかは、体重を乗せて右足を伸ばし切る。

 蹴りに加え、弾性化された自身の反発力により弾き返された瓦礫の威力は凄まじく。

「ほ、ほぎゃ……っ!?」

 額に直撃を受けた猿川は派手に転倒した。






 その後も続く阿鼻叫喚の地獄絵図を、竜真は研ぎ澄ました聴覚を頼りに脳裏で描いていた。

 おそらくふみかはスカートの翻りも構わず、大開脚も厭わず、獅子奮迅の猛攻を見せていることだろう。

 彼女の受けた恥辱もとい、溜め込んでいた憤怒がこれほどの爆発力を秘めているとは誰が予想できたであろうか。

「ま、待て。おれは止めたんだって。こんなバカなさくせっ、ぐへぇっ!?」

「姉ちゃんよぅ、も、もうゆるひて……おごっ、がっはぁっ!?」

「い、一旦。一旦落ち着こう、ふみかちゃ、あぐっ、ごあっ、ぎひぃっ、ぶえぇあっ!?」

 各々の悲鳴の程度から、庄條に最も怒りの矛先が向けられているらしい。今回の作戦の発案者が彼なのだから、当然の報いではあるが。

「一つ訊いていい?」

 ふみかは、庄條の襟首を掴み上げる。

「な……が、ふぁ……っ」

「竜真君の話だと、あんた透視できるんだよね? 透視ってさ、もの越しに中身を見通せるんだよね?」

「ふぁ、ふぁい……」

「つまりさ……見たの?」

「……な、なひふぉ」

「服越しに裸見てたんじゃねぇのかっつってんだよぉおっ! あたしや七海ちゃんのさぁあっ!」

「そ、それは……あっ、ダメ、そこはやめっ。ああ……潰れる、千切れる、捻じるな。ああ、ああぁああああああーっ!?」

 幸か不幸か、その拷問の全容を竜真は聴覚でしか認識できない。にもかかわらず体の戦慄きを抑えられなかった。いったい庄條の身にどれほどの艱難辛苦がもたらされているのか、想像すらできない、いや、したくない。男の本能が畏怖し、拒絶していた。

 思えば、女性に振り回された人生だったと庄條は回顧する。振っては振られ、振られては振り……探偵という職業に就いたのも、男女の痴情や愛憎のもつれをより間近で見物したいという倒錯した酔狂に従ったからだ。そんな彼が最期に見た景色は、晴天にサングラスの破片が星のように煌く、矛盾しつつも幻想的な――。

「そういうのもういいから」

「むぎゅっ」

 とどめの踏みつけを受け、ついに庄條の視界は暗転した。

 【――庄條規史 脱落――】

「あと二人……ん?」

「あ」

 ふみかは次の標的を見定めるべく視線を巡らす。鉄柵を乗り越え、今まさに壁面を下ろうとする申谷と目が合った。

「ちょ、タンマタンマ。ほんとにおれさ、嫌だったんだって。一番乗り気だったのはそこにいる猿川のおっさんが……っておいっ!?」

 猿川が申谷に向かって突進を敢行する。鉄柵に体当たりし、その衝撃でバランスを崩した申谷は宙に投げ出された。

「うわぁあああああーっ!?」

「申谷―っ!」

 猿川は鉄柵から身を乗り出し、彼に続くように飛び降りた。すさかずメガホンを口に押し当て、早口で叫ぶ。

「申谷の服、こっちにこいっ!」

 号令を受けたジャケットに引っ張られ、申谷はエビ反りの体勢を強制される。

「おい、おっさ……っ!」

「許せ……っ!」

 上昇する申谷。降下する猿川。互いの体が空中で激突する。両者は密着した状態で地面に落下するも、その明暗は大きく分かれることとなる。

 猿川は申谷との接触により、落下の勢威の緩和に成功。骨折も打撲もなく立ち上がる。

 一方、彼の下敷きとなった申谷は大の字のまま沈黙していた。

 【――申谷聆 脱落――】

「悪ぃな、申谷。おめぇや庄條の分まで、オレは生き延びるぜっ! そんでもって……」

 懐から件のボールを取り出す。

「このボールの中身に、思いを馳せるっ!」

 逃走する猿川の背中を、ふみかは屋上から睥睨する。

「クッソ、あいつがボールを……あ」

 彼が向かう出入り口に目を移す。そこには剛我が仁王立ちしていた。

「剛我っ!? 何でそこにいるのっ!?」

 ふみかの存在に気づくと、剛我は左腕を掲げる。

「おう、ふみか。ここにいたのか。やっぱオレよぅ、家にじっとしてんのは性に合わねぇみてぇでなぁ。お前らのこと探してたら結界見つけて……」

「どけどけーっ!」

 手前に向かって疾走してくる猿川を一瞥すると、剛我は途端に険相を浮かべる。

「何だあのおっさん」

「お前こそ何だーっ!?」

「極悪虐殺大帝国軍団のボスだ」

「意味分からんことをぉ……そこをどけぇっ!」

 拳を振りかざす彼を見て、明確な敵意を受け取る。闘争に飢えた心の疼きを感じた。

「剛我そいつぶっ飛ばしてぇーっ!」

 ふみかが声高に叫ぶ。療養を勧めてきた仲間からの正式な戦闘許可である。

「分かった」

 剛我は快く了承した。左の正拳が唸りを上げたのは間もなくのことだった。






 【――猿川謙太郎 脱落――】

「つまんねぇなぁ、おい」

 不満げに左掌を開閉させて眉根を寄せる剛我のもとへ、ふみかが駆け寄る。

「剛我、あんなに家で大人しくしろって言ったのに……でも、ありがとね。助かったよ」

「助かった?」

「ああ、こっちの話。ところでさ、さっきのおっさんが何か残して……あった!」

 ふみかは転がっていたボールを見つけると、駆け出したい衝動を抑え、早歩きで向かった。さりげなくスカートを押さえつつ拾い上げると、愛おしそうに抱き寄せる。

「やった、やった、ついに取り返した……」

「何が?」

「ひゃわぅ!?」

 いつの間にか剛我が背後に立っていた。ふみかは飛び上がりそうになるも、スカートが翻ることを懸念し、踏みとどまる。

「ああ、剛我……いたんだ」

「そりゃいるだろ」

「……ねぇ」

「何だよ」

「いや、そのぅ……」

 このとき、ふみかの思考は有史以来、目まぐるしい働きを見せた。

 早急に下着を穿きたいのだが、剛我の存在が煩わしい。かといって想いを寄せる相手に事情を説明するのは、女性としてのプライドが許さない。

 つまり“剛我に悟られずにボールの変化を解き、手早く穿く”。

 この一連の動作をいかに迅速に終えるかが命題である。後ろを向いていてほしいなどと頼めば、理由を問われる。マンションに進入したところで竜真に大声で合図し、死角で穿く。それではマンションに一人で向かうという行動が不自然で怪しまれてしまう。

 八方塞がりの事態に頭を抱えたとき、強烈な視線を感知する。

 はっと屋上に目をやると、鉄柵にもたれかかる竜真がこちらを見つめていた。視線が合致したそのとき。互いの額から一筋の光線が伸び、直結したかのような錯覚を覚える。

 今日こんにちの戦闘が親睦を深めるきっかけとなったのか、それこそ同時同一、阿吽の呼吸というべき奇跡の意思疎通を成し遂げた瞬間であった。

「……剛我」

「だから何だよ」

「えいっ」

 ふみかは唐突に剛我の右腕を殴りつけた。

「イッテェエエーッ!?」

 剛我が悶え、ふみかから顔を逸らしたのを認めると、竜真が小声で「アウト」と呟く。ボールから立ち返る下着。彼女は瞬時に前後を確認し、一切の無駄を省いた所作で穿き直した。

「おっまえ、どういうつもりっ」

「ごめん、剛我っ!」

 怒鳴る剛我の胸元に、ふみかが縋るように飛び込む。いつになくしおらしい彼女の行動に、思わず面食らった。

「痛かったよね? びっくりしたよね?」

「あ、ああ」

「もう二度としないから。ほんっとにごめん。でも理由は訊かないで」

「訊くなっておめぇ、そんな勝手」

「訊かないで」

「いや、だって」

「キカナイデ」

 剛我は押し黙る。表面的には懇願なのだが、彼が受けた印象は脅迫に近かった。腑に落ちないものの、これ以上の追及を断念する。

「わ、分かったよ。もういいよ。……で竜真は?」

「あ、そうそう。竜真君、怪我してるんだ。あたし、助けに行ってくるね!」

 踵を返し、マンションへ駆け出すふみかの足取りは実に軽やかだった。

「……訳分かんねぇ」

 今朝の再現かのように、剛我は一人残される。釈然としない思いを胸に抱え、立ち尽くすほかなかった。











 とある一室。

「今……何て?」

 優己は呆然と目の前の人物――遠山綺吏紗を見つめる。

「うーん、あまり何度も言いたくないんだけどね」

 彼女は長髪をかき上げると、先ほど優己に発した言葉を繰り返した。

「剛我さんが死んだのは――ウチが原因なの」

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