第20話 下劣な謀略

 建設半ば、陽の目を見ぬまま放棄された廃マンション。内装はコンクリート打ちっぱなしの、無機質な灰色に覆われていた。ところどころ剥きだしの鉄骨は錆びつき、枯れかけた蔦が巻き付いている。

 長年の風雨に晒されたせいか、壁や地面は屋内にも拘らず黒ずみと苔に浸食されている。湿っぽい臭いが鼻腔をつく。昼間だというのに仄暗く、陰鬱な気配が漂う。

 竜真たちが身を潜めているのは、一階最奥の一室だ。

 扉が据えられておらず、声が突き抜けてしまうため、会話は囁くように努めた。

「ふみかさん、その……本当に申し訳ありません。早計でしたね」

「ううん、もう大丈夫。気にしないで……」

 ふみかは精一杯の微笑みを返すも、生来の魅力であるはつらつさは薄れている。

 膝立ちでスカートを下に引っ張り、羞恥に頬を染める彼女の悩まし気な姿態を、竜真は直視できなかった。

「あたしこそ、殴ってごめんね。竜真君、あたしのこと考えてくれたんだもんね」

 竜真は首を横に振る。

「いや、結果としてふみかさんに嫌な思いをさせてしまった以上、何の意味もありません」

 著しく行動を制限された今の彼女では、得意の空中戦もままならない。彼女自身もそれを理解しているが故、意気消沈の具合も深まる。

「……」

 ふみかの視界に入ったのは空き缶や吸い殻、際どい水着の女性が表紙を飾る成人雑誌だった。ここにたむろしていた輩が置いていった俗趣の残滓だろう。こちらに小ぶりの尻を向けて微笑む“彼女”は、どれほどの色情の視線に晒されてきたのだろうか。今の自身の姿と重ねてしまい、耐えきれず目を背けた。

 彼女は夢想する。

 ほんの四十分前まで笑顔に溢れていた時間が、今は遠く懐かしい。

 恥辱に唇を噛みしめ、身を震わせるしかできない自身を顧みて、唾棄たる思いに駆られたとき。

「ふみかさん」

 正面からの声に、顔を上げる。竜真の柔らかな笑みがあった。

「大丈夫です。貴方を……必ず守ります」

 その真摯な眼差しを受け、ふみかは小さく頷いた。

「もうこれ以上、あなたに危害を加えさせるつもりはありません。約束します。まずは何としてもボールを取り返しましょう」

「竜真君……そうだよね。あたし、このままじゃ痴女だよねっ! ……うう、剛我がいなくてほんと良かった」

「とりあえず、現状相手について分かっていることが、いくつかあります」

「分かったこと?」

「はい。一つは、猿川という男の霊具がメガホンで、能力は名前を呼んだ物体を引き寄せるというもの。それだけ聞くと強力ですが、霊具や人体を引き寄せるのは不可能のようです」

「えっ、何で分かるの?」

「僕は相手と対峙したとき、まず霊具がどのようなものかを確認するんです。霊具の能力は、そのもの本来の用途や性質に、超常的な要素を加えたものが多い。つまり、それを念頭に入れて霊具に注目すれば、ある程度能力の推測と動向が予測できるということです。おそらく、大抵のプレイヤーはこれを実践しているでしょう。三人寄れば文殊の知恵とあるように、向こうも同様の意識だと考えるのが妥当かと」

「う、うん……」

「もし僕があの猿川の立場で、能力に制限がかからないと仮定した場合。ふみかさんのパンツなどではなく、真っ先に僕の持つバット、もしくは僕ら自身を呼び寄せたでしょう。バットについてはまず、これほど初見で霊具だと推測しやすいものはありません。スポーツバッグにも目は行くとは思いますが、殴打武器になるバットを優先的に奪うのは当然の流れかと。ここまではよろしいですか?」

「よ、よろしいです……」

「続いて、人体の引き寄せが不可能という予想の理由です。ふみかさんがパンツを奪われそうになった際、相当な力が働いていたことは傍目からも分かりました。その力に抗おうとすればするほど、行動の制限に繋がります。つまり限定的ながら相手の肉体を拘束できる……これは充分な脅威に値します。しかし、猿川はそれをせず、なぜかふみかさんのパンツを狙った。このことから、霊具と人体は能力の対象外と判断した次第です。ああ、決してふみかさんのパンツに価値がないという意味ではなく、もしかしたら彼の性的嗜好からふみかさんのパンツを……」

「わ、分かったから。パンツの件はもう言わないで。ていうか、すごいね竜真君。そんなことまで考えてるんだねぇ。あたし、戦略とかまるで考えてないからなぁ」

 その高い洞察力に、ふみかはただただ深い感嘆を覚えた。

「まぁ、野球をやっていると、相手の目線や癖を観察する機会が多いですからね。自然と身に着いたんです、こういう深読みといいますか」

 三人のうち、一人の能力をほぼ看破できたことは大きい。もっとも、相手も同様の感想を得ているだろう。物体パンツからボールへ。ボールから物体くるまへ。〈非公式球〉における二つのプロセスを見られてしまったからだ。

 しかし急を要する事態だったため致し方なしと、竜真はさほど深刻には捉えていなかった。そもそも剛我戦で自身が話していたように、能力を知られたところでデメリットを被らない点が〈非公式球〉の強みである。

「そして残る二人ですが、あまり確信的な情報は得ていません。まぁ、気になることと言えば……」

 突然、竜真が部屋の入口に視線を向けた。凝視したまま動かない彼のこめかみに、一筋の汗が伝う。

「竜真君、どうしたの?」

「……隠れていないで出てきたらどうですか?」

「――ああ、バレちまったか。残念」

 入口の影から庄條たちが現れた。竜真が声を投げ、一拍間を置いたのちのことだった。

 この事態は、竜真に僅かながらの動揺をもたらした。

 廃墟に逃げ込んだ際、彼は階段前に廃車を設置していた。竜真たちが上階ヘ向かい、追走を阻害するために配したと、庄條たちに誤認させるためだ。

 しかし彼らは予想していた以上の早さで、竜真たちの隠れ場所へとたどり着いた。まるで最初からここに潜んでいたと分かっていたかのように。  

 声で位置がバレた? 虫の音程度の囁き声が? 己の不手際を探るも、一触即発の状況下では思考が働かなかった。

「よぅ、嬢ちゃん。気分はどうだ。スカートの下がちょいと涼しくなったんじゃねぇか?」

 猿川が下卑た笑いを浮かべる。ふみかは顔を伏せ、答えなかった。

「おっさん。それセクハラってんだけど」

 申谷が侮蔑の眼差しを向けるが、猿川は素知らぬ様子だ。

 二人を押しのけ、庄條が前に出た。スーツをよく見ると、ところどころ消石灰で白く汚れている。

「あー、ふみかちゃん……だったかな。先ほどは大変失礼な真似をしてしまった。この不躾な男に代わり、俺が謝ろう」

 頭を下げる庄條の右背後で、申谷が呟く。

「いや、あんた。さっきグッジョブとか言って」

「お前は黙ってろっ!」

 後ろ蹴りを脛に受け、呻く申谷。庄條は襟を正す。

「さぁ、単刀直入に言おう。ひとつ交渉をしたい」

「交渉、ですか。ちなみにお聞きますが、あなたがそちらのチームのリーダーですか?」

「そうだ。改めて紹介しよう。俺は庄條規史。生前は私立探偵をやっていた身だ」

 揚々と名乗る庄條の左背後で、猿川が呟く。

「おい、庄條。年功序列に倣って、おれがリーダ」

「あんたは黙ってろっ!」

 踏みつけをつま先に受け、うずくまる猿川。庄條は襟を正す。

「さて、本題だ。現在ふみかちゃんが抱える羞恥心、俺たち野郎どもには到底計り知れないものだろう。まぁ、身悶えするその姿も可愛らしいがね」

「さっさと話を続けてもらえますか?」

「ああ、すまない。続けよう。しかし戦術の一環とはいえ、こちらも心苦しいものがある。そこでだ」

 庄條が野球ボールを差し出した。ふみかの目の色が変わる。

「ここにのボールがある。これは竜真君の能力によるものだね? 予想としては、バットで触れたものをボールに閉じ込める……といったところか」

 さしたる困惑もなくボールを呼び寄せたあの手際の良さから、彼らに〈非公式球〉の実態が割れているという竜真の予感は当たってしまった。そしてその指示をした者が、この庄條という男だと思われる。節操のない好色な伊達男と思われたその実、竜真と同じ策謀に長けた知力を有しているらしい。

「これを早急に彼女へ返したいと思うのだが……代わりに」

「代わりに?」

「彼女をこちらのチームにお迎えしたい」

「!」

 まさかの要求に、竜真たちは唖然とする。

「……えっ、えっ、何それ」

 当然ながらふみかの反応は顕著だ。事態を飲み込めないのか表情は強張り、潤んだ瞳を瞬かせている。

「どういうつもりですか?」

 竜真は彼女を隠すように立ち、庄條たちを見据える。

「なぁに、こっちは御覧の通り、野郎三人のむさいチームだ。いい加減嫌気が差してきてなぁ、そろそろ女性のプレイヤーを加えたいと思っていたんだ。そこへ君たちがやってきた。ああ、何なら、竜真君も一緒にどうだ? 歓迎しよう」

「……僕らも三人のチームを組んでいます。生憎、今は二人だけですが」

「そうなのか。それはいよいよ運が向いてきたというわけだ」

 本来より人数が少ないと聞いた庄條は、視線を斜め上に向けた思案顔で顎を撫でた。

「で、回答は?」

「そうですね。とりあえずお時間をいただくとしましょう……かっ!」

 竜真はバッグに手を伸ばし、掴み上げた一球を振り被る。庄條が目を見開いた。

「また車だぞっ!」

 叫ぶと同時に、廊下へ引き返す。残る二人も我先にと後を追う。

「アウトッ!」

 出現した廃車の直撃を受け、入口が崩落する。竜真はさらに一球を掴むと、付近の壁目がけ、投げつける。

「アウトッ!」

 中身は例にもれず廃車だ。コンクリート壁を容易く打ち砕く。轟音とともに立ち上る埃を抜け、開けた突破口へと駆ける。

「ふみかさん、こちらへっ!」

 奔走する竜真のあとに続きながら、彼女は首を傾げた。手近な窓を乗り越えていけば済むのに、なぜわざわざ壁を破壊し道を作るという手段に投じたのか、と。

 その疑問は自身の状況を俯瞰してみて解消された。

 既存の窓を乗り越える場合、縁をまたぐ際に足を持ち上げなければいけない――ふみかの状態を考慮し、竜真は壁を破壊するという選択を取ったのだ。

 あくまで憶測だが、改めて見据える彼の背中は大きく見えた。

「竜真君……」

「何ですか?」

「竜真君って……やっぱモテるよね? うん、納得だわぁ」

「どうしたんですか、いきなり?」

「いや、何でもない。えへへっ」

 剛我ももう少し見習ってほしいものだと、ぼやくふみかだった。






「――どこへ行こうと同じだってのに……ゴホッ、ゴホッ。あーもう、またスーツが汚れるじゃねぇか。オーダーメイドなんだぞっ」

 愚痴りつつ、庄條は部屋へ立ち入る。竜真たちが身を縮めていた場所に進むと、粉塵を被った成人雑誌を見つけ、拾い上げた。水着美女を目に留め、軽薄な口笛を吹く。 

 申谷が思い出したように言った。

「そうそう、猿川のおっさん。あんたの能力、バレてるぜ。霊具や体を引き寄せられないっつうことも」

「何っ! 本当かっ?」

「あの竜真って人、なかなかキレるよ。ま、オレと庄條さんの能力はまだバレちゃいねぇみたいだけど」

 申谷は、庄條に一瞥くれる。彼は天を仰いでいた。

「……あいつら、二階へ上がったな」

 その双眸に移るのは、天井ではない。

 蜻蛉の意匠が誂われたサングラスに付随する能力、〈晴眼者プライベート・アイ〉。その真髄は――遮蔽物の透視及び望遠。どれほど分厚い壁だろうと。何重もの入れ子構造の箱であろうと。その材質問わず、あらゆるを透かし見ることを可能とする。さらに物体に焦点を合わせることで、そのものを拡大して見ることもできる。〈非公式球〉のボール、その中身でさえ例外ではない。

「庄條さん、おれの〈聴律師ソナーポケット〉も忘れてもらっちゃ困るっすよ」

 申谷は、ヘッドフォンを指で叩く。〈聴律師〉の能力は衣擦れ、筋肉の収縮運動、果ては心音すら精緻に聞き取り、究極的には相手の動作、精神状態を把握することを可能とする――が、それは人体学や心理学、諸々の専門知識を理解、活用できる超人的思考を以ってしてこそ為せる業である。少なくとも現状の彼では、ただ会話や物音を仔細に聞き取るだけが精一杯であった。

「ああ、そうだな。お前と組めば情報戦において右に出る者はいない。最高のコンビだと思ってるよ」

「おいおい、オレはどうした。がっはっは」

「もちろん猿川さん、あんたにも感謝してるよ。ボールこいつが俺たちの手にある限り、ふみかちゃんはまともに動けない。そして残る……えーと、竜真君だったかな? 彼の能力も大方把握した。ただ……」

 庄條は天井を見上げ、上階にいる竜真の姿を透視する。彼が肩に提げるスポーツバッグに焦点を合わせた。

「……ボールの数は残り六球、か。まずはあれをどうにか減らさなければいけないわけだが。おや、動き出したぞ」 

 およそ一分ほど彼の行動を観察し、庄條がほくそ笑んだ。

「……なるほど。ふふっ、健気なことだな」

「何だ何だ、どうしたんだ庄條。オレにも教えろよ」

「……あー、はいはい。おれにも聴こえたよ、会話がね」

 庄條と申谷は視線を合わせる。超視覚と超聴覚。互いの力で得た情報を擦り合わせた結果をもとに、庄條は策を巡らす。

「……二人とも、よく聞け」

 彼は笑む。それは思考の結実を意味していた。


 

 



 庄條の歩みは踊り場を通過し、二階へ続く階段へと差し掛かる。その半ばで、廊下の中央に並び立つ竜真とふみかを発見した。

「逃げることはないだろう、俺たちと仲良くしようじゃないか」

 俺たち、と言いながらも庄條一人しか見受けられない。竜真は険しい表情で訊ねる。

「他の二人はどうしました?」

「うん? トイレにでも行ったんじゃないか?」

 わざとらしく首を傾げる。その所作に多少の苛立ちを覚えつつも、竜真は呼吸を整え、精神を落ち着かせる。庄條の言動のことごとくは、こちらを煽動するための罠だと分かっているからだ。

「ところで……随分と怒っているみたいだな」

「怒ってる? 当たり前でしょう、あんな姑息な手段を使われればね」

「姑息、とは?」

「最初からふみかさん狙いなら、初めに出くわした際に話を持ちかければいい。しかしあなたたちは戦闘が始まってから交渉をした。考えられる理由は一つ。戦術が通用するか試し、翻弄される僕たちを見たかったんじゃないですか?」

 戦術という言葉に若干引っ掛かりつつ、庄條はその指摘に「ほう」と声を漏らした。

「確かにその通り。我ながら見事な戦術だと思ってね、機会があればぜひ試したいと思っていたんだ」

「下劣で低俗だ」

「それを言うなら、君のは稚拙で幼稚だ」

「!」

「いじらしいことだ。君の戦略ともいえない浅はかな考えなどお見通しだよ。こっちと向かいの階段の死角に、ボールを二球ずつ配置しているね」

 庄條は拳を口に当て、笑いをこらえているようだった。

「この廃墟は老朽化が激しく、あちこち壁や天井が崩れている。その隙間にボールを捻じ込んでいるんだろ? そして俺が階段を上がりきった瞬間に、魔法を解く……そういう作戦だったのでは?」

「!」

「そして君たちは外ではなく、わざわざ二階へ上がった。俺たちが有する地の利の深奥へ踏み込む愚行に思えるが……狙いは違うんじゃないか?」

 庄條の読み通り、竜真には思惑があった。

 彼らの交渉条件は、くだんのボールを返還する代わりに、ふみかを彼らのチームへ引き入れるというものだった。

 ふみかを迎える動機についてはこの際言及しない。少なくとも、彼女の身の安全は保障されるということだ。しかし、竜真についてはその限りではない。彼にもチームの誘いはあったが、信用には値しない。一人となったところを三人で袋叩きにする算段でも練っていたのだろうか。もしくはこの戦闘を引き分けにする運びだったかもしれない。

 どちらにしろ二つ返事で了承すべき条件ではないし、決定権はふみか自身にある。そのため判断は彼女に託すべきだったのだが、竜真には懸念があった。

「(あの交渉を断った場合……奴らがどう動くか)」

 後の展開として考えられるケースは二つ。戦闘続行もしくは、相手チームの逃走。後者は、竜真が最も避けたいケースだった。

 ボールを奪われたまま逃げられてしまえば、ふみかの抱える心身的苦痛はさらに増し、憂慮に余りある。 

 そのため庄條が逃走を匂わせる言葉を発する前に、こちらが先んじて行動に移す必要があったのだ。

 外ではなく二階へ上がったのは、地の利を得る庄條たちの優位性を彼らに再確認させることで、逃走という結論へと至らせないためであった。

「竜真君っ!」

 突然ふみかが声を上げる。

 振り向くとちょうど窓を乗り越え、廊下に降り立つ人影――申谷を認めた。モッズコートを脱ぎ、軽装ないでたちだ。

「(外から上がってきた……っ!?)」

 疑問の答えはすぐに浮かんだ。このマンションの特徴である出窓を伝い、二階まで上ってきたのだろう。

 挟撃を予期し、ふみかとともに身構える。

 しかし申谷は静かに笑むと、竜真たちとは逆方向へと走り出した。背を向けるという好機を逃すまいと、竜真はとっさにバッグからボールを取り出す。

 このとき庄條への攻撃も脳裏に浮かんだが、彼では階下へ逃げ込まれる恐れがある。何より死角のボールを警戒し、無理に動かないはずだ。その点申谷ならば、まだ距離は近いため、確実に仕留めることができる。

 狙いを絞り、打つよりも初速に秀でた上手投げを放つ。

「アウトッ!」

 廊下の横幅いっぱいに広がる黒の車体。申谷が短い悲鳴を上げた瞬間。

「黒い車ぁあ、こっちにこいっ!」

 猿川の怒号に近い叫び声。見ると庄條の背後で身を縮めつつ、メガホンを構える彼の姿が。

 彼の口上を思い返し、視線を戻す。車は推進力を失い、静止したのも束の間、手前に動き始める。

 その進行方向には当然、竜真たちがいた。

「これを狙っていたのか……っ!」

「ちょ、ヤバくないっ!?」

 ふみかを背に置き、竜真はバットを差し向け――すぐに引き戻した。〈非公式球〉には彼しか知り得ないルールがいくつかあり、その一つにこうある。

 “ボール状態から解除した物体を、再度ボール化させることはできない”。

 つまり眼前に迫る車を――防ぐ術はない。

 この一瞬の判断ミスが、後退の猶予を失くす結果となる。

「……っ!」

 竜真はふみかを抱き寄せ、彼女を覆うように床へ倒れ込んだ。二人は向かい合うように密着する。

 直後、鉄塊が真上を通過した。黒い影が竜真の背を横切る。このとき、ふみかは見た。彼の体がわずかに跳ね、その顔が歪んだ瞬間を。

「来たぞっ!?」

 庄條と猿川はそそくさと階下へ逃げ込む。車は階段の出入口に突き当たり、大破した。

「竜真君、大丈夫!?」

 横たえる竜真にすがり、容体を確認するふみか。その背に刻まれた擦過傷に気づく。廃車が通過した際、外装の突端が接触したらしい。背中の布は破れ、擦り切れた皮膚の奥――赤味を帯びた光沢が鮮烈だった。

「りゅうま、くん……っ!」

 口を覆い、座り尽くすふみか。倒れ伏す竜真。それを見て哄笑する庄條。

「ははっ。どうやら上手くいったな。覚えておくがいい、竜真君。敵といえど、時には信用することも大事だと」

 死角に配されたボールに対する警戒を解いたのか、庄條は悠々と廊下へ足を運ぶ。事実、竜真は“アウト”の口上を発しなかった。いや、発せないほどに消耗していたのだ。

「カップルではないと言っていたが、ふみかちゃんを気にかけた様子ではあったからね。彼女に危害が及びそうな事態に直面すれば、身を挺して守ろうとするんじゃないかと踏んだのさ。えーと、何て言ったっけ。申谷?」

「『大丈夫です。貴方を必ず守ります』。なかなかクサい台詞だと思ったっす、ふふ」

「なかなか言えねぇやなぁ、そんなことよぉ。がっはっはっ」

「いっそのこと付き合ったらどうだ? 応援するぞ。はははははっ!」

 下劣な嘲笑に挟まれ、いよいよ憤慨したふみかは声を荒げる。

「ちょっとあんたたち、いい加減に……っ!」

「ふみ、か、さん……お願い、が……あります」

 竜真は力なく上体を起こした。

「屋上へ、運んでもらえませんか……それと」

「な、なに?」

「……諦めないでください」

「!」

「僕は、まだ諦めていません。だから、ふみかさんも……」

 その目には庄條たちへの激情、ふみかへの厚情、闘争への熱情をない交ぜにした強烈な光が未だ薄れることなく宿っていた。

「当たり前だよっ!」

「ふみかさん……っ」

 彼女は目に涙を溜め、叫んだ。

「諦めるわけないじゃん。二人で……絶ッッッ対勝とうっ!」

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