第17話 月と雲2
「アウッ――!」
最大の好機。
竜真が力強く口上を唱えかけたそのとき、剛我が動いた。右拳を急転換させ、指を開く。懐に飛び込もうとしたボールに差し向ける。
そして――掴んだ。
軋轢と破裂の混濁した音が、短く鳴る。骨が外力に耐えきれず粉砕し、歪に折れ曲がる。右腕は一瞬で変形し、裂けた皮膚から血が噴き出した。
「――ト」
竜真が最後の一音をこぼした直後、ボールは旧型の軽自動車へと変化する。投球の勢いに押されて押し戻された剛我のすぐ脇を抜け、地面に激突した。
一方、剛我は激しく体を回転させながら後方へと吹き飛び、背中から地面に叩きつけられた。大きく体を仰け反らせ、支離滅裂な唸り声を上げる。
「剛兄っ!」
「剛我っ!」
二人は同時に叫んだ。優己が金網を揺り動かしながら、入り口はないかと辺りを見渡す。
ふと隣を見ると、ふみかが屈み、下肢に力を込めていた。〈天地無用〉の効果により、高弾性が加えられた地面が大きくなだらかに沈下し始める。
ふみかの体が浮かび上がると同時に、優己の視界から消失した。見上げると彼女は、軽業師のように身を翻していた。金網を悠々と飛び越え、着地する。
「待ってて剛我ぁっ!」
「ふみかさん待って。僕も……っ」
入口を見つけるべく、金網に沿って優己は進む。
「近づくなぁああっ!」
二人の行動を止めたのは、剛我の怒号に近い叫びだった。
「これはぁ、オレ、と……こいつの、戦いだ……っ!」
不安定な呼吸。にじむ脂汗。強張らせた表情から窺える、想像を逸脱した激痛。しかし剛我は立ち上がった。
「優己ぃ、テメェが言ったんだろうがぁ……最後まで見届けるってよぅ……っ!」
「剛、兄ぃ……っ!」
五指は潰れて、それぞれが異なる方向に曲がっている。捻じれた右腕は、もはや肩からぶら下がるだけの肉塊と化していた。皮膚を突き破り、露出した骨の先端から滴る血。裂傷の隙間からぬらぬらと光る、赤味を帯びた筋肉。空気に晒されるだけで熱を帯び、意識を失ってもおかしくないほどの重傷だった。それでも剛我は立ち上がった。
敗北に対する恐怖。勝利に向けた執念。己の肉体に捧げる信仰。そして生への渇望。それらを内包する精神力こそが、今の彼を支えているのだ。
「あなたは、馬鹿だ……っ」
竜真は渇いた笑いをこぼした。
「おぅ……よく、言われる」
剛我は頬をかすかに引くつかせた。笑い返したつもりだった。
「まさか手で受け止められるとは思わなかったですよ」
「苦肉の、策だった……お前が、アウトッつう前に、何とか、しねぇとって、思ってよぅ……まぁ、おかげでぇ、ダメージはぁ、最小限にぃ……抑えられたがなぁ」
右腕の具合を見て、これが最小限の被害だと言える胆力に、竜真は息を呑まざるを得なかった。
「どうした、もう終わりか?」
竜真は視線を下げ、バッグの中を透き見する。手を伸ばそうとはしなかった。
「今度はそいつでかかってくるか?」
剛我が視線で指したのは、竜真の握るバットだった。
「いえ……これは使いません。僕にとってこれは、武器じゃないので」
竜真の表情からは、諦念の影が薄ら見えた。
「そうか。じゃあ」
残る左拳を顔の前まで持ち上げる。その目に宿る闘志には、一切の揺らぎがない。
「オレの番だ」
間合いを詰め、剛我が拳打を放つ。鋭く腹へ、重く臓腑へと食い込み、深部で衝撃が爆ぜた。
「(こん、な……っ!?)」
喧嘩の経験など皆無だった竜真にとって、その一撃は暴威と形容するほかなかった。呼吸が止まり、体は戦慄きながら沈み、膝をつく。
続けて前蹴りを食らい、地面に投げ出される。
「どうした、その程度か?」
間髪入れず、剛我が腹部を蹴り上げる。
「が、はぁあ……っ!」
「その程度かっつってんだよ。お前のっ! 覚悟ってのはぁあっ!」
激昂しながら幾度も攻撃を加える剛我の迫力に、優己たちは尻込みする。
「めっちゃブチギレてるッスねぇ。ま、あれだけのダメージ食らっちゃあね」
いつの間にか優己たちの傍らに移動した満が呟く。
しかし、優己の印象は違った。
剛我の攻撃に、怒りの感情は乗せられていない。蹴る度に体はふらつき、安定していなかった。どちらかといえば憔悴の気色が強い。
「立てぇ……立てよぉっ。かかってこいよぉ竜真ぁあっ!」
それは挑発というより、激励に近いものを感じた。まるで強引に焚きつけて、竜真の再起を促すように見える。少なくとも優己はそう受け取った。
「!」
剛我の右足が、蹴り上げた体勢で止まる。竜真が両手で抱えるように掴んだのだ。
「うおぉおおーっ!」
竜真は気力を振り絞り、右足をよじ登っていく。剛我を見上げる眼光には熱気が漲っていた。そこから獲物を襲う獣のごとき勢いで飛びかかる。負傷した右腕を巻き込み、強引に組みついた。
「ぐ、あぁあっ!?」
予想外の反撃に右腕の緊張状態が解かれ、再び激痛が高ぶる。
「フーッ、フーッ、フーッ……っ!」
今の竜真には、喉笛を食い千切らんとする獣の様相が宿っていた。
「負ける、わけにはぁ、アァ、ハァ、アァ……いかないんだぁああっ!」
「上等だぁああっ!」
決死の攻勢を捻じ伏せるべく、剛我は容赦ない打撃を叩き込む。
「ぐっ、がぅはぁ……っ!」
竜真は歯を食いしばり、懸命に耐え忍ぶ。頭上からは左の肘打ち、真下からは膝蹴りの猛攻に晒されながらも、両腕に注ぐ力と意識は一切緩めない。万力のようにひたすらきつく右腕を締め上げ続ける。
優己たちは、只々固唾を呑んで見守った。
およそ一分に満たない――しかし両者にとっては悠久に等しい時間が過ぎた。
先に力尽きたのは、竜真だった。
剛我に密着した状態から、滑るように地面へ崩れ落ちる。
まだやれる。闘争の念は未だ湧き上がっている。しかし肉体は応じようとしなかった。
倒れた際に砂が口の中に入ってしまい、力なく咽る。舌に付着した砂利をこそぎ取ろうにも、歯が戦慄く。
視界の端で、何かが動く。右腕が持ち上げられ、体が浮いた。
カナワナカッタ。
己の夢も、全力も。心の中で吐くと、不思議と楽になれた。とどめを刺されることを確信し、受容した直後、竜真の意識は消失した。
なじみ深い匂いで目覚めた。優己のほころんだ顔が目の前にあった。
「竜真さんっ!」
優己越しの低い天井に見覚えがあった。ボールのぶつかった痕や大きく開いた穴、いつからあるか分からない染みの数々。ここはグラウンドの端にある、選手控室の中だった。そして自分は、土と汗の臭いが染みついたベンチに横たわっていることに気づく。体を動かそうとすると、連打を受けた頸部と腹部が疼いた。
「ああ、まだ動かないでください」
「いや、大丈夫……」
体勢を変え、背もたれに心身を預けた。一息つくと、疑問が鎌首をもたげる。
なぜ優己がいるのか。自分は戦いに敗北し、Ⅾフェスから脱落したのではなかったのか。
「僕は……まだ生きてる、のか? どうして!?」
懇願の問いかけに対し、優己は目を泳がせ、言い淀む。その背後からふみかが現れ、彼の肩に手を置いた。
「えーと、初めましてかな? あたし、飛鳥井ふみか。よろしくね」
突然の挨拶を受け、竜真は困惑した様子だった。
「あー、さっきの話? あたしの考えだとねぇ……多分、優己君が見てたからだと思う」
「……?」
「ほら、優己君にとって、竜真君も剛我も大切な人だからさ。剛我も最後の最後で躊躇っちゃったんじゃないかな」
「優己君を気遣う余裕もあったんですね。じゃあ僕は……生かされたってことですか?」
顔を見合わせた二人は何も答えられなかった。
「一か月だぁっ!?」
不意の怒号に、ふみかが小さく悲鳴を上げる。
最前列のベンチに目をやると、剛我が満に食って掛かっていた。
「ちょっと待て。かかり過ぎだろ、何とかしろっ!」
「無茶言わないでください。いいッスか? 剛我さんの右腕は、普通なら全治半年以上の重傷なんスよ? それに後遺症を負ってもおかしくないッス」
剛我の右腕は、見慣れない黒の包帯とギブスで厳重に固定されている。
「しかし、それはあくまで普通の肉体での話。剛我さんはじめ、プレイヤーの皆さんは“借體”という仮初めの肉体が与えられているッス。霊界独自の技術で開発された人工細胞の代謝機能は半端ないッスよ?」
懇々と諭しながら、満はギブスを指さした。
「加えて、強化繊維と樹脂を混ぜた特製ギブス。使用者の霊力を増幅させて、治癒速度を飛躍的に高める代物ッス。まぁリハビリは必要ッスけど、一か月。たった一か月、絶対安静に努めれば骨や神経がつながって動かせるレベルまで回復できるんスから、もっと喜ぶべきッス」
「にしたってもうちょい何とかなんねぇのか。こんな体じゃまともに戦えねぇだろ」
「そこは同盟のメンバーに頼るしかないッスねぇ」
「ふみかじゃ頼りになんねぇよ……」
左手で頭を抱え、剛我は嘆息する。その際の呟きを聞き逃さず、立ち上がるふみか。
「ちょっと剛我、どういう……っ!」
「剛我先輩、少しお話よろしいですか?」
言葉を遮った竜真の深刻な面持ちを見て、ふみかは釈然としないまま座り直した。
「どういうつもりですか?」
冷静な声色とは裏腹に、詰問に近い圧が窺えた。
「何がだよ」
「とぼけないでください。もし立場が逆ならば、僕は躊躇いなくあなたにとどめを刺していた! 戦場でっ! 敵に情けをかけることがっ! どれだけ馬鹿げたことか分かってるんですかっ!?」
竜真は腰を上げ、正面のベンチに手をかけた。背もたれが不吉な音を立てて軋んだ。
「覚悟について話しましたよね? あなたの行為は、僕の覚悟を軽んじただけに過ぎない。侮辱に等しい。それに僕は全力で戦ったつもりだった。あなたはどうですか。手加減してたんですか?」
ベンチを乗り越えて迫りそうな勢いの竜真に対し、剛我は冷めた視線を向けた。
「お前なぁ、オレの話なんざ安く受け取ってくれりゃいいんだよ。それにこの腕見てみろ。手加減したヤロウの腕か?」
気だるげに右腕を突き出す。一瞬顔を引きつらせたのを、優己は見逃さなかった。
「このⅮフェスに参加すると決めたときから、僕は腹を括ったつもりでした。勝つためにはあらゆる手段も厭わず、負ければどんな末路も受け入れると。しかし結果はどうですか? 僕はあなたに生かされたんです。こんな惨めなことがありますか?」
竜真は俯き、右手で顔を覆った。義憤もしくは恥辱、あるいは両方か。優己から見える背中は震えていた。
「本当にクソ真面目だな、お前。じゃあ、あれか? あのままとどめを刺してほしかったってのか?」
「それも良かったかもしれません。生き恥を晒すくらいなら……っ!」
「ダメですよ竜真さんっ!」
優己は声を荒げた。全員の視線が一挙に注がれる。
「竜真さん、それって何もかも諦めるってことですよ。真大ともう一度話がしたいんでしょっ? キャッチボールしたいんでしょっ?」
「優己君……」
彼を顧みる竜真の目は充血し、潤んでいた。憧憬を抱いた人物の今にもくずおれそうな姿に、優己は胸が潰れそうな思いだった。
「剛兄と組み合ったときの竜真さんからは執念が感じられました。自分の命と、真大に対する強い想いが。僕の知ってる冷静な竜真さんとはまるで違ったけど……あれが本心だったんじゃないんですかっ!」
自身が涙声になっていることに気づく。視界も霞む。息苦しさも感じる。尚も言葉を続けた。
「僕は、二人がこうして生きてて良かったって思えるんです。だから、『生き恥を晒すくらいなら』……その先の言葉は聞きたくないです。勝手なことばっか言ってごめんなさい。でも、これが、僕の、本心でぇ……っ」
舌が震え、ろれつが回らない。
「生きなきゃダメですよ、やっぱり……っ」
精一杯の言葉を絞り出し、優己は泣きじゃくる。
ふみかは唇を噛みしめ。剛我は左拳を口に押し当て、沈黙する。
彼らと密接な関係のない満も思いつめた様子で、正面のグラウンドを見つめていた。ふと視線を上げると、あることに気づく。
泥のように重く、冷たい空気が室内に停滞していた。
「そうか……優己君の言う通りだね」
静寂を破ったのは、竜真だった。淀みのない晴れやかな声色に、優己がはっと顔を上げる。
「ありがとう、本当に。そうか……僕にはまだ、そんな言葉をかけてくれる人がいるんだね……」
未だ目は潤んでいるものの、そこには平常の穏やかな表情が戻っていた。
「……剛我先輩。折り入って相談があるのですが」
竜真は精悍な面持ちで、剛我に向き直る。そして、深々と頭を下げた。
「僕を……チームに入れてくれませんか?」
予想外の提案に、優己たちは面食らった。
「自分の浅薄さに腹が立ちます。覚悟が違うと抜かしておいて、無様に負けて……生かされたことを恥と感じ、自暴自棄に走り……迷ってしまった。でも優己君のおかげで、今一度自分の気持ちを再確認できました。僕はやっぱり、優勝したい。真大に会いたいっ!」
偽りない率直な気持ちを打ち明ける。
「ただ、今の自分はあまりにも力不足だと痛感しました。この先、生き残るにはチームを組むことが必要不可欠……だから」
「いつか敵になるかもしれねぇんだぞ。分かってんのか?」
剛我の語調は厳しかった。対して竜真は胸を張り、はっきりと答えた。
「そのときは、今回以上に死力を尽くして戦います。そして、倒します」
我ながら無茶な要求だと、竜真は自嘲した。つい一刻前まで戦い、今後も敵となるであろう者を、しかも右腕を破壊した仇を仲間に迎えてくれるだろうか?
それでも自身にとって最善の行動であると疑わなかった。
剛我は口を結んだまま、答えない。
竜真はグラウンドまで移動し、剛我の真向かいで跪いた。地面に両手をついたところで、優己が慌てて止めに入る。
「ちょっと竜真さん。何するつもりですか」
「僕の〈非公式球〉は性質上、後方支援に向いています。必ずお役に立って見せます。どうかお願いしますっ!」
頭を下げようとする竜真。必死に制止する優己。二人の様子をしばらく眺めていた剛我が口を開いた。
「だからクソ真面目だってんだよ、お前は」
左手で頬杖を突きながら睨みつける。竜真は息を呑んだ。
「固っ苦しいのは抜きだ。好きにしろよ」
直後、表情が緩んだのを見て、憑き物が落ちたかのように竜真の顔から力が抜ける。
「ということは、両者合意の下による
満が間に入り、二人の顔を交互に見やる。竜真が一瞥し頷いたのを見て、剛我も続いた。
竜真は立ち上がり、右腕を差し出しかけたのを止め、左手に切り替えた。
「よろしくお願いします。剛我先輩」
「お前な、こういうのが固っ苦しい…まぁいいや。えーアレだ、頼むわ」
同じく左手を差し出し、両者は力強く握手した。剛我はくすぐったそうに顔を逸らす。
優己は満面の笑みをこぼし、ふみかは歓声を上げる。
「やったぁっ! 良かったねぇ、優己君」
「はいっ! 本当に、良かった……」
収まるべきところに収まったと、胸を撫で下ろす。
そんな優己の様子を微笑ましく見つめると、満は夜空に目を戻す。そこには、互いに寄り添うように、雲と満月が並んでいた。
「……ん?」
不意に着信音が鳴り、優己は携帯電話を取り出す。画面には『遠山綺吏紗』と表示されていた。
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