第16話 〈非公式球〉

「あれっ、剛兄は?」

 夕食から戻った優己は、室内に剛我の姿が見当たらないことに気づく。部屋に残るふみかは、バラエティ番組に食いついていた。

「ああ……剛我だったらさっき、意気揚々とパトロールに出ていったよ」

「そうですか……」

 優己は腑に落ちなかった。

 玄関に向かうには、優己たちが食事するダイニングキッチン横の廊下を通らなければならない。優己の席は廊下が見える位置にあるため、剛我が通ったならば気づくはずである。

 つまり剛我は霊体であるプレイヤーの特性を活かし、部屋を透過して外出したと考えられる。通常とは異なる行動に疑問が残る中、ふみかの様子に目を留めた。

 体をわずかながら左右に揺らし、瞼を瞬たせる回数がやけに多い。平常の彼女は落ち着きがないが、今はそれが顕著だ。

「ふみかさんは一緒に行かなかったんですね」

「えっ? ああ、うん、そうだねぇ。ははっ、あたしはこの番組が見たくってさ。ほら、一緒に見ようよ。あと、今日はもう外に出ちゃダメだよ」

「えっ?」

「うん?」

「なんで外に出ちゃダメなんですか?」

「ああ、それはねぇ、えーと……」

 余計な言葉を滑らした口を叱責するように、唇を噛みしめるふみか。ベッドのシーツを握り、必死に言い訳を思案していることが見て取れた。

 その間に優己は瞼を閉じ、意識を霊能力へと移行させる。以前、河川敷でふみかが戦っていることを察知した際、“気配”や“熱”と形容したあの感覚を今一度呼び起こす。くだんの経験から、彼は一つの予想を立てた。その後幾度の検証を重ね、予想は確信に変わった。

 “既知したプレイヤーの霊気を感知する”。

 それが自身の霊能力の本質だったのだ。

「ふみかさん」

「あー、もう無理っ。隠し事なんてあたしらしくないっ。言っちゃうね、優己君。実は剛我は……」

「竜真さんと戦ってるんですね」

「そうなんだ……って、何で知ってるの!?」

 優己は自身の霊感知能力を、河川敷の件も含めて全て話した。

「――そうだったんだぁ。優己君のおかげで、あたしは助かったってことなんだね。でもっ!」

ふみかは立ち上がると、扉の前へと移動し、腕を組んで仁王立ちした。

「ダメだよ。剛我と約束したんだ。『オレが帰ってくるまで優己を部屋に引き留めておけ』って。どうしても行きたいっていうなら、あたしを倒してからにしてよね」

「ふみかさん……」

 彼女の意固地な性分は、付き合いで理解している。優己は大げさにため息をついて見せた。

「分かりました。僕も無理して行こうとは思いません」

「ほんと? さっすが優己君。物分かりがいいねっ」

「でも……いいんですか?」

「えっ?」

「こうしている間に、剛兄が危険な目に遭ってるかもしれませんよ」

「ご……剛我だったら、大丈夫だよ。きっと勝つって」

「それって、竜真さんが負けるってことですか?」

「いや、そういうつもりで言ったんじゃ、なくて、そのぅ」

 歯切れが悪くなると、ふみかは仁王立ちを崩し、俯いてしまった。少し意地悪だったかと反省しつつ、優己は続けた。

「ふみかさん、聞いてください。剛兄と竜真さん……この二人の戦いは、僕にとって無視できるものじゃありません。僕は行きます。ただ――」




 頭上へと放った野球ボール。次第に上昇速度を失い、落下へと移行する。

 正面に白球を捉えた刹那、竜真は顧みる。

 土と汗に塗れながら、白球を追いかけた日々。勝って笑い、負けて泣き。家に帰れば、真大とのキャッチボール。その日起きた出来事を互いに語り合う、兄弟の時間。

 そのささやかな日常は、突如降りかかった“死”により閉ざされてしまった。しかしこのⅮフェスで優勝すれば、再び“生”への扉を開き、再び歩む始めることができる。

 そのためならば、闘争の中へ身を置くことも厭わない。例え相手が弟の親友であり、自身も知己の仲である優己、その兄であっても。

 バットを振るう。小気味よい音が響く。直進する打球。その先に立つのは剛我だ。

「アウトッ!」

 竜真が叫んだ瞬間、打球に変化が起きた。球形が押し潰されたかのように歪み、明滅する。瞬く間のことだった。打球は消失した。代わりに“白煙”が展開し、剛我の正面を覆い尽くす。

「……ッ!」

 風に乗り、顔を撫でた途端、目に強い刺激が走る。地面に張り付くように体勢を低く保ち、白煙をやり過ごす。疼痛をこらえつつ薄目を凝らすと、竜真が再びボールを打ち放つのが見えた。

「アウトッ!」

 今度の打球は“黒い乗用車”へと姿を変えた。

「チッ!」

 剛我は横っ飛びで、これを回避する。車はフロントから地面に激突し、轟音を上げながら前転、大破した。グラウンドには、一様の自動車が点在していた。

「あっぶねぇな、ったく」

「意外とすばしっこいんですね。驚きましたよ」

 言葉とは裏腹に、竜真の表情は平静を保っていた。予告ホームランよろしく、バットを剛我へと差し向ける。

「僕の霊具はこのバット。有する能力は〈非公式球ストライク・オブ・メジャー〉。バットに触れた物体を、重さはそのままに野球ボールへと変化させることができます」

「なるほど。そんで、『アウト』の掛け声で元の物体に戻る、と。いいのかよ、ご丁寧に説明しちまって」

「構いませんよ。教えたところで対処しようがありませんからね」

「そりゃ言えてる」

 剛我は苦笑しつつ、目をしきりに擦った。

「にしても今の煙は何だ? 目がイテェ……」

「消石灰です。グラウンドのライン引きに使われるものですね」

「今までの車といい、いろんなところから盗んでるわけか」

「拝借、と言っていただけますか。この能力の性質上、事前に調達しなければならないので」

 竜真は心外だとばかりに、眉を顰める。剛我も同様の表情を浮かべたのにはわけがあった。

 打球がどのような物体へと立ち返るのか、直前まで相手に悟らせないのが、〈非公式球〉の強みである。物体の重さはそのままという竜真の言葉を信じるならば、ボールの状態を保ちつつ中身が自動車と仮定した場合、皮膚一枚の接触すら甚大な衝撃に見舞われることは必至だ。ボクシングの階級が体重によって細分化されるように、重量を伴う打撃がどれほどの威力を孕んでいるか、喧嘩の経験値から剛我は理解していた。

 つまりは尾上戦で見せた、硬貨を十字架で防ぐといった防御や迎撃態勢がとれないのである。ゆえに今回の戦い、完璧な回避が要求される。つくづく遠距離攻撃に不得手な自分に、剛我は嫌気が差した。

 加えて着目すべきは、打球を目標へと運ぶ正確無比のコントロール。この精度は能力と関係なく、竜真自身の技量からなるものだ。『野球が上手い』とふみかが話していたが、随分と言葉足らずだと思った。

「しゃあねぇな……」

 剛我は嘆息すると、一旦は両腕に巻き付けていた鎖を解き、元のサイズへと戻す。防御ではなく回避に専念するならば、尾上戦と違って鎖の手甲は不要と判断したのだ。

 長期戦を予期し、体の火照りを冷ますため大きく深呼吸したときだった。

「剛兄っ!」

 以前は渇望していたが、今では若干食傷気味の呼び声。視線を向けた先には、金網越しに立つ優己とふみかの姿があった。

「バカ野郎、ふみかっ。ちゃんと引き留めとけっつったろっ!」

「ひゃあ、ごめーん……っ!」

 こうべを垂れ、両手を合わせるふみか。その横で、優己はこちらをじっと見つめる。

「剛兄、竜真さん。二人が戦うなんて、そんな……っ」

 金網を揺さぶり、優己は歯噛みする。もっとも避けたかった事態が、目前で起きていることに動揺を隠せなかった。

「悪ぃな、優己。竜真こいつがひどい目に遭うの見たくなかったら、さっさと家に帰るんだな」

 この場から退かせようと、あえて悪辣な言葉をかける剛我。しかし、優己は首を横に振るだけだった。

「止めるつもりも、帰るつもりもないよ。剛兄はいつもそうだ。僕の言うことやお願い、まともに聞いてくれたことがない。ほんっと、嫌になる」

 優己は恨めしく、大仰に息を吐いた。

「でも僕が一番嫌なのは、自分が知らないうちに、二人の決着がつくことなんだ」

「優己……」

「僕はこの戦い、最後まで見届けるよ。どっちが勝っても、受け入れるつもりだから……」

 金網越しに注がれる、優己の視線。その眼光に秘めた強固な意志を読み取ると、剛我は何も言わなかった。

「いいですね」

 二人のやり取りをしばらく聴いていた竜真が呟く。視線を落とし、バットの先端で砂をいじる様子は、仲間外れにされ、ふて腐れる子どもに見えた。

「剛我先輩。僕はあなたが羨ましい。プレイヤーとなった今でも、そうして優己君と変わらず接することができて。それに比べて、僕はどうですか? 真大に向けた応援もアドバイスも届かない。何一つ与えることができない。この気持ちが、あなたに分かりますか?」

 鋭い視線とともに、再びバットを突きつける。

「僕はっ! あなたにだけは負けられないっ! 負けたくないんだっ! 半端なあなたとは覚悟が違うっ!」

 普段の穏やかな彼とかけ離れた鬼気迫る形相に、優己は戸惑った。

「そうか。まぁ、お前からしたらオレは恵まれてるんだろうな」

 おもむろに頭を掻く剛我。プレイヤーとしての特異な立ち位置を指摘されても、特に動揺する気配はない。

「だが……負けられない、か。悪ぃが、それに関しちゃ譲れねぇ。特にあいつの、優己の前じゃなぁ」

 拳から突き出した親指で、優己を指した。

「あいつは昔から争い事が嫌いでな。ましてや見知ったオレたちが戦うなんざ、絶対に避けたかったはずだ。それでもあいつはここにきた。どんな結果でも受け入れるっつってな。それも一つの覚悟だ、違うか?」

「……」

「小せぇなりだが、内に秘めるもんはオレたちと変わらねぇってことさ。覚悟の大きさも強さも、人それぞれ。とやかく言うのは野暮ってもんだ。さぁ、続けようぜ。オレを倒したきゃ全力で来い。全力で答えてやらぁっ!」

 意気軒高と構える剛我に対し、竜真は先ほどの激越でこみ上げていた熱情を排出するかのように、息を吐いた。

「……それもそうですね、分かりました」

 その表情には平静さが戻っていた。

 スポーツバッグへ伸ばしかけた手を止める。球はすでに両手で数えられる程度しか残っていなかった。

 能力自体に攻撃力を持たない上、ボールの中身となる物体の性質及び、その数に依存しなければならないのが、〈非公式球〉の難点であった。

 短い思案ののち、ある一球を引っ掴む。

「では僕の全力で、終わらせるとしましょうか」

 これまでと変わらぬモーションで、打ち出す。

「アウトッ!」

 例にもれず、精緻な軌道を描く打球。その変化は、意外な形へと帰着した。

「!」

 一つ、二つ、三つ。

 数字に疎い剛我でも、即座に数えられた。三つに増えた打球。これまでの傾向から逸する、特異な変化に目を見張ったのも束の間。

「アウトッ!」

 間髪入れず、竜真が言い放つ。三球に同時同一の変化が起きる。

「おいおいおい……っ!」

 剛我は顔色を急変させ、反身で一歩後退する。

 剥げた塗装。潰れたタイヤ。蜘蛛の巣状に割れた窓ガラス。は従来の廃車の特徴を倣っていた。圧倒的“巨躯”を除いては。

 全長十メートルを超えるタンクローリー。それらが三台連なり、剛我の目鼻先へと顕現したのだ。

 あらかじめ一台ずつ変化させたボールを並べ、一つのボールへと集約させる。二度口上を唱える必要があるが、複数の物体の一斉放出を可能とする、切り札と呼べる一打である。

 猛襲する鉄塊。鉄塊。鉄塊。

 気圧されつつも持ち直し、回避へと意識を向けたとき、剛我は深刻な事態に気づいた。

 左右の退路を、巧妙に配置された廃車によって防がれていたのだ。乗り越えて移動する猶予はない。後方へと逃げてもいずれ追いつかれ、圧潰は免れないだろう。

「(もしここまでがあいつの算段通りなら大したもんだ。それならこっちは……っ!)」

 火急的事態を前に、剛我がとった選択。それは、その場に留まることだった。屈み込み、縮小させた十字架を掌に収め、地面に押し当てる。

「(間に合え……っ!)」

 一台目が優己たちの視点の手前に落下し、剛我の姿を隠した。そこから二台、三台となだれ込む。鉄が擦れ。ぶつかり。ひしめき。潰れる。軋みの大音声が轟き、爆ぜるような衝撃が大地を揺らす。グラウンドの中央は瞬く間に、凄惨な事故現場と化した。

「……っ!?」

 ふみかは言葉を失い、立ち尽くし。優己は金網から指をこぼし、崩れ落ちた。

 ――間もなく、その悲愴は杞憂であったと悟る。

 タンクローリーの残骸の真上で、上体を反らす剛我の姿を見つけたのだ。

「能力解除……っ!」

 真下に吸い寄せられるように、体が落下を始める。タンク部分に着地するも足を滑らせ、横へ投げ出された。

「おっとっ!?」

 急迫する地面を撫でるように叩く。さらに体を丸めて転がることで、衝撃を緩和させる。父譲りの武道の技術を活かし、受け身を成功させた剛我は満足げに立ち上がった。

「跳んだ、のか? いったいどうやって……っ!?」

「十字架を介して、体重のほとんどをグラウンドに移動させた。真上しか逃げ場がなかったんでな。結構な賭けだったんだが……なんとか成功したみたいだ」

「いまいち読めない能力ですね。僕は正直に話したんだ。公平に説明願いたいものですが?」

「テメェ、頭いいんだろ? 自分で考えろっ!」

 要求を突っぱねると、巨大化させた十字架を左手に備え、歩を進める。

「行くぞ、竜真ぁあっ!」

 進撃を開始する剛我。

 ここからは慎重かつ、より確実な打球が求められる。竜真はそう自身に銘じ、グリップの握りを強めた。

 一球目。消石灰による白煙。二の轍を踏むまいと剛我は大きく左回りに動き、回避する。

 二球目。白のニトントラック。幸い車体は横向きで、荷台部分が下になった状態で変化したため、低姿勢をとってこれを突破する。

 三球目。建築資材用のH型鉄骨。長大ゆえか変化直後に、一端が地面に接触。激しく跳ね上がり、不規則な軌道を描く。少し躊躇いつつも、再び左回りの移動を敢行する。しかし脇を抜ける間際、わずかに十字架が触れてしまった。

「ぐぉッ!?」

 弾かれるように左腕が躍動、次いで体が後方へと引っ張られる。背中から倒れ、接触時の衝撃が伝播したらしい左腕を押さえて悶絶する。

 この隙を逃すまいと、竜真は残る球を吟味するべく視線を下げたとき。

「まだ、だ……っ!」

 剛我はすでに起立していた。

 十字架を一瞥する。口惜しくも鉄骨の下敷きとなっており、拾うのは諦めざるを得なかった。

「まだだぁああーっ!」

 両腕を振り上げて激昂すると、無手のまま猛進を始める。

 このとき、竜真はそら寒いものを覚えた。

 それを意識することから逃れるように、手当たり次第に打ち放つ。これが試合ならば快打長打のワンマン打線となるのだが、いずれも剛我への有効打には至らない。颯爽と身を翻しながら、次々と避けられていく。

「剛我さん、あなたという人は、本当に……っ!」

 もはや額の汗を拭う暇すらなかった。

 一度動き始めたら止まることのない不屈の塊。何者も顧みず、何事にも縛られず。己の踏みしめる足跡こそを道とし、突き進む。

 竜真は見た。その鋭い眼に秘めた、死を恐れぬ魂を。

 かつて尾上がそうであったように、剛我の姿に獰猛な獣の様相を重ねた。

「いっけーっ、剛我―っ!」

 ふみかが声を張り上げて応援する一方、優己の面持ちは明るくなかった。

 多くの人は、剛我に対して畏怖や力強い印象を抱く。しかしそれはあくまで外面からの判断に過ぎない。

 彼にだって“恐れ”はある。闇夜の先、もしくは濁水の底。生物が本能的に抱く、果ての見えない、未だ知り得ないものへの恐怖。

 いや、知り得たからこそ抱く恐怖もある。

 死。抗えぬ終焉。父の死。愛する女性の死。そして、自身の死。その先には、何もなかった。

「剛兄……っ!」

 優己は見た。その大きな背に隠した、死を恐れる心を。

 だからこそ彼はたけり、ひた走るのだ。自身を脆弱へたらしこまんとする影を振り切るかの如く。

「!」

 スポーツバッグに手を突っ込んだ直後、竜真ははたと動きを止めた。間を置き、中身を掻きまわす素振りを見せる。

 好機と踏んだ剛我は、速力を上げた。ついに拳が届く距離にまで接近する。

「ウォオオーッ!」

 地面を踏み込み。

 上体を捻る。

 渾身の勢威を以って。

 右拳を突き出す。

 手慣れた挙動。

 勝利への確信は揺るがなかった――拳の延長線上に、“それ”を認めるまでは。

 脳裏から取り除いたはずの懸念。それが実体を伴い、竜真と拳の狭間に浮かんでいた。

 ――白球。

 すんでのところで竜真がバッグから取り出し、そのまま下手で放ったのだ。直前まで膠着していたのは、球が尽きたと剛我に見誤らせ、ギリギリまで引きつけるためだった。

「……っ!」

 もはや右腕は完全に伸び切り、前傾体勢から引き返すこともままならない。

「(中身は軽自動車……回避は不可能……これで終わりだっ!)」

 竜真は勝利への口上を叫ぶべく、開口する。

「アウッ――!」

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