第14話 浮雲

「そしたら真大のやつ、『おれ絶対イケますっ! 代打やらせてくださいっ!』って監督に詰め寄るんですよ。そしたら一年生でここまで自分を売り込むやつなんて中々いないって、監督が許可したんです」

「あいつは昔から自信家なところがあるからね」

「で、結果はデッドボールだったんですけど。本人は塁に出れたことが嬉しかったらしくて『やったーっ!』って万歳しながら叫んでましたね」

「はははっ!」

 優己と竜真は顔を見合わせて、笑った。竜真が護衛を買って出てくれた帰路、真大に倣って優己が会話の盛り上げ役を努めた。

「ああ、すいません。僕ばっかりしゃべっちゃって」

「いいよ。こうして誰かと話ができるだけで嬉しいんだ。いつも真大と仲良くしてくれてありがとう」

「いやぁ、どっちかっていうと、真大のほうが僕と仲良くしてくれてると思います。僕がいじめられてたときも、真っ先に気にかけてくれて」

「いじめ、られてた?」

 自身に向けられた竜真の視線。そこに憐憫の情を察すると、優己は大げさに首を横に振った。

「ああ、今はもう大丈夫ですよ。何の心配もいりませんっ」

 同情、施しの類は受けない。優己が掲げる信条の一つだ。卑小な自身を最認識してしまうから。己の脆弱さを憐れむ権利は、自身にしかない。

「それならいいけど……そうか、あいつがね」

「なんか正義感というか責任感ってやつが強いんですよね、真大」

「確かにね。名前の通り、真っすぐ大きく――しっかり成長しているみたいで良かった」

 目を細める竜真だが、傍らを歩く優己の表情は晴れない。

「……今でこそ元気ですけど、竜真さんが亡くなったときの真大は、正直見ていられなかったですよ」

 ふみかとの会話の際に同様の話題が出たが、残された者の悲嘆に暮れる姿は痛ましい。互いに兄を失くした共通項からか、二人は心を通わせられたのかもしれない。

「真大には悪いことをしたよ。あいつの兄として恥じない生き方を心掛けてきたつもりだったけど、まさかあっけなく命を落とすことになるなんて。人生ってのは分からないな」

 歩道橋階段からの転落死。

 将来を有望されていた巧打者の訃報に、優己を含め哀絶を尽くす者は多かった。特に真大は数日間学校を休むほど、相当な憔悴ぶりが窺えた。

 しかし、ある日を境に登校し、何食わぬ顔で野球の練習に邁進する姿に周囲は戸惑った。気を揉む優己の心情を察し、彼は言った。

『しみったれたもんは打球に全部ぶち込んで終了っ!』

 それ以降、よりひたむきに野球への情熱を燃やすようになる。壮絶な悲しみに呑まれることも飲み込むこともなく、受け入れた上で自身の糧とする。逆境から、自力で起き上がれるだけの強い精神を持っているということだ。

 大器を感じさせる真大の気質に、改めて優己は感嘆させられた。

 竜真は肩に提げていたスポーツバッグから、木製のバットを取り出した。

「このバットはね、真大がプレゼントしてくれたものなんだ。大手メーカーのプロモデルで、けっこう値段が張ったらしいんだけど奮発したみたいで」

 表面を指でなぞる。細かい傷や汚れが窺えるものの、木目が詰まり、ささくれ一つない滑らかな状態が保たれている。

「グリップを握ると、一気に体と心が引き締まるんだ。真大の気持ちがこもっているからね。でも、まさかこれを試合以外の用途で使うことになるとは……」

「そのバットが、竜真さんの霊具なんですか?」

「うん。もちろん、これで直接殴るような野蛮な真似はしないけど。そうそう、優己君のことは、隠人から聞いたんだ。『彼は一般人だから、決して危害を加えてはいけない』ってね。名前を聞いて驚いたよ。今まで大変じゃなかった? 他のプレイヤーから襲われたことはない?」

「はい、今のところはないですね。もしあっても、ごぅ……っ」

「ごう?」

「ごぅ……豪快にぶっ飛ばしてやりますよ」

「ぶっ飛ばすのっ!? 優己君がっ!?」

「これでも武道家の息子ですからね、ははっ」

 危うく“剛兄”と口走るところを、優己は強引ながらに立て直した。剛我がプレイヤーだと知られるのは避けるべきと判断したのだ。

 生前、二人に面識があることは知っている。母に買い物を頼まれ、二人で帰る道中、偶然にも竜真と鉢合わせたことがあった。優己が互いを紹介したのだが、睨みを利かせる剛我に対し、竜真は終始穏やかな笑みを崩さず対応した。別れたあと、剛我が『いけすかねぇやつ』とこぼしていたのを覚えている。

 二人を接触させるのは危険だと、優己は確信した。竜真はともかく、剛我は誰が相手だろうと、食って掛かることだろう。

 自宅に到着した。

「ありがとうございます。家まで送ってくれて」

「いいよ。僕も楽しかったから」

「それじゃ、また」

 優己が背を向けかけたとき。

「ああ、そうだ。一つ訊いていいかい?」

 突然、竜真が訊ねた。優己は振り返る。

「君は……お兄さんについて、どう思う?」

「え……っ」

 答えかねる優己を優しく見つめ、竜真は続けた。

「いや、深い意味はないんだ。君にとってお兄さんはどんな存在だったんだろうなって。ほら、僕はもう真大に訊ねる機会がないし。同じ弟としての君の意見が聞けたらなって思ったんだ」

 竜真は変わらず、柔和な笑みを浮かべている。半分は本心、もう半分は嘘だ。優己は直感した。根拠はない。ただ、嘘には本音で返すべきだと決めていた。

 優己は天上に目を向ける。

「剛兄は……“雲”のような人でした」

「雲?」

「はい。雲って、一つの場所に留まらないでしょ? 剛兄って、いつも街中をフラフラしてて、なかなか家に帰らないことが多かったんです。戻ってきたと思えば、ボロボロの痣だらけで」

「惡童、なんて呼ばれてたっけ」

「はい。それに入道雲みたいに体が大きいし、少しでも気に障ることがあれば、雷ばりの怒号が飛んできました」

「ははっ、けっこう難しい人なんだね」

「そうですね。表情があまり変わらないんで、感情を読み取るのも一苦労です。雲も形一つで名前や意味もいろいろ変わるみたいですけど、素人目には分からないじゃないですか。それと同じで、本当に似てるなぁって」

 雲は気まぐれな性分だ。人間の営みに寄り添い、弊害を与えることもあれば、恩恵も然り。

「他にも、痛いくらいの土砂降りを降らせたかと思えば、刺すように強い日差しから身を挺して守ってくれたり。そして――ある日突然、どこを見渡してもいなくなってたり」

「……」

「雲一つない空は快晴って言いますけど、僕はあまり好きじゃないです。だって寂しいじゃないですか」

 虚空はもう見飽きた、と優己は寂寞を湛えた表情を浮かべる。と思えば、どっと笑い始めた。

「どうしたの?」

「何だか子どもじみた発想だなぁと、今更ながら思っちゃって」

 優己はふと、黙った。服の胸元辺りを掴み、何やら思案を巡らせた様子だった。それから一呼吸おいて、話し始める。

「――ずっと気難しい人だと思ってました。短気でガサツで我がままで暴力的で、ちょっと怖い。それは正直、変わりません。でも、最近分かったんです。意外に物事を考えてたり、子どもみたいに笑ったり意地張ったり、大切な人のためなら一生懸命になれたり。知れば知るほど、剛兄っていう人間の輪郭がはっきりしてきたんです。そして気づきました。今までの負の要素が、全部弱さや不安の裏返しだったんじゃないかなって。ネガティブな部分は、誰だって持ってます。剛兄だって、特別な人じゃない。喧嘩の強さも、人間の強さにつながるとは限らないし。普通の、等身大の人間なんだって分かりました」

「普通の……か」

「面と向かって話すことはまだ少ないけど、もっと剛兄のこと知りたいなって思うようになりました。こんな状況じゃないと、絶対に分からないことだったと思うとやるせないですけど」

 やけに饒舌な自分に気づき、今度はふっと笑った。

「何だか僕、剛兄に興味津々みたいです」

「そう……それは良かった」

 竜真は満足げに微笑んだ。右手を上げて、踵を返す。

「ありがとう、それじゃ行くよ。これからも真大と仲良くしてくれ」

「もちろんですよ」

 竜真の背中を見送り、ほっと息をついた。彼と対峙して、初めて味わった緊張だった。

 気づいてしまったのだ。

 竜真は、剛我がプレイヤーだと知っていることを。だからこそあの質問をして、自分がどう答えるのかを試したのだ。といってもそれは副次的なもので、本心は先に述べた通りなのだろう。

 隠人から聞いたのかもしれない。どうであれ、生前の剛我についてのみ答えればよかったのだが、そうはできなかった。

 惡童と揶揄され、避けられてきた彼の本当の人となりを、誰より近くで見てきた自身の言葉で誰かに知ってほしかったのだ。その思いで、優己は真正面から、真正直に答えた。

 しかしよくよく思い返すと、浅はかな行為だったのではないかと後悔が押し寄せる。

 玄関扉がやけに重かった。

「ただいま……」

「あら、おかえり。もうすぐご飯できるから」

 廊下の左側のキッチンから母が顔だけ伸ばし、すぐに引っ込んだ。

「分かった……」

 不安を募らせたまま階段を上がる。足取りが鈍い。戦いに参加しない身にも関わらず、なぜ心労がかかるのか。

 難儀な性分だと自嘲しつつ、自室のドアノブに手をかけたときだった。

「剛我……ちょっと怖いかも」

「お前から誘っておいて、今更止めるなんて言うなよ。心配すんな。いくぞ……」

「あ……っ、待って痛いっ」

「我慢しろ……」

 室内から、剛我とふみかのよからぬ会話が漏れていた。

 一瞬、脳裏に二人の痴態がよぎり、慌てて振り払った。新たな不安を膨らましつつ、恐る恐るドアを開ける。目の前に飛び込んできた光景に思考が停止した。

 ベッドの上で、剛我とふみかが体を重ね合わせていたのだ。

「イタタタタタタタタッ!」

「どうだ? バカにできねぇもんだろっ?」

 もっとも、不埒な行為に及んでいるわけではない。正確には、剛我の両足の下敷きになる形で、ふみかが腕ひしぎ十字固めを極められていたのだ。

「な、何やってんの剛兄っ!?」

「こいつに格闘技を教えてやってんだよ」

「ハ、ナ、シ、テ~ッ!」

 顔を紅潮させ、ふみかが両足をバタつかせている。一方で、剛我は淡々と説明を続ける。

「分かったか? 相手の腕とって、両足で挟んで、体に密着させて、一気に反らす。完全に極まれば、体格差があっても脱出はまず無理だ」

「分かった、分かったから……っ」

「腕ひしぎ十字固めといやぁ、関節技の代名詞。要領覚えりゃ、意外と簡単に極まるんだぞ」

「きまってるぅ、きまってるぅ……っ」

「無茶な戦いはしたくねぇわ、相手からギブアップ言わせたいわとかわがまま抜かすから、オレが身を以っていろんな技教えてやってんだ。感謝しろよ」

「ありがとぅ、ありがとぅ……だから放して~っ!」

「しゃあねぇなぁ」

 ようやく解放され、息をつくふみか。目に涙を溜め、極められた腕を労わるようにさする。

「イタタタ……確かにこれやられたらギブアップしちゃうねぇ」

「だろ? さぁ、今日の指導は終わり」

「ちょっと待って」

 ベッドから腰を上げかけた剛我を、ふみかが呼び止める。

「あたしが実際に技かけないと意味ないよね?」

「……」

「意味ないよね?」

「……それは」

「イミないよねぇ?」

「お前は本番に強いタイプだから、大丈夫だろ」

「じゃあ今から本番ってことで」

 直後ふみかが、剛我に飛びかかった。それを避け、机に上がる剛我。間髪入れず、ふみかがハイキックを仕掛けるも、再び回避。着地し、床を這いつつ機敏に動く。その表情はいつになく引きつっていた。

「優己君、そいつ捕まえてっ!」

「優己、そいつ押さえろっ!」

 自身を中心に駆け回る二人のいたちごっこに、優己は辟易しつつ声を上げる。

「イチャイチャするなぁ、二人ともっ!」

「してねぇよっ!」

「してないよっ!」

 優己が間に入ったこともあり、事態はようやく沈静化した。未だぎくしゃくする二人をベッドに落ち着かせる。

「一日一回はケンカしてるよね。いい加減、なだめるこっちの気持ちも考えてよ。そもそも、ここ僕の部屋なんだけど」

「んなこと言ったって、しゃあないもんなぁ」

「別にずっと口ゲンカしてるわけじゃないしねぇ? あっ、そうだ聞いて聞いて。今日は二回も戦ったんだよ。もちろん、大勝利っ!」

 ふみかは両手でVサインを作り、自慢げに見せつける。

「どいつもこいつも歯ごたえがなさ過ぎてあくびが出るぜ」

「あたしたちコンビに敵なしって感じ?」

「お前、周りウロチョロしてただけで、何もしてねぇじゃねぇか」

「違うよっ。あたしは様子見ようとしてんのにさ、剛我がいきなり叫びながら突っ込んじゃうんだよ。そんでそのまま力押し。あたしに出番くれないの。ひどくない、優己君っ!?」

「はははっ……」

 剛我が憎まれ口を叩けば、売り言葉に買い言葉とばかりにふみかが対抗する。しばしば過熱することもあるが、決して危うさはない。ある種の信頼が成立している証ではある。

 二人はプレイヤーとなって初めて出会ったときも戦闘とはならず、すぐに同盟を組んだらしい。

 ただ、それはもともと二人が気の置けない幼馴染という関係だったからで、初対面の相手ならばそうはいかない。特に剛我のように血の気の多いプレイヤーならば、対話が叶うかどうか怪しいところだろう。

 では、もし剛我と竜真が相対した場合、どうなるか。剛我は勇んで挑むだろうが、対する竜真は、優己の知る限り血気盛んな性分ではない。

 無論、剛我には今後も勝ち残ってほしい。しかし竜真にも同様の期待を抱いてしまう。もし、戦いが避けられないのならば、自分はどのような立場であるべきだろうか。

 優己は意を決し、話を切り出した。

「ねぇ、剛兄」

「何だよ」

「僕の友達にさ、秦野真大っていう子がいるんだ。その真大の兄が、竜真さんっていうんだけど……」

「あーっ、知ってる。野球部の子でしょ?」

 先に食いついたのはふみかだった。

「すっごい野球が上手いんだって。剛我知ってる?」

「そら、野球部なんだからそれなりにうめぇだろうよ」

「そうじゃなくてー。まぁ、あたしも友達から聞いただけだから詳しくは知らないんだけどね。えーと、打球コントロール? っていうのがとにかくすごかったらしいよ。ねぇ、ピッチャーが投げるボールのコントロールとどう違うの?」

「知るか」

「もういい。しかも学年別テストで総合一位の秀才だとか、ファンクラブできるくらいかっこいいとか、とにかくうちの学校じゃ一番の有名人なんだって」

「お前普通に詳しいじゃねぇか。ふざけんな」

「あれぇ、何? 嫉妬? もー優己君、剛我の前で完璧イケメンの話したらかわいそうだよ」

「どういう意味だコラ?」

 ふみかの言うとおり、竜真が類まれな野球の才能と端正な容姿を兼ね備えた寵児として有名だったことは確かだ。もっとも、彼自身は周囲から持て囃されることを嫌っていたが。

「で、そいつがどうしたんだ?」

「えっと、その……」

 ここで剛我の顔色を窺ったが、仏頂面にいつもと差異はない。右手の指同士をしきりに擦り合わせている。

「亡くなったんだ。竜真さんも……二年前に。それで今日、偶然会ったんだ。プレイヤーになってた」

「……あ」

 ふみかは優己が言わんとしていることが理解できたらしく、二人の顔を交互に見やる。

 剛我の眉根はかすかに上がっていた。

「続けろ」

「ああ、うん。友達のお兄さんで、昔からよく知ってる人だし……今日だって、野球の試合でアドバイスしてもらったおかげで、ヒットを打てたんだ。本当に優しくて、でも自分に対してはストイックな人で」

「何が言いたいんだ?」

「要するにさ。もし、竜真さんに会っても……戦わないでほしいんだ」

 一見、不変に思える剛我の表情。しかし、長年寄り添ってきた優己はその機微を感じ取るも、話を続けた。

「剛兄には優勝して生き返ってほしい。もちろんふみかさんだって。でも、竜真さんにも、同じように思っちゃうんだ。みんな、僕にとっては大事な人だから……これって、わがままかな?」

 今の心情を精一杯の言葉で紡ぎ、吐露した。

 ふみかは身を乗り出し、柔かな口調で語りかける。

「そうなんだぁ。優己君がそこまでいうならさ、あたしは全然大丈夫だよ。そうだ、なんだったら同盟に誘っちゃえば」

「あめぇんじゃねぇのか?」

 剛我は呟いた。その声色は冷たかった。


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