第三章

第13話 僕の周りに

 最後の洗濯物をかごに取り込んだ。不意に腰が痛み、のけ反りながら背筋を伸ばす。ほどなく痛みが引いたところで、縁側へ腰を落ち着かせ、一息つく。

 十文字兄弟の母、優菜ゆうなは結い上げていた髪を下ろし、髪留めを手首に通した。優己が先日プレゼントしてくれたハンドクリームの賜物か、水仕事で忙しい手の潤いはしっかりと保たれていた。

 手の甲を撫でながら、最近の優己の様子を振り返ってみる。

 剛我が亡くなってからというもの、表情も暗く、塞ぎ込む姿が目立っていた。衣服を汚して帰宅することも少なくなく、自分からは打ち明けてこないが、学校生活で何かしら悩みを抱えているであろうことは少なからず察した。パートや貸し道場の経営で中々コミュニケーションをとってやることが難しく、食事時にこちらが話しかけても力のない返事ばかり。

 もし夫が健在ならばどんな言葉をかけ、彼に接してくれるだろうか。そんな幻想を抱いては、頭から追い出した。今は自分ができることを模索しなければならない。

 そんな気を揉む日々が続いていたが、あるときを境に随分と明るさを取り戻し、笑顔も増えた。親としては喜ばしいが、同時に心配事も増えた。部屋の前を通り過ぎるとき、明らかに独り言とは違う、誰かと話しているような声が聞こえるのだ。無論、優己一人の声しか聞こえない。おそらく友人と電話やチャットに興じているのだろうと自分を納得させている。

 友人といえば、幼馴染の真大に誘われ、とあるクラブに入部したらしい。その話を聞いたとき、彼女は気が気ではなかった。果たして非力な彼に務まるのだろうかと。

「優己、大丈夫かしら」

 

 


 優己は吐き気をこらえ、霞目を瞬いていた。顔は土気色をし、鼻息は荒く、大玉の汗も目立つ。端的に言えば大丈夫ではなかった。

 彼は高校の野球グラウンド、ネクストバッターズサークルに立っていた。

 仮入部期間も差し迫る中、未だ優己はクラブの選択を決めかねていた。入部は強制ではないため、いわゆる帰宅部として日々邁進するのも悪くないと思案しかけた頃。

「優己、野球部こいよっ!」

 すでに野球部入部を決め、練習試合にまで参加していた同級生、秦野真大はたのまさひろの勧誘を受けた。

 文化系ならともかく運動部、しかも厳格そうな野球部など論外だと、優己は当初断る姿勢を見せる。しかし真大は譲らなかった。

 以前、“おんぶ”を巡るふみかとの問答の結果から分かる通り、優己は押しに弱い傾向があった。今回の状況を見ても、やはり真大の勧誘に負けてしまったのだ。

 今回の対戦相手は、大会上位常連の強豪校だ。練習試合ではあるが、公式では負け越しているためにチームの士気は並々ならぬ勢いだった。

 九回裏、ツーアウト二三塁。

 前打者は巧打に定評のある選手で、出塁においては心配ない。問題は、全打席三振の優己である。

 ここまでまったくいいとこなしの自分が、よりにもよってこの土壇場に駆り出されるという悲劇。安易に誘いに乗った自分の短慮と不運を嘆くほかなかった。

 ふと頭上を仰ぎ見る。

 自身の拍動とは対極的な、緩慢たる速度で浮雲が流れていく。

 もっと晴れ晴れとした気持ちで眺めていたかった、と胸中で呟いた。すると、いよいよ緊張がピークに達したのか、胃から得体の知れない塊が込み上げかけたときだった。 

「優己君」

 突如、背後から肩を掴まれる。体を竦める優己の耳元で、何者かが囁く。

「どうか落ち着いて聴いてほしい。今からできる限りのアドバイスをさせてもらう。いいかい?」

 優己は小さく頷いた。優しく語りかけてくる声に、聞き覚えがあった。

「まず心がけてほしいのは、ボールを最後までしっかり見ることだ。フォームは……だいぶ肩が上がってるね、下げようか。あまり力まないほうがいい」

「は、はぃ……」

 懇々と諭す口調はやわらかく、優己の緊張は自然と解けていった。声に促されるまま、フォームを調整させていく。

「バットは短く、体の近くで当てる感じで。今までの様子を見る限り、優己君は振るタイミングが少し遅いから、気持ち早めに振るといい。いつでもバットを振れる体勢を保つことも忘れずに」

 その後も軸足の踏み込み、スイングタイミングの取り方などの簡潔かつ的確な指示を受け続けた。

「これまでの優己君の結果から、相手チームの守備意識はかなり甘くなっている。勝利への布石は整っているよ。さぁ、頑張ってっ!」

 背中を軽く押され、優己はバッターボックスへ向かった。前打者はヒットで出塁し、三塁の選手が戻り、一点を獲得した。

「優己―、力抜けーっ!」

「リラックスリラックスーっ!」

「打たねぇとどうなるか分かってんだろうなぁーっ!」

「ボール代わりにすっぞバカヤローッ!」

 激励と脅迫の入り混じった声援を背に受け、バッターボックスに立つ。

 先ほどのアドバイスを幾度も反芻しながら、フォームを整える。

 ピッチャーが振り被り、軽い所作で投げた。投球はストレート。過度に力まず、ボールの行方に注視する。享受されたタイミングに至り、バットを振るった。

 バットの正中線に、ボールがぶつかる感覚を捉える。

 打球は左中間を走り、思いがけない展開にショートの反応は遅れた。

 優己は心の内で歓喜しつつ、無我夢中で塁へと疾走する――。

 試合結果は八対七の逆転勝利に終わった。チームメイトが優己を胴上げし、まるで日本シリーズ優勝を決めたかのような歓声が轟いた――。




「いやぁ、最終打席、カンッペキなタイミングだったよ。バットの真芯で捉えたときの感覚、忘れちゃダメだぞ」

「うん。何かこう、気持ちよかったね」

「いいなぁ、最後においしいとこ持ってっちゃってさ。おれなんかいいとこなしだぜ」

「まぁね。真大も頑張んなよ」

「ハハッ。お前ぇ、言うようになったな」

 帰路。試合の興奮冷めやらぬ様子の二人、特に優己は珍しく饒舌だ。試合後の疲労を感じさせない、足取りの軽さだった。

「ねぇ、真大」

「うん」

「野球って、楽しいね」

「な? 野球部に入って良かったろ。おれも負けてられねぇなぁ。もっと練習して、兄貴にいいところ見せないと」

 真大は空を見上げた。細めた目には鳥も、夕日も、グラデーションを帯びたひつじ雲も映っていない。

「でもなぁ……やっぱ遠いよ、兄貴の背中。兄貴の練習メニュー頑張ってんだけどさ、全然ノルマこなせないんだ」

「……竜真りゅうまさん、自分に厳しい人だったからね」

 真大の兄、竜真の話題に及んだ途端、二人の歩幅が心なしか狭くなった。

「ああ、そうだ、優己。前から思ってたんだけど、最近明るくなったよな。間田たちも絡んでこなくなったみたいだし。何かあったのか?」

「うん……まぁね。人に恵まれてきたっていうか。いや、もともとそうだったのかもしれないね」

 優己は曖昧な微笑みで返した。

 いじめられていた当時は心身ともに追いつめられ、周りが見えていなかった。しかし今は違う。目の前には、試合での優己の活躍を自分事のように喜んでくれる友人がいる。家に帰れば、厳しさと愛情で包んでくれる母がいる。

 さらに、もう会うことがないと諦めていた二人の人物。一人は、底抜けの明るさで照らしてくれるふみか。そして、もう一人は――。

「……ふふっ」

「どうかした?」

「ううん。何だか、僕の周りに……」

「うん」

「騒がしい人が増えてきたなぁって」

「おい、どういう意味だよそれ」

 真大が首を傾げる横で、優己はほくそ笑んだ。




 ほどなくして真大の自宅前に到着した。

「じゃあな、優己。今度の試合も頼むぜっ!」

「うん」

 帰宅する真大の背中を門前で見送る。急に辺りが静かに感じられた。

 優己は、門柱の影に佇む人物に声を投げた。

「今日の試合での真大、どうでした?」

「相変わらず盗塁の所作には感服した。ただ、二回裏での凡打は痛かった。フォームが緩んで、バットに力が伝わっていなかったんだ。何より、八回表の送球ミスで点を奪われなければ、最終回で優己君にプレッシャーがかかることはなかっただろうね。僕がスカウトマンなら、目もくれない」

「厳しいですね」

「あいつは経験者だ。本当は直接言ってやりたいところだけど」

 優己の前に立つ青年は、強い語調とは裏腹に微笑んだ。

 黒のアンダーシャツの上にポロシャツを着用し、ユニフォームパンツには土汚れが目立つ。足元には黒のスポーツバッグ。

 目尻の下がった瞳。左目の下には泣きぼくろが見られる。耳にかかる程度の黒髪と、柔かで清涼な顔立ち。

 彼を前にすると、優己は不思議な安心感に満たされた。

「さっきの試合、竜真さんのアドバイスのおかげで勝てました。ありがとうございます」

「何を言うんだ。あれはまぎれもなく君の実力さ。さっき真大が言っていたように、自信を持っていいんだよ」

 青年の名は秦野竜真はたのりゅうま。真大の兄にして彼もまた、プレイヤーの一人だった。




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