第12話 彼(か)の愛は藍より青し

「いい顔だぁ、いいよぅ、そのままそのまま……」

 ここまで表情に乏しい比嘉だったが、今は満面と呼べる笑顔を浮かべていた。興奮で息を弾ませながらも、紙上で走らせる鉛筆捌きには迷いがない。

 膝を屈し、彼の前に右拳を差し出す巨人。その掌中に、ふみかの姿があった。体力を消耗したのか、抵抗する気配を見せない。巨人が力加減を強めれば、彼女の五体は瞬時に歪な肉塊と化すことだろう。

「うぅ……っ」

「その顔、その顔……いいよ、いいよぅ」

 ふみかの苦悶に満ちた表情を観察するたび、紙面に彼女のデッサンが描写されていく。もっとも、写実性に乏しい作風の例にもれず、一切の曲線を持たない攻撃的なデザインに仕上がってはいるが。

 常人には理解できない比嘉の芸術的感性は、もはや本人にも抑えることは叶わない。

「苦痛悲哀恐怖憎悪……今君はあらゆる感情に支配されていることだろう人間は感情の生物だしかもそれを表情で的確に表すことができる複雑な感情の仔細を微妙な表情筋の動かし具合で表すことができるさらにそれを他者でありながらも判断できるこれがどれほど凄いことか君に分かるかいねぇ分かるかい人間の表情はキャンバスだボクの使っているのはスケッチブックだけどもね感情という心象的かつ抽象的な非実在の存在を抽出し己の感覚に基づき表現するそれが芸術それがボクの才能ボクの使命ボクの人生ボクのボクのボクのボクのふふふっふふふっふふふっふふふっ、ふふ……っ?」

 順調に走らせていた鉛筆の動きが止まった。背後に迫る獣の吐息を感じ取る。

「オラァアッ!」

 剛我が十字架で殴りつけるより先に、比嘉は巨人に摘み上げられた。主を右肩に乗せると、巨人は直立する。その全長を間近にしてなお、剛我の闘争心は一層奮い立つ。

「邪魔しないでほしいなぁ、ボクの芸術鑑賞をさぁ~」

「芸術だぁ? バカ言ってねぇで、さっさとふみか放せコラァッ!」

「ふみかさぁんっ!」

 遅れて優己も駆けつけてきた。兄弟の姿を確認したふみかは目に涙をため、呟いた。

「二人とも、来てくれたんだね……」

 剛我は巨人の右足目がけ、渾身の力で十字架を横薙ぎに振るう。しかし右足は急激に厚みを失くすと、紙のように薄く変化した。風圧を受けてはためき、十字架は空振った。

「なにっ!?」

「元は“紙”だからねぇ。ボクの意思で自由自在なのさ」

 右足は瞬く間に膨らみ、もとの形へと立ち戻る。

「さっさと踏み潰しちゃってよ、ほらほらぁっ!」

『ヴボォオオゥオオゥッ!』

 足元を動き回る剛我を仕留めんと、巨人は激しく地面を踏み鳴らす。

「クソがぁ……っ!」

 回避に必死で、反撃へと転じる隙が無い。剛我は、自身が地団太を踏みたい思いだった。

「さぁて、ちょっと揺れが激しいけど、芸術鑑賞の続きをしようか」

 ふみかは力なく項垂れ、一切の物音を発しなくなっていた。そんな彼女を再び観察するべく、自身のもとへ近づかせる。

「見せてくれぇ、堕ちた天使の悲惨な……うおぉあっ!?」

 ふみかは顔を上げたと同時に、比嘉に向け、唾を吐きかけた。

「あたしのことさぁ、いろいろ勘違いしてるみたいだけどさぁ……女に幻想見んなクソヤロウッ!」

 拘束された自分ができる精一杯の抵抗を、ふみかは示した。

 唾棄を受けた比嘉は顔を引きつらせ、声を張り上げる。

「もう、いい……せっかく見初めてやったのに、このクサレアマがぁっ!」

 巨人はふみかを包んだ右手を高々と振り上げる。

「ちょっと、な、何する気よ……っ!」

 比嘉は返答代わりに、薄気味の悪い笑みを浮かべた。

 巨人は豪腕を振るい、淡く濁った川面目がけ、ふみかを叩きつけた。激しい水柱が打ち上がる瞬間を見て、剛我は愕然とする。

「ふみかぁっ!」

 彼女へ意識が向いた剛我を、巨影が覆う。直後、右足が地面を打ち鳴らす。地響きとともに、砂塵が河川敷一帯に巻き起こる。

「こっちも終いだねぇ」




「(……ッ!)」

 とっさに両腕で顔を覆い、体を垂直に留めた機転が幸いし、即死には至らなかった。

 しかしながら、着水時の衝撃は甚大なものだった。川底へと沈み切るまで、ふみかの体は硬直していた。緩やかに舞い上がる泥。泳ぎ去る数匹の魚の影。大小様々な水泡が、全身を包み込む。




「はははっ、いいね。水中でどんな苦しい顔を浮かべているんだろうねぇ、ぜひ描いてみたかったよ」

 圧倒的な力の差を見せつけ、比嘉が恍惚に浸りかけたときだった。

『ヴォオゥッ!?』

 巨人が呻き声を上げる。足元をしきりに窺っている様子だった。

「どうしたんだ、いったい?」

 比嘉が真下へ目を凝らす。巨人の足の甲に、杭のようなものが突き立てられているのが見える。その傍らには人影が。

「テメェはぶっ潰す……絶対になぁっ!」

 人影の正体は、激昂する剛我だった。巨人の踏みつけを紙一重で回避し、十字架をその足に突き刺していたのだ。頂点につながった鎖は地面に続いており、とぐろを巻いている。

「なんだ、仕留めてないじゃないかマヌケ。さっさと踏んづけろっ!」

『……』

 比嘉が追撃を促すが、巨人は動かない。両腕をだらりと下げ、直立不動したままだ。

「どうしたっ、やれぇ、早くっ! 踏め、踏むんだっ!」

『……ヴゥ』

 耳元でまくしたてるも、巨人の不言不実行は揺るがない。苛立ちを募らせる比嘉だったが、巨人が膝をかすかに震わせていることに気づく。それどころか巨躯を強張らせ、次第に体勢を低くし始めたのだ。彼の命令を遂行しようと試みるも、まるで己以上の強大な存在に押さえつけられているかのように見えた。表情のない顔にも、心なしか焦燥の色が浮かぶ。




 ふみかは水面へ上がろうともがくも、手足が思うように動かない。鉄砲水に飲み込まれた際の記憶が身体機能、次いで心を蝕んでいく。

「(もう、ダメか、も……っ!)」




「なんだ、どうしたんだっ!?」

 巨人の不可解な行動に、比嘉は戸惑いを隠せない。〈不公平な天秤〉の真髄――鎖と十字架を介し、大地の膨大な質量を巨人へと移した結果だとは、彼には知る由もなかった。




 彼女は懸命に手を伸ばし続けた。決して届く事のない、光差しこむ彼方へと。しかし川面に近づいていくのは、口から漏れる空気の泡。そして死へと近づいていくのは、自らの命。

「(助け、て……)」




『ヴボゥ……ッ!』

 自重に耐えかね、ついに巨人は前のめりに倒れこんだ。その際の揺れでバランスを崩し、比嘉は川へと落下する。

「うわぁああ~……っ!」




 一際大きな空気の塊を吐いた。濁流が我先にと口内へなだれ込む。視界が薄れ、意識が遠のいていく。それでも一つだけ、明確な輪郭を残すものが胸の内にあった。彼女の一部であり、過去であり、現在であり、そして願わくば未来へも。発声する手段を絶たれた今、もはや彼女は心の真ん中に在るその者の名を強く念じるほかなかった。

「(……剛我ぁっ!)」




 剛我は十字架を手放すと、脇目も振らず川へと飛び込んだ。泳ぎは不得手だったが、事態は差し迫る。力任せに水を掻き進んだ。ふみかの姿を確認する。手足を投げ出した体勢で、川底に沈んでいた。全身の力は抜け切り、意識を失っている様子だった。

 叫びたい衝動を必死にこらえ、彼女のもとへ急いだ。手首をつかみ、胸元へ引き込むとすぐさま、水面へ急上昇していく――。

「剛兄、ふみかさんは大丈夫っ!?」

 ふみかを肩に担ぎ、川から上がってきた剛我に、優己が不安げに訊ねる。

「これが大丈夫に見えるかぁっ? 優己、すぐに調べろっ!」

「えっ、な、何をっ?」

「“やり方”だよっ! この状況でっ、ケータイで調べることっつったら、あとは分かるだろうがぁっ!」

「あ、ああっ! ま、任せてっ!」




 ふみか。漢字で表記すると“風美駆”となる。風のように道、空、世界、人生を美しく駆けていってほしいという意味が込められていた。漢字のままでは堅苦しいと、柔らかな印象のひらがな表記に変えたという両親の話を覚えている。

 ふみか。彼女はその名を心から愛した。呼ばれるたびに心が弾んだ。

 そして今、その名を呼ぶ声がする。

 あたしを呼ぶ、人がいる……。

「――あ、れぇ?」

「ふみかっ! こいつ、心配かけさせやがってぇっ!」

「ふみかさんっ! 良かったぁ……」

 真っ先に視界に入ったのは、異常に近い剛我の顔だった。次いで奥には優己も確認できる。兄弟ともに沈痛な面持ちだった。それが一転、表情が和らぎ、歓声を上げる。ここまで素直に喜びを表現する二人を見たのは、いつ以来だろう。自身の名を献身的に呼んでくれる者が、目の前に二人もいるという幸福を噛みしめる。

「剛我、優己君……ありがと、ゴホッ、ゴフッ!」

 横たえた体を起こそうとするふみかを、優己が制止する。

「ダメですよ、ふみかさん。まだ動くのは……」

「ううん、もう大丈夫だから。ほんとにありがとね」

 ふみかは呼吸を整え、おもむろに立ち上がった。

「あれ、剛我は?」

「えっ、いやぁ、さっきまでここに……」

「おら、どうしたぁっ。ちゃきちゃき歩け、おいっ!」

「ひぃっ、許し、グゲッ、ゴハァッ!」

 何やら穏やかではない行為が、優己たちの死角で行われていた。河川敷の斜面から、剛我が戻ってきた。

「そんじゃ、あとはお前に任せっかな」

「ひゃっ!?」

 剛我が突き出したのは、顔を風船のように腫れ上がらせた比嘉だった。

「こいつの霊具はスケッチブック。川に落ちたとき、一緒に濡れちまったおかげで使い物にならなくなったらしい。巨人が消えたのがその証拠。あとはリンチし放題だ、ぎゃーはっはっはっ!」

「あぁ……ボクの、天使……助け、て……」

 まさに惡童の笑みを浮かべ、哄笑する剛我。ふみかは半ば呆れつつ、情けなく呻く比嘉に顔を近づける。

「あーあ、こんなにしちゃって。ちょっとやり過ぎじゃない?」

「や、やはりボクの見初めた天使。なんて慈悲深い……」

「甘えんなボケ」

「へっ?」

 唐突に変化した口調に、比嘉は耳を疑った。

「さんざん人をもてあそびやがって……あたしが天使? 寝ぼけたことほざいてないで、さっさと逝ってこい!!」

「え、あ、あの」

 腰を低く構え、足下の地面を高弾性化させる。闘争の炎を燃え盛らせた眼光は、比嘉越しの剛我すら怯ませるものがあった。

「ブッ飛べやぁっ!」

 下肢に反動をつけた跳躍と同時に、比嘉の局部を蹴り上げる。

「かっ」

 たった一つの音節が、比嘉の断末魔だった。剛我の頭を飛び越え、河川敷の斜面を転がり落ちていく。

 ふみかは彼の末路を確認する気がないようで、川に背を向け、ただ一言言い放った。

「あーっ、スッキリした!」

 盛大な水しぶきを上げ、比嘉は沈黙した。

 【――比嘉添次 脱落――】

「オレたちからしたら、勘弁願いてぇもんだな」

「まさに一撃必殺だね」

 ふみかの容赦ない蹴りを目撃し、二人は思わず男のシンボルを押さえた。

「それにしてもさ、剛兄も大胆だよね。ふみかさんを川から助け出したのは良かったけど……」

「おい、優己。それ以上は」

「多量の水を飲んだ彼女は意識を失っていた。そうなるとやるべきことは一つ。私、立場を忘れて見入っちゃったわ」

 櫛撫も加わり、二人で剛我をまじまじと見つめる。

「だからお前らな、その話は」

「何々? 何の話?」

 ふみかが三人の輪に入った途端、剛我はそっぽを向いて歩き出した。

「ちょっとどうしたの剛我。何の話してたの?」

「何でもねぇよ」

「何でもないことないでしょ。教えてよ、ねぇねぇ」

「うるせぇ、うるせぇーっ!」

 走り出す剛我の横顔は、赤らんでいるように見えた。櫛撫は二人のやり取りを微笑ましく眺めたあと、高らかに告げる。

「勝者、飛鳥井ふみかっ!」

「ちょっと待てやぁっ!」

 剛我の絶叫が一帯に轟く。

 一方、河川敷で騒乱が起きていたことなどつゆ知らず、斜面を上った先の歩道を、母子が手をつないで歩いていた。

「今日の夕飯、何がいい?」

「ハンバァグっ!」

 そう答える少女の鞄には、クマのストラップが元気に揺れ動いていた。

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