第10話 献身
ニ年前。河川敷から望む景色は、現在とほとんど変化がない。決定的に違うのは、剛我とふみかが高校の制服に身を包んでいることだ。彼らがまだ、己が運命の奔流にのまれる以前の話である。
学校からの帰り、二人はいつもの道を、いつもの歩幅で、いつもの距離感を保ちながら歩いていた。その日も日常の時間だった。
「明日さ、ちょっと付き合ってくれない? 隣町においしいパンケーキ屋さんが出来たんだって。一緒に行こ」
「はぁっ? ぱんけぇき? 男がわざわざ食いにいくもんじゃねぇだろ。それによ、他にも誘う奴ぐらいいるんじゃねぇの」
「それがさ、今だけカップル割引やってるんだって」
「カップル?」
「うん、あの。フリだけでもいいから、だから、その……ね?」
「……いや、でもやめた方がいいぞ。山、見てみろよ。しけた雲が上ってるだろ」
剛我に促され山頂を見ると、薄暗い雲が広がっている。
「ひと雨くるかもな。明日の天気もどうなるか分かんねぇぞ」
「そっかぁ……」
視線を下げるふみかを見て申し訳なく思ったのか、剛我は言葉を加える。
「まぁ、どうしてもってんなら、別に」
「あれっ? 剛我、あっち見て」
「あ?」
ふみかが指した先の河川敷に小学校低学年と見られる少女が、一人佇んでいた。 傍らにはヘルメットと赤いランドセルが置かれている。川面をしばらく眺めたのち、よたよたと歩き出した。靴を履いたまま一歩、川へと入水する。
「待って! 早まっちゃだめっ!」
ふみかは斜面を駆け下り、少女のもとへ急いだ。その小さい背中を抱きしめると、舌足らずな声が上がる。
「きゃあっ、お姉ちゃんだれぇっ?」
「あたしのことはいいの。それより、まだ若いんだから人生諦めちゃだめだってっ! ここの川、見た目以上にすっごく深いんだからっ!」
「なんのこと? ミクねぇ、さがしものしてるの」
「へっ、探し物? 何か落としたの?」
ふみかの早とちりに、後からやってきた剛我は失笑する。
「おいおい、こんなちっこいガキが自殺なんてするわけねぇだろ」
「だ、だって……」
突然現れた二人組を前に、ミクという少女は目を丸くしていた。
話を聞くと、クマを模したキーホルダーを同級生の少年に奪われ、この河川敷に放り投げられてしまったらしい。しばらく探し回るも見つからず、もしや川に落ちたのかと思い至ったそうだ。
「いるよねぇ、そういう男子。ほんっと、性格悪いんだから。どっかの誰かの剛我さんみたい」
「おい」
「よーし、ふみかお姉ちゃんに任せなさい。あたしね、探し物のプロなんだよ。髪留め何回か失くしたことあるけど、最後は必ず見つけちゃうんだから」
「落とし物のプロの間違いだろ」
「剛我は黙っててっ!」
当初は二人の掛け合いを見て動揺していたのも束の間、ミクは無邪気な声を上げて笑っていた。
「結局見つからなかったねぇ……」
「……うん」
「腰イテェな、ったく」
三人の足取りは重く、特に当事者のミクの落ち込みようは顕著だった。ランドセルのストラップをぎゅっと握り、項垂れた姿は傍から見て胸が締め付けられる思いである。
「……」
何度も振り返っては、河川敷の方向を名残惜しそうに見るミクに、ふみかは目線を下げて話しかける。
「またさ、一緒に探そ。キーホルダーは逃げないよ」
「……ママがくれたの。せなかにね、『ミク』って名まえがあるの」
「お母さんが書いてくれたんだ、優しいねぇ。じゃあ、ミクちゃん印のクマちゃんは、ミクちゃんが見つけてくれるの待ってるんだ」
「そうなの。いつも一緒なの。だから」
もと来た道を戻ろうとするミクの腕を握るふみか。
「でもね、お母さんはもっとミクちゃんのこと、待ってると思うんだ。あんまり遅くなると心配させちゃうから、今日はもう帰ろ。ね?」
ふみかの真摯な説得を受け、ミクは小さく頷いた。
安堵する剛我だったが、ふみかだけは、なおも河川敷を気にかけるミクに一抹の不安を抱いていた。山頂に広がる黒雲の動向にも。
件の河川から三キロメートルの下流で、ふみかの遺体が発見された。行方不明から二日後のことだった。
雨によってキーホルダーが流されるのを懸念した彼女は、帰宅後再び探しに戻ってきたのだろう。そこへ上流からの“鉄砲水”が急襲し、濁流にのまれ溺死したと推測される。
“鉄砲水”。山崩れや集中的豪雨による増水が、堰を切り急激な水流となって押し寄せる現象である。
今回は山頂の上流で局所的豪雨が発生し、土砂が崩落。これにより川の水流が一時堰き止められる。次第に雨量が増し、土砂が耐えきれずに決壊したことが要因となった。十分間で百センチ以上水位が上昇し、ふみかを含む七人が流され、内四人の死亡が確認された。未曽有の水害として今なお町の人々に、忌まわしい記憶と癒えぬ傷跡を残している。
後日、ミクのキーホルダーを奪った少年が、実際は捨てたふりをして持ち帰っていたという事実が判明した。ミクの気を引きたかったという、幼少期特有の未成熟な愛情表現が、今回の悲劇の引き金となった。
ふみかを姉のように慕っていた優己は葬儀の間、人目をはばからず泣きじゃくった。一方、剛我は涙一つ浮かべず、終始無表情に徹していた。誰とも視線を合わせず、会話も交わすこともなかった。まるで抜け殻だった。少しでも触れれば、あっけなく崩れ落ちるのではないかと危惧するほどに。
すでに当時から惡童と呼ばれていた彼だったが、彼の素行は一際荒み、喧嘩に傾倒することとなった。
「雨を心配したミクちゃんが、また探しに行っちゃったんじゃないかって思ったんだ。そしたら、居ても立っても居られなくて……」
「何で、すぐに鉄砲水から逃げなかった?」
「本当にいきなりだったからさ。遠くで水音がするなぁと思って、何となく振り返ったらすぐそこにおっきい波が押し寄せてきて……どうしようも、なくて」
「お前は何つうか、お人好しが過ぎるっつうか。やっぱバカだよ」
「バカでいいよ、もう……ミクちゃん、元気にしてるかなぁ」
ふみかの隣で、優己は思索する。なぜこんなにも献身的で優しい人が死ななければならなかったのか。彼女にとっての救いは、ミクとキーホルダーが無事だったこと、そして剛我と再び出会えたことだろう。櫛撫の言っていたように、死してなお親しい者と再会すること自体が奇跡であり、特にあの二人に対しては運命すら感じる。両者に通ずる絆は、兄弟とはまた別個のものである。例えこの先、熾烈な戦いが待っているとしてもそれは揺るぎない。
「そろそろ帰ろっか?」
「ああ、そうだな」
「賛成っ」
優己の提案に、二人は頷いた。
結局、三人は対岸からこちらを窺う何者かの存在に気づかなかった。その舐めるような視線が、ふみかに向けられていることにも。
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