第3話 出会い3

 緊張で顔を強ばらせた後、さっと目線を下げ、身を縮めて距離をとる。彼を前にした相手のほとんどが見せる、一連の反応と行動だ。

 その百八十センチを超える巨躯からは威圧を、険のある顔つきからは他を拒絶する気迫を覚える。逆立った黒髪の一部に入れられた赤いメッシュは、稜々たる炎のように主張し、視線を否が応にも引きつけた。蓄えた筋肉を運ぶのに難儀するのか、その歩き方はやや前傾気味かつ大股だ。

 その風体と闊歩の様を見て、不穏な印象を抱かぬ者はいないだろう。

 ただ一人、常に脇をついて歩いてきた彼を除いては。

「剛、兄……?」

 優己は息を呑んだ。突如として現れた男は、兄――十文字剛我その人だった。

「おい、どうしたコラ」

 剛我は男の薄い頭髪をつかみ、強引に起き上がらせた。

「待ってくれ、許してくれ」

 男の哀願を無視し、反動をつけて塀に叩きつける。正面には剛我、背後には石壁。狭間に置かれた男の体は萎んで小さく見えた。

 歯を鳴らす男を見下ろし、剛我はおもむろに右腕を持ち上げる。親指を包むように四本の指を曲げ、拳を作る。腕が小刻みに震えをまとう。それは無抵抗の相手を殴ることへの躊躇、とは異なるもので、始動したエンジンが見せる猛々しい振動に似ていた。

「まっ」

 口を開きかけた男の顔が、振り下ろされた拳で隠れた。

 皮膚を挟み、指の骨と鼻の骨がぶつかる。短い音が響く。

 男の歪んだ口からよだれがこぼれる。

 黒目は宙を泳ぎ、体の下降とともに白目へと反転した。

 意識の消失は全身の脱力をもたらし、完全なる無防備を招く。 

 左拳が突き上げられる。たるんだ腹に沈み、脂肪が波打った。再び右腕が動く。

「やめてっ! 剛兄っ!」

 意識が追いつかぬまま、優己は声を発していた。

 勢いづいた右拳が中年男のこめかみをかすり、後ろの塀を打った。二発の殴打を食らった男は、膝を折って崩れ落ちる。

 殴られた石壁には亀裂が入り、男の受けた殴打の凄まじさを物語っている。

 優己自身、思いもよらぬ行動だったが、すぐに理由は浮かんだ。圧倒的な暴力でねじ伏せられる男の姿が、虐げられる自分と重なったのだ。

 剛我は腕を下げ、ゆっくりと拳を解く。広げられた掌はグローブかと見紛うほどに大きく、指の一本一本が大樹の根のように太い。

 昔、あの手で頭を激しく揺さぶられたことがあった。彼は空を見上げて笑っていた。いったい何が可笑しかったのか。

 空気は張り詰め、二人の体は熱を帯びていた。

 久しく聞くことのなかった声。久しく呼ばれることのなかった名前。懐かしい響きに運ばれた視線は、優己に向けられた。

 鋭い眼光は急速な弱まりを見せ、眉間に寄せたしわが緩む。口を真一文字に結んだ仏頂面は大きく崩れ、張り詰めた気配が消えた。

「優己?」 

「……ほんとに、剛兄なの?」

 優己は頭からつま先まで何度も姿を確認する。白シャツに黒地のジャケット、暖色のカーゴパンツ。最後に見た兄の姿そのもの。

両者狼狽えながらも、視線は合致したまま、互いを離さない。驚愕と困惑が思考を巡り、やっと現在に追いついたという感じだ。

「剛兄、何でここに……剛兄?」

 気づくと、剛我の目線は真上に移っていた。

「おいテメェ、何やってんだ?」

「えっ? あっ」

 剛我に見据えられ、間田は竦み上がった。ここでようやく、自分が優己を踏みつけたままであることを思い出す。

「いや、これは、そのー、そう! 遊んでただけで……」

 目を泳がせ、言い訳を述べる間田だが、事態は思いのほか深刻だった。優己の背中から足が離れないのだ。惡童との対峙による極度の緊張とストレスが、彼の体に変調を引き起こしていたのだった。

 鉱物を擦り合わせたような音が、間田の耳に入った。それは幻聴ではなく、剛我の歯ぎしりによるものだった。

 剛我の眉間には再びしわが刻まれ、顔は紅潮していた。要因は二つ。精神的には憤怒、肉体的には頭上に掲げた中年男性を支える負荷によるもの。

「いやー、ウチの弟がすっかり世話になりっぱなしだなぁ。礼はさせてもらわねぇと……」

「も、もう許して……」「ま、待って……」

 中年男及び間田のか細い訴えを無視し、剛我は歩を進める。地面からの振動を腹に受けながら、優己はうつ伏せの身をわずかばかりに縮めた。

「頼むから」「お願いだから」

「オレの気持ちだ、受け取ってくれや」

「いやだぁああ~っ!」「うそだぁああ~っ!」

「オラァアアッ!」

 剛我が威勢よく怪力を振るった。

 優己の頭上を巨影が飛び越える。

 背中が軽くなった。

 蛙の鳴き声に似た短い悲鳴が上がった。

 上体を起こして見ると、泡を吹いて気絶した間田の上に、同じく静かになった中年男がのしかかっていた。

 遠方には、逃げ去る取り巻きたちの小さい背中が見えた。

「おい」

 剛我は唖然とする優己の腕をとり、強引に立ち上がらせる。

「ちょっと、痛いよ」

 抗議するも、それは今まで彼を虐げてきたものとは別の、痛みであった。

「……さわれる」

 優己の掌を握る剛我。血が通い、骨が囲い、肉が包み込んでいることを確認するように指でなぞっている。続いて両肩をつかみ、腰を落とす。

 目線が並ぶ。弱々しげな顔が間近に迫る。髪、目、鼻、口、耳、体に手足。曖昧な箇所など一つもなく、はっきりと兄が目の前にいる。しかし、双眸にいつもの力強さが宿っていない。かすかに震えているような印象も受ける。きっと自分も同じ顔をしているだろうな、と優己は感じた。 

 一人は、相手が自分を見ていることに。もう一人は自分が相手を見ていることに。それぞれの事情は異なれど、抱く思いは共通だった。

「何で……いったいどうなってるの?」

「オレが訊きてぇよ、そんなの。何でオレが見える? まさか、お前も死んで“コッチ”側の人間になっちまったわけじゃねぇよな」

「死んだのはそっちだろ。どうして、ここにいるのさ。ああもう、訳分かんなくなってきた」

 優己は頭をかき乱す。自分らしくないと分かっていながらも、混乱を静める手が見つからない。

 ふと、横たわる中年男が目に止まる。何からでもいい。答えが欲しい。疑問に対する解答が。男を指さし、優己は問いかけた。

「この人は誰なんだよ。ケンカにしたって、随分一方的に見えたけどさ。ちゃんと……ちゃんと説明してよ!」

「……」

 剛我はばつが悪そうに表情を曇らせ、顔を逸らした。

「なんとか言ってよっ!」

「それは……」

 迫る優己に対し、剛我が口を開きかけたときだった。

「待て」

 二人の間に一言、声が落ち、追いかけるように人影が降りた。

 それは羽毛のように軽やかな着地だった。

 長髪が一瞬浮き上がり、青年の横顔が垣間見えた。折り曲げた体を伸ばし、悠然と立ち上がるまでの所作には気品すら感じた。

 ロングコートの上に短い袖丈の着物を重ねた黒装束。背丈は剛我より頭一つ分低い。肌は白く、中性的な容姿だ。目鼻口どれもが整然と位置し、これ以上ないほどの調和を発揮している。

 首を少し動かすだけでしなやかに揺れる黒髪を持った、美形の青年だ。

 優己は傍らに立つ電柱を見上げる。他に足場となる場所が見当たらない以上、電柱の天辺から飛び降りてきたと考えるほかない。

 それを青年は事もなげにやってのけた。軽い身のこなしで地に降りた。

「嫌味かよ、ったく」

 そうぼやき、剛我は舌打ちする。彼は自身の死に際を思い浮かべたのだろうか。

 青年の関心は、間田に被さるように伏す中年男に向いていた。完全に意識を失っているようだ。

「もうダメだろ、そいつ。終わりだ、終わり」

 首を左右に捻る、耳の裏を掻くなど、剛我は苛立った様子だった。特に手を開閉させる動作は、喧嘩の内容が物足りないときに見せた癖のようなものだ。優己が止めなければ、おそらく殴り続けていただろう。

「そのようだな」

 青年は眼下の敗者を見つめ、呟いた。

「戦意を失くし、気力を腐らせ」

 優己は、中年男の背中から白いもやが上り始めるのに気づいた。汗が蒸発し、気化したものかと疑ったが、臭いで察した。煙だ。物が燃焼する際に発生する気体。

「生きる意志を欠いた瞬間、勝敗は決する。それがルールだ」

 突如、中年男の体が発火した。

「今、もがりの時は来た。その御霊に刻まれし積悪を雪ぎ、積善を讃えよう。往くべき世界へ導かれるがいい」 

 火はたちまち全身を包み込む。男は苦しむ様子を見せなかった。 

 衣服の急速な炭化が進み、その下の皮膚は焼け焦げ、ひび割れていく。焦げ臭さも熱気も感じられない。不思議にも直下にいる間田の体に火が燃え移る気配は一切なかった。

 人が人の形を失くしていく。目を背けたくなる光景のはずだが、優己は煌々とした炎の揺らめきに目を奪われていた。ほどなくして男の体は崩れ、灰燼に帰した。

 黒衣の青年が空を仰ぐ。優己、剛我もそれに続いた。

 灰の一団は煙に乗って、火の粉とともに舞い上がっていく。静かに、しかし激しい命の残滓の瞬きが、ひどく眩しかった。

 男の最期を見届けた青年は、剛我に向き直る。

「おめでとう、十文字剛我。勝者は君だ」

 剛我は、形式的な拍手と世辞を一笑に付した。優己を拳から突き出した親指で示す。 

「んなことより、説明してくれるんだろうなぁ。こいつのこと」  

「もちろん、そのつもりだよ」

 二人の視線を向けられ、優己は体を硬直させた。鋭い眼光が二人の共通点だが、その性質は異なる。

「優己君、だね?」

 青年は目元を緩ませ、微笑んだ。凛々しさが一転、いかにも大人が子どもに向ける馴れ馴れしい笑顔だったが、嫌味な印象はなかった。

コートの懐に手を入れる。

「コロッケは好きかな?」

 取り出したのは、耐油加工の茶色い紙袋だった。

 印字された店名は、先日テレビで紹介された最寄りの肉屋のものだ。

 青年が袋の口を開けると、辺りに香ばしい匂いが立ちこめる。思わず優己は腹を押さえた。間田に殴られた痛みが襲ってきたのではない、たんなる腹の虫が鳴っただけだった。


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