第2話 出会い1、2
翌日。
優己は、終業のベルが鳴ったと同時に帰り支度を済ませた。
「優己くーん」
鞄を抱えて足早に教室を出ようとする。
「おい」
肩をつかまれ、強引に振り向かされた。間田と取り巻き二人がいた。
「ちょっと付き合ってくれよ」
「……二日続けてはさすがに」
「違う違う。ただの買い物だって」
抵抗する気力もなく、優己は三人に囲まれたまま、学校を後にする。
連れ出された先は駅前にある、個人経営のコンビニエンスストアだった。手作り弁当や惣菜が人気で、学生も頻繁に訪れる。
「この店、入ったことある?」
「うん」
力なくうなずいた。背筋に湿っぽい汗が滲む。このコンビニは個人経営で、店長の老婦人とは顔なじみだった。
「おれ、菓子パーン。クリーム系のやつ」
「えーと、んじゃポテチの何か、お願いしまーす」
「ポテチの袋って音うるさくね? ガサガサってさ」
「あ、ばれちゃう? じゃあ、ガムでいいや」
「豆乳オレ頼むわ。最近はまってんだ」
「お前、女子かよ」
間田たちは口々に、今一番欲しているものの名前を挙げる。優己は溜め息をつき、事態を把握した。
「分かったよ。今から買ってくればいいんだろ」
店に向かおうとした優己の肩に、間田が腕を回した。
「違う違う。金なんか出さなくても、手に入る方法があるじゃん?」
優己の思案顔にたちまち影が落ち、穿つような視線を間田に向ける。
「……僕に万引きしろって言うの?」
「バカだなぁ、こんなこと誰でもしてるって。度胸試しみたいなもんだ」
優己は背中を押され、よろめいた。
「そんなことできるわ、け……っ」
振り向きざまに唱えるはずの抗議の言葉は、口元で煙のように立ち消えた。三人の視線には感情が伴っていなかった。目前の獲物を、己の欲を満たすための贄としか捉えていない鳥獣と同じように。優己は蛇に睨まれた蛙の心地だった。
「早く行けって」
それでも押し黙っていると、取り巻きの一人がぐいと顔を近づけた。
「行けよ」
声色を低くした別の一人に背中を小突かれ、優己はようやく歩きだした。
菓子パン、ガム、豆乳オレ。菓子パン、ガム、豆乳オレ……。
注文を忘れないよう小さく復唱していることに気づき、とっさに舌どころか唇を引きちぎりたくなる衝動に駆られた。
ドアを開けると、軽快な入店音が鳴り響いた。
「いらっしゃ~い」
老店主がレジの奥から顔を出し、笑顔で応対する。彼女はモトばあと呼ばれ、その気さくな人柄から学生の多くに慕われている。
「優己君じゃないかい。久しぶりだねぇ」
精一杯に笑い返し、店内を見渡す。客は老婦人だけだった。
パン売り場はレジの前方に設けられており、一番奥の壁が飲料系の棚になっている。菓子売り場は、店の中央だ。
目的の商品の配置を確認する自分は、確実に万引きするための算段を練っていた。生真面目な性格からなる妙な責任感に押しつぶされそうになる。
頼りない足取りは、飲み物が陳列された棚の前で落ち着いた。
間田の指定した豆乳オレは、二百ミリリットルのパックで売られていた。人気若手女優が出演しているCMを思い出しながら手にとる。はっとして、辺りを見回す。 しかし、商品を持ったくらいで怪しまれる謂れはない。優己はいよいよ緊張で正常な判断ができなくなっていた。
動悸が激しい。この苦痛から一刻も早く逃れるため、ついに行動に移した。
肩に提げた鞄のチャックを少しだけ開き、素早く豆乳オレを押し込む。チャックを閉めると同時に、もう一度辺りに目を配る。人気はない。
足早に菓子売り場へ向かう。ガムは手の中に収まる程度の大きさだったので、ズボンのポケットに入れた。
最後は菓子パン。商品棚はレジの近くだったが、モトばあは婦人客との談笑に夢中だ。
今しかない。
クリームパンを手にとり、鞄の口へ近づける。
「よせばいいのに」
優己は手を止め、耳をそばだてた。
下肢から頭にかけて、形容しがたい震えに似たものがこみ上げてきた。通りを走る車の音も、モトばあと客の笑い声も聞こえない。代わりに拍動が目立ち始める。手汗の滲みも顕著だ。
背後からの声だった。
顔を見られないよう慎重に、なお慎重に振り返ってみる。
少女が立っていた。有名な私立中学の制服を着ている。
空気を含んだようにふんわりと膨れた、豊かな黒髪。腰にまで及ぶ長さで、毛先に近づくにつれて癖がつき、薄茶色が覗いている。
白く、滑らかな肌。鼻筋は通り、小さくすぼまった潤みのある唇。
右手には煌びやかなデコレーションが施された、タッチパネル式の携帯電話。まるでそこに世界の理が映し出されているかのように、視線は画面に落とされている。
「万引きなんて誰も幸せに……っ?」
不意に顔を上げ、優己と視線が合致する。強調された睫毛が激しく瞬いた。
「あっ……ちがっ。これは、その」
優己は、少女がはっきりと発した言葉に動揺する。他の人間に聞かれたらどうすると、理不尽な怒りを含んだ焦燥にかき立てられる。
無意味な反論を述べたかったが大量の唾液が溢れそうになり、一旦言葉ごと飲み込んだ。何を言おうとしたのかは、もう、うやむやになってしまった。
「……見えてる?」
少女は目を丸くして、一歩近寄る。香水もしくは髪から揺蕩うような香り、きめ細やかな色艶、悩ましさを匂わす端正な顔立ち。それらが拳二つ分ほどの距離まで迫り、優己の動揺を一層煽る。
「ウチのこと、見えてるの?」
万引きの指摘に続く、不可解な発言。優己にとって、もはや少女は畏怖の対象でしかなかった。一刻も早くこの状況から抜け出したい。そんな衝動に駆られ、優己は鞄から品物を取り出すと、棚へ押し込んだ。
「ごめん、ほんとに、ごめん……っ!」
「あ、ちょっと」
優己は少女に背を向けると、脆弱な心を隠すように鞄を抱きかかえ足早に店を出た。
「おっ、帰って参りましたー」
「やっぱ怖かった?」
「戦利品見せてみろよ」
疲弊した彼を迎えたのは、彼らお得意の侮蔑と冷笑だった。
優己は無言で三人の間を抜け、逃げ出した。
「おい、優己っ!」
後方から、間田の怒号が追ってくる。それを無視し、路地の隙間を縫うようにひたすら走り続けた。
不慣れな運動に、早くも体が悲鳴を上げる。肺に冷たい空気が入り込み、わき腹の辺りが苦しくなる。それでも腕を前後に振り乱し、当てもなく疾走した。壁にぶつかりそうになれば、右へ左へ曲がり、決して引き返すことはしなかった。
何度もつまずいた。涙もこみ上げそうになったが、辛うじてこらえた。男は泣いてはいけない。父がそう教えてくれた。彼の葬式では、女々しく号泣してしまったが。
喉から声とも叫びともつかない、擦れた音が鳴る。
体も意識も記憶も何もかも、一秒後には全てパッと消えて失くなってしまえばいいのに。そんなことを夢想しつつ、卑小な己を鼓舞しながら、十数回目となる角を曲がったときだった。
「待てっつってんだろっ!」
「うわっ!?」
優己の体は勢いよく路上に叩きつけられた。
腹を強打し、苦悶するその真上から、下卑た笑いが降ってきた。
「逃げることないだろー、優己くーん」
間田に肩甲骨の辺りを踏みつけられ、這いつくばった姿勢から身動きが取れない。
「足を、どけろ、よ……」
「力づくでやってみろよ、なぁ?」
「見ろよ、あのかっこ。踏み潰された蛙みてぇ」
「ほんとだ、だっせぇ」
二人の取り巻きも追いつき、嘲笑が重なり合う。
地面に点々とこぼれる涙の跡に気づいたときだった。
「ひぃっ」
前方の角から、腹の肥えた中年男性が飛び出し、つまずいた。短い呻き声を上げ、地面に四つん這いになる。息を切らし、顔は紅潮していた。
あっけにとられたのも束の間、続いて角から悠然と現れた一人の男。
「なぁに逃げ出してんだ、コラ」
この瞬間だった。優己の日常は潰された。
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