エンマのヒマつぶし

ドラキ

第一章

第1話 始まりの閃光 

 父が死んだ。僕たちは泣いた。

 先輩たちが死んだ。僕だけ泣いた。

 そして、兄が死んだ。僕は泣いた。



 僕の日常は潰された。

 不条理な死は、公平だった。







 少年は砂混じりの唾液を吐きだした。臭気に眉を顰める。

 口内を舌で探ると、下唇の裏側で血の味に出くわした。鉄棒の味だ、と何気なく思った。

 幼い頃、鉄棒に噛みつき、顎の力だけでぶら下がろうとしたことがあった。今では馬鹿丸出しと言える行為も、誇らしげに感じていた無謀な時期。その後、歯は欠け、母に叱責され、父と兄に笑われるといった始末。彼にとって血の味とは鉄棒の味でもあった。

 少年の名は、十文字優己じゅうもんじゆうきといった。大仰な苗字に比べ、虚弱な体質で、見た目も華奢だった。高校一年生の平均より頭一つ分低く、幼さの残る顔立ちと相まって中学生と見間違われることも少なくなかった。

 地面を手探り、辛うじて見つけた眼鏡をかける。レンズに傷はない。これしきのことで胸を撫で下ろしてしまう己の卑小さが嫌だった。

 両手で地面を押し込むように、うつ伏せの体を起こす。集中的に蹴られた臀部付近に、鈍痛が蘇る。

 は人目に触れる顔や手足ではなく、腹や尻など体の中心に近い、衣服に隠れる箇所を執拗にいたぶった。

 ベンチに腰掛け、一息つく。

 人気のない場所での集団暴行。高校入学後間もなく始まり、今回で三度目になる。数を重ねるうち、時折、自分に非があるのではないかと思案しては、慌てて脳裏から振り払う。自分は何ら悪いことをしていない。悪いのは間違いなく彼らなのだ。

 “惡童”。彼らはその言葉を口にしては、優己に理不尽な暴力を振るった。自分たちは昔、惡童にこういう仕打ちを受けた、だからこれは正当な行為だと、被害者と思えぬ様相で語りながら。

 しかし優己は知っていた。その仕打ちとは、彼らが日常的な振る舞いに起因していると。

 

 

 数刻前。

「兄弟っつっても、似てねぇもんだな」

 耳にピアスをつけ、エラの張った男が、優己の頭髪を掴み上げた。

 周囲には人だかりが形成され、その顔触れはピアス男と類似したものばかりだ。

「いいか、優己。てめぇの後ろ盾は、もういねぇんだ。おかげでおれらは好きにやらせてもらってるけどよ。受けた恨みはまだ忘れちゃいねぇぞ。あいつの弟だってぇなら、少しは兄貴の尻拭いをしてもらわねぇと……」

「何が恨みだよ。お前たちが、バカなことしてるから……うぐっ!」 

 頬に痛烈な張り手を食らい、優己は悶絶する。下卑た笑いが周囲に巻き起こる。

 バカばっか。優己は心の中で吐いた。

「――いやぁ、はじめて見たなぁ、殴られ屋。マジでやってんだな、こういうの」 

「よくやるよな、お前もやりゃよかったのに。一分間で五百円だろ?」

「ちょっと高くね?」

 ピアス男も野次馬も去り、一寸の静寂が戻る。優己のもとへ、三人組が近づいてきた。

「いやぁ、お疲れさん。今日の売上の一割ね」

 一人が、優己に無理矢理小銭を握らせた。

「殴られ屋なんてさ、その辺のビビリじゃできないよ。さすが、あの“惡童”の弟」

「尊敬するなー」

「しっかり休んで、体力つけてさ。また来週も頼むよ」

 来週とは、今日受けた傷を一週間かけて治してこい、という意味が含まれている。軽薄な笑みを浮かべ、三人組は帰っていった。

 優己は歯をくいしばり、掌の小銭を投げつけようとして、やめた。どうせ後で拾い集めるのだから。

 週に一度、彼は“殴られ屋”を勤めている。五百円支払うことで、一分間暴力を与えることができるというものだ。当然優己は逃げ回るわけだが、周囲は野次馬に囲まれ、開始早々捕まってしまい、あとは身を丸めるだけだった。

 これは彼が自発的に始めたことではなく、先ほどの三人組のリーダー格、間田の発案である。売上の一割がバイト料という形で利害関係を保っている、と考えているのは間田たちだけだ。

 嬲られる一分間、優己の思考はまともに働かない。できることは、早くこの非生産的な行為が終わるのを慎ましく祈ることだけ。

 これはつまらないエンターテインメントだ。冴えないキャスト、棒読みの台詞、冗長なストーリー、さしたる展開もない映画か演劇を眺めているかのような、客観的考察に近かった。

 頭上の引き笑いや侮蔑的視線、罵声も意に介さず、しばらく地面に突っ伏し、嗚咽を噛み殺し続けた。こらえきれず、昼飯の弁当の中身を吐き出したこともあった。



 現在。

「優己っ!」

 野球のユニフォームを着た少年が走ってきた。同じ格好の一団がやや離れたところから様子を窺っている。

真大まさひろ、やっぱり野球部に決めたんだ。練習試合どうだった?」

「勝ったよ。そんなことより、さっき間田たちとすれ違ったとき、お前のこと話してたから、もしかしてと思ったけど……またやられたのか」

「へへっ……」

 優己は失笑しながら頬をさすった。

「大丈夫。そのうち向こうも飽きると思うし」

「この間も同じこと言ってたじゃんか。いいかげん、先生とか親に相談した方がいいって。何なら、おれが言って」

「それはダメだよ」

 優己は激しく首を横に振った。

「これは僕の問題だから、がそれだけ迷惑をかけたってことだし」

「でも……」

「ありがとう、真大。ほら、みんな待ってるよ」

「優己」

「大丈夫だから。大丈夫」

 それは自身に言い聞かせているように思えた。真大の背中が一団に紛れていったのを見届け、身支度を整える。周りに目を配ると、ゴミが散乱していた。間田たちの嘲笑の余韻に思えた。手持ちに袋がなかったため、カバンにゴミを押し込むと、その場を後にした。



 自身がここまで虐げられることに、疑問は持たなかった。

 “惡童”――本名は十文字剛我じゅうもんじごうが。この界隈では有名な人物だった。悪名という意味でだ。高校生とは思えぬ厳つい風貌に修羅の眼光。並外れた体格。当然、腕っぷしも強く、喧嘩で彼に敵う者はいなかった。彼が歩けば、人波がさっと分かれるほど、威圧に満ちた存在だった。

 しかし、恐れている者はもういない。一年前、彼が遺体で発見されてからは。

 現場は、深い路地に建つ廃ビルの真下。屋上の金網が壊れていたことから、誤って転落した、というのが警察の見解だった。さしもの惡童も、首の骨が折れてはどうにもならなかったようだ。彼をよく知る優己からすれば、その情景は想像しがたいものだった。

 ただ、あれこれ推測したところで、現実も事実も覆ることはない。残された母とともに生きていくしかないのだ。剛我に怨恨を抱く者たちからの報復に耐えてでも。

 感傷は許されない。

 


「またこんなにも汚しちゃって。体育の授業ってそんなに過激なの?」

 うん、とだけ答え、汚れた衣服を母に預ける。夕飯も風呂も早々に済ませると、階段を上がり、部屋へ戻った。体を投げ出すように椅子へ座る。本棚を占拠する大量の漫画。テレビ台の収納に並立するゲームソフト。優己にとっての至福を象徴する数々。

「ふーっ……」

 駄賃で買ったスポーツドリンクを一口含み、真剣な眼差しで画面を見つめ始めた。

 携帯ゲームアプリ『ゴッド・ノウズ』――壮大な世界観と重厚なストーリーが話題を呼ぶRPGだ。行動や台詞が選択式になっており、シナリオの進め方によってエンディングが異なるゲームとなっている。制作はエンマンドーという無名のソフト会社。『ゴッド・ノウズ』が初タイトルであること以外、素性の一切が伏せられた謎の企業であり、巷では様々な憶測が飛び交っている。 

 だが優己にとってゲームが面白ければ、制作会社の正体などどうでもよかった。

「――やったぁっ!」

 思わず声を張り上げ、柄にもなくガッツポーズをする。ついに隠しボスを倒し、真のエンディングを迎えたのだ。

 久しく味わっていなかった高揚感に心が満たされ、気づけば笑みがこぼれていた。

「はぁ……終わっちゃった」

 スタッフロールを呆然と眺めながら、呟いた。自身の手で、唯一の楽しみを終わらせてしまったことへの後悔が沸々と沸き始める。次第に大きく膨れ上がったそれは虚無感に変貌し、あっという間に高ぶりを塗り替えてしまった。

「次、どうしよっかな」

 椅子の背にもたれかかり、両手を上げて伸びをする。天井を仰ぎ、あくびをもらしたときだった。

『レアアイテムゲットのチャンス! ガチャを回してねっ!』

 画面を見ると、カプセルの入った筐体が現れた。どうやらゲームクリア時の特典イベントらしい。

 優己はレバーをタッチした。筐体が大仰に揺れ動き、一つのカプセルが飛び出す。再びそれをタッチする。

『アタリッ! アタリッ! オメデトウッ! オメデトウッ!』

 画面には『大当たり』と表示され、背景には盛大な花火が上がっている。どうやらレアアイテムが当たったらしい。

 一瞬の暗転ののち、一人の男が現れた。

『よー、どうもどうも。お疲れさん。どうだ、面白かったろ? オレ様が創ったんだから当たり前だけど』

 早口で通りのよい声色だった。何より、その派手な装いに、優己は面食らった。

 赤く熱した鎖を後ろに束ねたような、ドレッドヘアの長髪。

 上半身裸に赤と黒を基調としたジャケットを羽織り、とがった耳と指は、それぞれ無数のピアスと指輪で彩られている。数ある装飾品の中でも、紫水晶のネックレスが異様で妖しい輝きを放っていた。もっとも驚いたことは、男はイラストキャラクターではなく、実写の人間だった。

『面白かったよな。ん?』

 画面の手前にテーブルがあるらしく、男は体を乗り出して顔を近づけてきた。間近に迫るその肌は青白く、石膏のように滑らかだった。ルビーに似た赤い発色の瞳が爛々と輝く。

「ああ、えっと」

『そーか、そーか。面白かったか』

 優己を無視し、男は話を続ける。一方的な閑談しかしないため、これが録画した映像なのだと気づいた。おおよそ、クリア特典の開発者コメントといったところだろう。コスプレじみた奇抜な格好からも、よほどのゲームフリークであることが窺える。

 しかし優己の関心はゲームそのものであり、制作秘話に興味はない。そこで画面を操作するも、反応がなかった。

「スキップできない? なんで?」

『そんじゃ、さっそく始めますか。これからお前に本当に面白いゲームってやつを教えてやるよ。いいか、瞬き厳禁。その目によーく焼き付けるんだぞ。ほら、もっと画面に顔を近づけて……』

 男の蠱惑的な手招きに誘われるがまま、優己は画面を注視する。

 突如、真っ白い閃光が爆ぜた。

「!?」

 優己は反射的に携帯電話を投げ捨てる。眼球が灼熱を帯び、鉛玉のように重い。眼窩からこぼれ落ちるのではないかと、思わず両手で覆った。

 今度は脳がむずがゆい。膨張して今にも破裂しそうだ。まるで猛獣を閉じ込めた箱を押さえつけるように、両足で頭をはさみ、うずくまる。強烈な閃光は目下、続いていた。この苦痛から逃れようと体をよじるうちに、椅子ごと床に倒れ込んだ。水面の波紋であったり、扉が開けられた瞬間であったり、蝋燭に火が灯るさまであったり、脳内を様々なイメージが駆け巡る。全身がピリピリと痺れ、力が入らない。

 低く唸りながら床の上で悶えていると、男の声が聞こえた。

『オッケー、これで完了だ。蛇が出るか邪が出るか。この“フェス”にどんな不確定要素をもたらしてくれるか楽しみにしてるぜ、イレギュラーくん――』



 朝になり、優己は目を覚ました。波が引いたように体の異常は落ち着いていた。

 眼鏡をかけていないことに気づき、慌ててかけ直す。数回、瞬きをしてみるが、視界の端に不吉な黒い影が見えるわけでもない。指の数も正確に数えられる。失明の心配はなさそうだ。

 携帯電話を確認すると、何事もなかったかのように『ゴッド・ノウズ』が起動できた。

「なんだったんだ……?」

 その後、ネットでエンマンドーや謎の男について調べたが、どれも有象無象のものばかりで有力な情報はつかめなかった。






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