5-2.英雄

 きっと始まりは些細なことだったのだ。

 バートランド・ギルが初めて武器を手にしたきっかけも、冒険者を志した理由も、野心を抱いた経緯すらも。

 あるいは原因などなかったのかもしれない。

 スバルがカレヴァンを訪れたのが、決して強い意志があってのことではなかったように。


 《悪魔の心臓》を身に宿して堕落した英雄ギル、そして《剣聖ソードマスター》の息子であり伝説の疫病神の証を持つスバル。

 二人が滅びつつある街カレヴァンの冒険者ギルドの廃墟で対峙しているのは、そういった根拠すらない分岐や判断の連続の結果だ。


 彼らの戦いが始まる瞬間にさえ、明確な合図などなかったのは、当然のことだったのかもしれない。

 空気の裂ける甲高い響きと、爆発的な脚力で床を蹴り出す轟音が、嚆矢こうしだ。


 ギルは魔族の力をもって宙に浮かせた無数の刀剣を手足のように操る。手始めに放った数本の投げナイフは牽制けんせいにして、鎧を着た人間を軽々と貫く威力を秘めていた。

 無論、当たらなければ意味はない。

 スバルは、わずかな体のひねりだけで弾丸を凌駕する投刃を回避する。疾走の速度は少しも衰えず、ギルとの間合いは一瞬で消えた。


 裂帛の気合が混じり合って反響する。

 黒い疾風と化して迫るスバルを、ギルは真っ向から迎え撃った。得物の双剣を担ぐように構え、全身のばねを使って振り下ろす。それはもはや斬撃の範疇はんちゅうを超え、一種の災害にすら匹敵するエネルギーを秘めていた。

 並行の軌跡を描く二振りに、スバルの刃が喰らいつく。魔物を素材に《断鬼オーガ》が鍛えた肉厚の剣は、ギルの双剣に劣らない。


 激しく散る火花が二人の剣士の顔を照らす。

 剣撃の衝撃が肉体を通して足元に伝わり、木材の床が砕けて沈んだ。

 拮抗は、刹那だ。スバルはすぐに剣を引き、横に跳んだ。力比べを避けたのではなく、背後から迫る風切音に気づいたからだ。

 初めにスバルがかわした投げナイフは、自然法則に逆らって反転し、その背を追っていた。標的を失った切っ先が向かうのは、ギルだ。

 だが自らの得物で自傷するほど英雄と呼ばれた男は迂闊うかつではなかった。投刃は曲線を描いてギルを迂回し、スバルを付け狙う。


 変幻自在の軌道で飛来する飛び道具を迎え撃つのは、剣ではない。

 鞘だ。

 スバルは片手に剣の鞘を掴み、力任せに薙ぎ払った。鈍い響きを立てて投刃を防ぐと、再びギルへと肉薄する。


 まるで狂犬だ、とギルは戦慄した。

 スバルが鞘を使ったのは、剣が間に合わなかったからではない。防御に剣を振ることで、攻撃の手数を減らすことをいとったからだ。

 剣とは、人が振るうものだ。

 しかしスバル、そしてギルの記憶に刻まれているリゲルの生きざまとは、孤高の獣だった。目につく者を爪と牙で引き裂くことしか知らない魔獣だった。


「魔物じみているのは、お前も同じだ。スバル……魔族の息子よ」


 ギルが交差させるように振り下ろした双剣を、剣と鞘が防ぎ止める。間近に迫ったスバルに向けて、ギルは吐き捨てずにはいられなかった。

 畏怖すら滲む言葉を、スバルは鼻で笑い飛ばす。


滑稽こっけいだな。あんたは悪魔に魂を売り、俺は身体の半分以上が魔族の血肉で作られてる。それなのにお互い、世界の行く末がどうこうなんて戯言ざれごとを言ってるんだ」


 膂力りょりょくでは互角。

 二人が得物を引いたのは同時だ。

 そして、再び得物を繰り出すのもまた、同時だった。


 まるで、そうなることを示し合わせたような剣舞が展開される。

 剣風に舞い上げられた埃が、同じ風に吹き散らされる。荒い呼気と刃の衝突する音だけが廃墟の中を木霊する。

 二人の武器は幾度となく敵の肌を掠め、そのたびに黒い血が床に落ちた。どろりとした色は影と同化して静かに広がっていく。


 鏡合わせの軌道で放った鋭い刺突が、相手の剣とこすれ合って激しい火花を生んだ。切っ先はスバルの頬を、ギルのこめかみをわずかに削り取る。

 ほんの一瞬の静寂。二人の血が、二振りの剣を伝って流れていく。

 スバルとギルは剣を引き、大きく飛び退った。乾燥で傷んだ床板が、ぎしりときしむ。


「……建前だな」


 ギルは、小さく呟いた。

 スバルもまた、頷いて続ける。


「あぁ。建前だ」

「人だろうが、悪魔だろうが、なんの関係もない。世界のためでも、誰かのためでもない」

「俺達は剣を振るう理由を探しているだけだ」


 戦いに身を置くことでしか糧を得られない生まれながらの戦士。他者を傷つけることでしか生を実感できない異常者。そういった人種は、冒険者にはごまんといる。スバルやギルも例外ではない。

 しかしギルは瞑目めいもくし、静謐せいひつな声で言う。

 それが、現在まで生きてきた自分の、今まで殺してきた人々にとっての手向けだと信じているように。


「だが、俺にとっては、その建前こそが重要だったのだ」


 周囲に浮かんでいる無数の刃が蠢き始める。これまでにない動きに、スバルは警戒心から攻めあぐねた。

 瞬間、ギルは踏み込んだ。

 重戦車を思わせる迫力の突撃から、大きく振り上げた剣を袈裟切りの軌道で打ち下ろす。


 空を裂く音は、複数だ。

 咄嗟に後退したスバルの眼前を刃が通り過ぎる。ギルの剣筋をなぞるように、浮遊する剣が降り注いだのだ。

 まるで、刃の滝だ。

 飛来する切っ先の点の攻撃と違い、流れる斬撃は線の攻撃だ。それが無数に迫れば面の攻撃となる。更には、一つ一つが熟練した剣士の放つ必殺の剣撃に匹敵した。


 そのおそるべき刃の奔流が、連続する。

 スバルはギルを視界に捉えたまま、建物の中を駆けた。反撃の糸口を探しながら、手当たり次第に壊れた調度を投げつける。

 ギルの周囲に浮かぶ剣が、苦し紛れの悪あがきを自動的に撃ち落とした。頑丈な木材で作られたはずのテーブルや椅子は瞬く間に細切れとなる。スバルの肉体をもってしても、まともに受ければ一瞬で挽肉ひきにくに変わるだろう。


 無様に逃げ惑うスバルを、ギルはわらわない。

 双眸そうぼうたたえているのはただ、敵を殺すという冷たい意志だけだ。

 やがて、スバルは壁際に追い詰められる。左右に逃れようにも、ギルの浮遊する剣がそれを許さない。


「これで終わりだ。スバルよ」


 大上段に構えた二振りの剣が、雷と化して落ちる。

 スバルは鞘を放り捨て、両手に握った剣でギルの双剣を防ぎ止めた。だが、宙を舞う無数の剣を遮るものは、なにもない。


 ギルが必殺を確信し、まさにスバルを引き裂こうとした、その瞬間だった。

 複数の衝撃が虚空で炸裂し、ギルのしもべである投刃の群れを打ち払う。

 驚愕の呻きは、ギルのものだ。


「そういう台詞は、死体に向かって言うもんだ。こういうときに格好つかないからな」


 そしてスバルは、笑った。

 ギルの剣を力任せに押し戻し、返す刃で一閃する。


 黒く脈打つ心臓を的確に狙った剣を、ギルはすんでのところで防いだ。

 防御と同時に、魔族の力で投刃を操る。攻撃後の隙を晒したスバルを確実に切り刻めるはずだった。

 それも、前兆なく発生した小爆発が弾き飛ばす。

 剣の群れは不規則に回転しながら吹き飛び、スバルとギルの身体を掠めては壁や床に突き立った。


 詠唱のない魔法――――その存在を、ギルは失念していたわけではない。魔族にくみすることを最後の最後まで拒み、しかしスバルに打ち勝つためだけに黒い血を受け入れた《断鬼ウォード》すら倒した業を。

 だが実際に、戦っている最中に直面すると、衝撃は計り知れなかった。

 動作の停滞は皆無。無きに等しい目線や手指の動きだけで、人間の世界に存在しない法則の現象が展開される。

 魔族の眷属に身を落とし、曲がりなりにも異界に触れてきたギルだからこそ、動揺を隠せない。


「これが魔導を極めた者の……《魔法使いメイガス》の業か!」


 魔導の極致に至りながら、魔法使いギルド《カルラ教団》を滅ぼし、魔法を失伝させた魔女リーゼ。その奥義を目の当たりにして、英雄ギルですら驚嘆を禁じえなかった。


「そんなに大したものじゃないさ」


 うそぶきながら、スバルは指で中空に線を描いた。

 一陣の風が刃と化してはしり、まさにスバルを狙ったナイフを跳ね返す。そして自らが握る剣で、ギルへと果敢に斬り込んだ。


 この戦いを目撃した者がいるならば、目を疑っただろう。

 必殺の斬撃が間断なくぶつかり合い、火花と、黒い血の散る光景を。光刃が空中で自在に舞い、神業がごとき魔法が展開される光景を、まさか現実のものだと信じられないだろう。

 狙いを外れたギルの刀剣が周囲を切り刻み、スバルの魔法の余波が転がる調度を弾き飛ばした。壁が軋み、天井が揺れる。踏み込みの強さに床板がめくれ上がる。

 せめぎ合う刃の衝撃は、この街全体まで轟くようだ。


 神話に語られる神々の戦にも思える死闘は、ギルが優勢だった。

 初めはギル自身の剣撃をなぞるようだった他の刀剣達が、それぞれ不規則な軌道を描き始める。速度も精度も、スバルの魔法を上回り始める。

 どろり、と血がギルの顎を伝った。

 異能力の行使が負荷を与え、限界を超えたのだ。眼球の毛細血管が破裂し、黒い涙のように流れ続ける。


 ギルは右手の剣でスバルの斬撃を受け止め、逆の剣で猛然と突き込んだ。豪風をまとった切っ先はスバルの二の腕を削り取るだけに留まるものの、攻撃しか知らない男を引き下がらせることに成功する。

 スバルは降り注ぐ刃の雨を踊るようなステップで躱すが、ふと、顔色を変えて身を投げ出した。

 ほんのわずか、遅い。

 床板を突き破り、足元から強襲してきた数本の刃が、スバルの脚を斬り裂いた。


 転がる勢いで素早く立ち上がったスバルの眼前には、既にギルが迫っている。

 二本の剛剣は不安定な姿勢で受け切れるものではなかった。横薙ぎの二閃を刃で防いだスバルは木っ端のように弾き飛ばされ、壁に背から叩きつけられる。


 ギルは、駆け出そうとした。一気に勝負を決める心積もりだった。

 だが、足を止めた。

 スバルの眼を見てしまったからだ。

 劣勢を劣勢とも思わず、死の瞬間まで敗北を認めない、鋼鉄の意思を湛えた瞳を。


「そう焦るなよ」


 その言葉で初めて、ギルは胸の内でくすぶる苛立ちに気づいた。

 スバルに与えた脚の傷は浅く、黒血の治癒力をもってすれば行動を妨げるほどのものではない。力ずくで壁際に追いやったはいいが、スバルは既に体勢を整えている。すぐに攻勢に出ても事態は好転しなかっただろう。

 ここは、決着をく場面ではなかった。ギルほどの剣士ならば、それがわからないはずはない。

 だというのに、なぜ焦燥に駆られているのか。

 ギルは、その正体を知っていた。


 壁から離れたスバルが、疾駆する。

 ギルは両手に持つ双剣で剣撃を防ぎ、動きを封じると同時に、魔族の力で操った投刃をスバルに放った。魔法の迎撃。先程から繰り返された攻防。

 だが、違う。

 ギルの背を冷たいものが貫いた。それはあるいは、恐怖だったのかもしれない。


 スバルの剣技は、冴えを増していた。

 剣を振るうごとに。

 呼吸をするごとに。

 心臓が鼓動を打つごとに。

 またたきをするごとに。


 おそるべき剣士だと思っていた。魔法使いの叡智えいちを受けて生まれ、剣聖の手解きを受けて育った強靭な戦士だと思っていた。

 しかし、本当にギルがおそれたのは、彼が未だ完成されていないという事実だった。

 今この瞬間にも、スバルは強くなりつつある。

 この男、一体どこまで強くなるのか――――敵に対する畏怖によるものか、あるいは高みを目指した同じ剣士としての思いか。悪魔のものではない、ギル自身の心が強い感情に打ち震えた。


 徐々に、押され始める。スバルの振るう、ウォードの手になる黒金の剣が、ギルの双剣を上回り出す。

 気がつけば、魔法の気配がない。

 網の目のように張り巡らされた、小さな獣すら逃げ場もないだろう刃の結界。その中でスバルは、ただ一振りの得物だけを頼みに剣の舞を演じている。


「馬鹿な」


 知らず、ギルの喉から零れた狼狽ろうばいは、スバルには届かなかった。

 今のスバルは、まさに剣だった。

 飛来する投刃の音と気配、ギルの一挙手一投足を捉えるために、五感が不要な情報を拒絶していた。

 得物に神経すら通ったようだった。時間の概念すらも曖昧になっていた。


 薙ぎ払ったスバルの剣がギルの投刃を打つ。弾いた刃は別の刃とぶつかり、軌道を乱した。

 ギルの斬撃を受け流し、同時に半歩右へ。こめかみを剃刀かみそりほどの大きさの暗器が掠めた。

 後ろへ踵を振り上げ、背後から襲いくる短剣を跳ね返す。

 頸動脈を目掛けて飛来する円月輪――スバルは、拳を使った。殴りつけた刃が、頭上へ弾かれる。一瞬でもタイミングがずれれば、少しでも角度を誤れば指が落ち、首が裂けていた。そんな最悪の可能性など今のスバルには脳裏によぎることすらもない。

 無理な体勢で回避したところを、ギルの双剣が狙った。横薙ぎと、袈裟切りの斬撃だ。スバルは姿勢を落とし、大木すら裂断しかねない横一文字を躱した。頭上を通り過ぎる烈風。同時に、スバルは床を這うほどに低い軌道の一閃を繰り出している。


 ギルは判断する。自らの剣がスバルの脳天を割るより、スバルに両足首を切断される方が早い。振り始めた剣を腕力で抑え、後退する。二つ名の象徴である千剣を防御と牽制のために呼び戻す。迂闊に攻め込んでくれば、今度こそ全身を切り刻むという殺意に満ちた陣形だ。

 そこに、スバルは飛び込んだ。

 あまりにも無謀な攻勢に息を呑んだのは、対峙するギルの方だ。


 驚愕は隠せないものの、油断はなかった。それでも千剣がスバルの突撃に対応できなかったのは、そのすさまじい速度が原因だ。

 まるで無数の刀剣が、スバルの鬼気に当てられて怖気おじけづいたようだった。多くの刃がスバルの皮膚を斬り肉を裂くが、致命的な損傷は与えられなかった。

 瞬きのいとまもない。スバルの姿はギルの眼前に現れ、斬撃は既に放たれている。

 疾風迅雷の速度を乗せた一撃が、双剣の上から剛力を叩き込む。低い唸り声。受け止め切れなかった威力に、ギルの足が後退する。


 ギルは間近にあるスバルの黒瞳が、燐光を帯びたように感じた。まさか、と思った直後には、身体が宙に浮いている。一瞬遅れて全身を激痛が襲い、轟音が鼓膜を叩いた。

 二人の間にあった狭隘きょうあいな空間で、スバルの魔法による爆炎が炸裂したのだ。

 刹那、意識が飛ぶ。後頭部の鈍痛は柱に打ちつけたせいだ。気がつけばギルはギルドの建物を支える支柱に背を預け、座り込んでいた。

 身体に力が入らなかった。打ち所も悪かったが、なにより、魔族の力に頼り過ぎたために肉体がむしばまれていたのだ。


 スバルは、既に立ち上がっていた。

 自らの魔法で額が裂け、半面を黒く染めていても、瞳のぎらついた光は輝きを増すばかりだ。


 その周囲にギルの千剣が浮かぶ。

 四方八方、頭上から足元まで、大小様々な刀剣がスバルを狙っていた。

 風切音が、この戦場を埋め尽くす。


 可視化された殺意の群れが迫る中――スバルは、自分の剣を手放した。

 軽いステップで、数本の刃を紙一重で回避する。

 スバルは、手を伸ばした。

 飛び去るショートソードの柄を五指で握り込む。


 ギルの念動力を腕力でねじ伏せ、心臓を狙った投げナイフ、毒の塗られた暗器を剣で弾いた。

 そして、スバルはギルを見た。

 意図を察したギルは、目を見開く。千剣を操る力は、すべてが防御のために費やされた。

 どん、と重い響きは、スバルの投擲とうてきしたショートソードがギルの肩口を貫いて柱に突き立った音だ。ほんのわずかでもスバルの目論見に気づくのが遅れていれば、それは確実に《悪魔の心臓》を破壊していただろう。


 演武は、終わらない。

 スバルは魔法を受けて地面に転がっていた数本のナイフを素早く拾い上げた。回避しきれないギルの投剣を神速の剣さばきで叩き落すと、すぐさま投げ放つ。

 あまりの速度ゆえか、あるいはスバルの触れた剣は魔族の力で干渉することが難しいのか。それもまた、ギルの肉体を抉る。


 スバルも無事ではなかった。

 防御をなげうった投刃の応酬は、これまで以上にスバルを傷つけた。足元の血だまりは、常人ならば失血死してもおかしくない量に達している。


 気がつけば、どちらともなく叫んでいた。

 二人分の咆哮に紛れて、刃が縦横無尽に駆け巡る。肉の裂ける音。刃が壁や床を打つ響き。血に塗れた闘争の気配が、辺りに充満する。


 ギルは、遂に自らの双剣を手放した。

 二振り一対、《斬り裂く刃ツェアライセン》の象徴である二本の刃が宙を泳ぎ、スバルへと襲いかかる。

 誰も手に持たない浮遊する剣だが、スバルには見えていた。剣を構える男の姿が、髪の毛の一本から、筋骨の軋む音まで、まるでそこにいるように感じられていた。


 スバルは、前へと踏み込む。

 背後を狙う刃の、致命的なものだけを魔法で的確に撃ち落とし、後は無視をした。数本が肩や背に刺さる。身体を切り刻む。だが、なんのこともなかった。前方から迫る双剣だけが、スバルの敵だった。

 足元に転がるスバル自身の剣を蹴り上げて、柄を取る。血に滑る手で、軽く握り直す。


 交差は刹那だ。

 決着も、一瞬だった。

 スバルは、そしてギルもまた、すべてを悟っていた。


 ギルの双剣はあらぬ方向へと弾き返され、力を失っている。その持ち主を守るものは、もはや存在しない。

 紫電一閃。

 スバルの放った、音すらも置き去りにする斬撃が、なにもない空間を両断する。

 無意味な攻撃だ。

 だがスバルの行為には、対峙した二人にとって大きな意味が込められていた。


 矢をつがえたいしゆみのごとく、スバルは尖端を正面に向けたまま剣を構えた。

 陽光を照り返して輝く刃は、神話に語られる神の雷さながらだ。


 やがて撃ち出された音のない晴天の霹靂へきれきは、激しい戦闘に灼熱した大気をまっすぐに穿うがち、堕落だらくした英雄に宿った悪魔の残滓ざんしを貫いた。


 ギルは身体をびくりと震わせ、口腔から墨のように黒い血を吐き出した。

 全身が痙攣けいれんを始める。死の痙攣だ。すがるように宙を彷徨さまよった両の手はなにかを掴むこともなく、遂にはぐったりと地面に横たわった。

 硬質の響きが連続する。ギルの操っていた千剣が、糸が切れたように落下したのだ。


 後に残されたのは静寂だった。

 勝利の余韻、というには、あまりにむなしく、長い沈黙だ。この場所だけが時間の流れを忘れ、永久に静けさの中を漂うのかと思われた。


「すさまじい……力だ」


 停滞を破ったのは、不明瞭な声だった。

 スバルは戦闘の構えすらもせず、ゆっくりと頭を上げるギルを見つめていた。

 ギルに戦う余力がないのは明白だった。心臓を破壊された生物は、たとえ悪魔の眷属であろうとも死にゆくのみだ。


「《暴力ブルート》……いや、まさに……《凶刃ブルーティッシュ・エッジ》、か」

「襲名する気はないぞ」


 心底嫌そうな言い分に、ギルは身体を揺らして小さく笑った。傷口が更に広がり、鮮血が零れ落ちる。


「お前にそのつもりがなくとも、周りは違う。カレヴァンを滅ぼした、黒獅子の息子を……世界は放っておくまい」


 カレヴァンは、世界各国が注目する都市だった。

 危険な場所でありながら、それ以上の恩恵をもたらすと判明した魔領域。その利用方法を研究する最前線が、カレヴァンだ。《冒険者の天国》と呼ばれる魔領域の攻略拠点が国家の枠組みを超えた特殊な立ち位置だったために表立った動きはなかったが、街の住民に紛れ込んだ他国の研究者や諜報員も少なくないという。

 眉唾の伝説でしかなかった開拓者達。一世代前には各地で暴れた冒険者《剣聖リゲル》の息子。もはや、彼らは霧のベールに隠された存在ではないのだ。


「俺達には戦いが必要だ。戦いには……理由が必要だ。しかし……なんでもよかったはずだ。なぜ、そこまで魔族に抗う。それほどの執着もないというのに……世界を敵に回してまで、なぜ」


 スバルは身体に刺さったままだった投刃を抜いて捨て、軽く鼻を鳴らした。

 そして、あっけらかんと言い放つ。


「わからん」


 あまりにも簡潔でぞんざいな答えは、瀕死のギルをすら唖然とさせた。

 頬の血を乱暴に拭うスバルは、回答の曖昧さとは裏腹に決然とした表情をする。迷いも、疑念も、鬱屈うっくつした怒りさえ、遠い場所に置き去りにしたようだった。


「あんたの言う通り、世界の行く末なんてどうでもよかった。テオの企みにも興味はなかった。この街にきたのも、偶然と気まぐれさ。俺は俺の生きたいように生きるだけだった」

「過去形……か」

「あぁ。今は、なにか違う気がする。それがなんなのか、自分でもわからん」


 そしてスバルは、笑った。

 脳裏に浮かぶのは、アリアだった。

 殺さなければ生きられないのなら、殺す以上の命を救う。あまりにも身勝手で傲慢な、しかしどこまでも真摯な祈りを秘めた、黄金色の瞳だった。


「――――わからんが、なんだか良い気分なんだ」


 ぱき、と硬い音がする。

 散らばったギルの千剣が、独りでに砕けていく。割れた破片さえ消えていく。魔族の力を強く浴びたせいか、物質として存在し続けることができなくなったのだ。

 その現象は、ギルの身にも起きていた。

 指先から、足の爪先から、身体が消失を始めている。装備も、流れた血さえも。


「迷いは、ないのだな」


 四肢を失い、胴体も溶けつつある中で、ギルは安らかだった。

 光をなくした目には、既にスバルの姿は映っていないのかもしれない。それでも彼の眼差しはスバルを、そしてあるいはもっと別のなにかを見つめていた。


「ならば行くがいい。お前達を止められる者などいない。望むがまま、壊し、殺すがいい。向かう先に理想があるというのなら……どこまでも世界を切り拓くがいい!」


 振り絞るようにえた後、ギルはがっくりと項垂うなだれた。心臓が消え、頭すら消えてなくなる。バートランド・ギルの存在が、消滅していく。


「開拓者よ……《切り拓く剣》を持つ者達よ」


 その声が、彼の最期だった。

 柱に刺さったスバルの剣が、確かに生きて戦い抜いた老兵をいたむように、墓標のごとく黙然もくねんとしていた。


 スバルはしばらく立ち尽くし、やがて歩き出す。

 鞘を拾い上げ、引き抜いた剣を納める。後にはスバルの流した血と完膚なきまでに破壊された冒険者ギルドがあるだけだ。


 ギルの存在は、歴史の中に残るのだろう。彼の成した偉業だけが燦然さんぜんと輝き、魔族の眷属に堕落したことも、開拓者の手にかかって死んだことも知られずに埋もれるのだろう。

 バートランド・ギル。いずれ神話となる時代を生きた英雄。その名は、誰にけがされることもない。

 彼が迎えた終焉は、決して偉大なものではなかった。悪魔に魅入られた後にさえ、彼に平穏が訪れることは一度としてなかった。

 だが彼が永遠に伝説として語り継がれるだろう未来は、彼にとって数少ない救いだった。


 スバルは身をひるがえし、ギルドを後にする。

 そのとき、大きな振動が足元を突き上げた。

 街全体がわずかに浮いたのではないかと思うほどの衝撃だ。


 スバルは直感した。

 《霊樹》が倒れたのだ。

 魔領域《空の森》で最大の大樹にして、英雄の覇道が始まった樹が――今、死んだのだ。

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