切り拓く剣の詩

5-1.最後の秘匿

 マントで身を隠したスバルが、雑踏の中を足早に通り抜けていく。

 すれ違う住民達は皆、一様に張り詰めた顔をしていた。彼らが担いでいる大荷物は、引き払った住居から持ち出した全財産だ。ここのところ頻発している強盗にわないまま旅立てるか、誰もが不安に駆られている。

 焦燥に突き動かされた人々の冷たい熱気に汗が滲み、スバルは頬を乱暴に拭った。湿った肌は、すぐに乾くだろう。空を見上げれば雲一つもない青空が広がっている。熱帯雨林気候のカレヴァンが初めて経験する強烈な陽光は、建築物に使われている木材を容赦なく痛めつけた。木々が放つ特徴的な香りは異臭となって街を覆っている。


 開拓者の来訪と、魔物の大発生、そして魔族の出現――――カレヴァンを襲った未曽有みぞうの大変動は、ただの一日にして、すべてを変えてしまった。

 あれから数日が経った現在でも、街は騒乱の中にある。

 かつての秩序は影も形もなく、破壊の音と悲鳴が常に響き渡っている。略奪や暴動が頻発し、魔物から逃れた無辜むこの民はおびやかされ続けている。治安維持部隊が壊滅した今、彼らを守る者は誰もいない。

 住人達はこぞって戦える人間を雇い、南門に押し寄せていた。カレヴァンを脱出するためだ。需要過多の状況を見た傭兵などが料金を吊り上げてトラブルを起こしたり、同業者同士が客を巡って殺し合ったりすることも珍しくなかった。


 街の復興に取り組む動きは、皆無だ。

 ずん、という衝撃が下から突き上げた。

 人々は身体を震わせて怯えるが、混乱する様子はない。この数日間、絶えずカレヴァンを揺らしている振動だ。昼夜を問わずに頻発する怪現象は、皆に中途半端な慣れと、精神的な負担だけを残していた。


 それは《空の森》で大樹が倒れた証だ。

 千年も以前から存在し、永劫えいごうに生き続けるかと思われた魔領域《空の森》の巨大な木々達は、急速に死につつある。葉は落ち、幹は折れ、根は腐った。空中庭園は崩れ、下層に広がる水源は小さな虫すらも棲めないほどに濁った。魔物も、魔物以外の動物も、森を捨てた。

 《空の森》は死んだのだ。

 森の恩恵で発展していたカレヴァンには、もはや生き残る術がない。この街で生活していた人々はそれをよく理解していた。


 しばらく歩くと、いつの間にかスバルの周囲から人影は消えていた。魔物の襲撃の影響が色濃く残りながらも辛うじて人の営みが見られていた街並みは、荒れ果てた廃墟の景色に変わる。

 街の中央部には、今では火事場泥棒さえも近寄ろうとしない。魔物が無数に噴き出てきた悪夢を忘れたいのだ。


 やがて、あの大穴が見えてくる。

 スバルは大穴のすぐ近く、崩壊に巻き込まれなかったある建物の前で足を止めた。

 カレヴァンの繁栄の象徴。英雄が頂点に座す、街の中心。

 倒れたドアを踏み越えて、入り口をくぐり抜けていく。


 バートランド・ギルは、陽溜まりの中で立ち尽くしていた。

 冒険者ギルドを満たしていた活気ある喧騒は既に失われている。

 冒険者達が談笑を楽しんでいたスペースには、魔物の襲撃と、その後の略奪で破壊された調度が転がっていた。壁や天井に空いた大穴から乾いた風が吹き込み、埃を舞い上げる。しん、と静まり返った空間は砂塵の積もる音すら聞こえるようだった。


 すべてが変遷へんせんしたカレヴァンで、最も大きく変わってしまったのは冒険者ギルドだろう。

 ただ一つ変わらないのは、英雄バートランド・ギル、その人だけだった。

 腰に下げた長大な双剣。《千剣》の二つ名に語られる、全身にまとった投げナイフ。滅びつつある街にありながら、あらゆる装備は常に万全の状態を保っている。

 まるで、未だ戦場に立っているかのように。


「カレヴァンの雨は止んだ。二度と降ることはない」


 静かに、ギルが呟いた。

 そしてゆっくりと振り返り、続ける。


「お前がやったのだ。スバル」


 スバルは無表情でギルの言葉を受け止めた。脱いだマントを無造作に放り、脚の折れた椅子や机を蹴飛ばして、ギルと少しの距離を置いて対峙する。


「森は死に、そこにんでいた動植物も死ぬ。街は滅びつつあり、数え切れないほどの人が路頭に迷っている。気候も、地形すらも変わってゆくだろう。すべては開拓者が……お前が原因だ」


 天井の大穴から差し込む陽光の下で、ギルは淡々と続けた。光はギルの面に濃い陰影を生み、年老いて疲れ果てた英雄の悲哀を浮き彫りにする。


「わかってるさ。そのために俺はカレヴァンにきた。たとえ自分以外の大勢が危機に晒されることになっても、魔族を殺すために」


 スバルは鋭い呵責かしゃくを受けながら、しかし黒瞳には欠片ほどの後悔もなかった。自らの行いがなにを引き起こすのか、スバルは十分すぎるほど理解している。

 明るみにいるはずのギルは、暗がりにいるスバルを眩しそうに細めた目で見つめていた。

 かつてスコールの中で対峙したスバルは、ただの《暴力》の権化だった。立ち塞がる障壁を壊すことのみを目的とする気まぐれな厄災だった。今は違う。あのときにはなかった強い覚悟がスバルの面を彩っている。


「罠にめられた父親の、復讐のためか」

「そんな馬鹿な。親父のことなんか知ったこっちゃない。ここにきたのは、あくまで俺の意思だ」


 鼻を鳴らして、スバルはギルの眼に宿ったくらい情念を笑い飛ばした。たとえ自らの父と、カレヴァンの英雄の間に確執かくしつがあったとしても、自分には関係ないことだと割り切っていた。


 その上でスバルは、おもむろに剣を抜く。

 黒鉄の色をした刃が、影の中でぎらりと煌めいた。


「そして俺の戦いは、まだ終わっちゃいない」


 ギルは静謐な瞳でスバルと向き合う。

 そこにあるのは突然に敵意を露わにされた困惑ではなく、理解と、こうなることを予期していた納得だけだった。


「いつから気づいていた」

「最初にあんたと戦ったときだな」

「なぜ」

「なんとなくだ」


 簡潔な答えにギルは目を丸くすると、すぐに苦笑いで身体を揺らした。

 笑いの衝動に身を委ねながらも、腕にベルトで固定していた投刃を手に取る。鞘から解き放たれた鋭い切っ先が、陽光を鮮やかに照り返した。


「リゲルも、よく同じようなことを言った。お前らは、いつもそうだ。なにも知らないくせに真実だけを嗅ぎつける。まったく……忌々しい親子だ」


 吐き捨てる、というにはあまりに優しい口調でギルは言う。

 ぞんざいに捨てたのは、投刃の方だ。とん、と軽い音を立てて、木目の床に剣先が突き刺さる。ギルは更に別の投擲とうてき武器に手を伸ばした。


「あんな直感と本能だけで生きてるような奴と一緒にするなよ。俺だって、少しは考えてるんだ」

「どうだかな」


 次々と武装を解除するギルを、スバルは油断なく見すえていた。不可解な行動ではあるが、老兵の眼光は敗者のそれではなく、濃厚な闘気がむしろ強まりつつあることを肌で感じていたからだ。


「俺達が殺したのは、《空の森》の地下、あんたが秘匿していた魔領域の魔族だった。《森の天空》の心臓が、まだ残ってる」


 死にながら姿を保っていた魔領域《空の森》。そのからくりとは、心臓を失った魔領域を、地下に存在したもう一つの魔領域が延命していたことだ。

 地中で眠りながらカレヴァンを支配していた古木の魔族は、スバルとアリアの手によって息絶えた。

 では、初めに《斬り裂く刃ツェアライセン》が殺した地上の心臓の行方とは。


 《悪魔の心臓》の正体は、謎に包まれている。

 なによりも美しい宝石、恐ろしい怪物の通称、ただのガラクタ。様々な憶測が飛び交い、過去に魔領域から持ち出された心臓の行方を知る者もいない。

 無論、《空の森》の心臓のも詮索の対象となったが、使い道もわからない以上は人々の関心を集め続けることはなかった。


 ギルは、ついにはベルトごと装備を外し始める。捨てた剣が鞘から滑り落ちて床に散らばった。軽やかな音を立てて鎧の金具を外し、すべてを投げ捨てれば、ギルは厚い布の服をまとっただけになる。

 おもむろにシャツの襟を掴むと、ギルは一息にそれを引き裂いた。

 縦に破かれた衣服の合間に、老兵の肌が晒される。


 そこには、醜悪な肉の塊があった。

 本来なら胸骨がある部分が割り開かれ、空いた隙間にすっぽりと収まっている。肉塊から伸びた異常に太い血管が、腹部や背に張り巡らされている。

 冒険者にしては大仰な鎧の理由が、そこにあった。剣士としての実力が健在であることを誇示する目的もあっただろうが、最も大きな意味とは、この肉体を隠すためだ。

 《悪魔の心臓》――――ギルが殺した魔族の、力の源だった。

 地下の魔族に協力する代わり、自らも魔族の力を手に入れて、カレヴァンの英雄として君臨する。それがバートランド・ギルが魔族と交わした契約のすべてだった。


「文字通り、悪魔に魂を売ったか」

「お前にはわかるまい」


 スバルの皮肉を受けて、ギルは静かに言った。

 揶揄やゆや、憤りはない。むしろ声に秘められていたのは羨望だ。自分とは違う強さを極めた者達への憧憬どうけいですらあった。


「あぁ、わからないな。……わかり合えないなら、どうする」


 金属のこすれ合う耳障りな響きが連続する。

 散乱した《千刃》が、ゆっくりと空中を浮上し始めた光景を前に、スバルは獰猛に目を輝かせた。

 その脳裏にあるのは父の仲間だった男への複雑な思いではなく、不可思議な力と卓越した剣術を持つ敵への殺意と闘争心だけだ。


 ギルは、笑った。

 まるで、三十年前に帰ったようだった。

 政治も謀略も知らない、ただ自らの武力で道を切り拓くことしかできなかった、一介の剣士に戻ったようだった。


「殺し合うしかないな」


 ギルは腰の双剣を引き抜く。魔族の心臓を移植することで手に入れた念動力で、無数の刃を手足のごとく自在に操り、周囲に張り巡らせた。

 《悪魔の心臓》が大きく脈打つ。普段は休眠状態にあったのか、それが動き始めたことで黒い血液が老いた身体に行き渡った。血管が闇の色に染まり、奇妙な紋様となって肌を這い回る。


「だろうな。気が合うじゃないか」


 異形と化した英雄を前に、スバルは怯まない。

 二人の剣士が放つ濃密な殺気がぶつかり合い、晴天の陽光よりも熱く燃え上がった。


 《凶刃のリゲルリゲル・ザ・ブルーティッシュ・エッジ》が頭角を現し、神話以来初めて魔族と人間が対峙した街。

 すべてが始まった街を舞台とした、最後の戦いが、始まろうとしていた。

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