4-20.神話を斬れ

 白霧に覆われた空が、割れる。

 開いた大穴から巨大な塊が落ちてくる光景をスバルとアリアは目撃した。


 それは力なく地面と激突し、湿った音を立てる。大きな地響き。濁った色の液体が塗料をぶちまけるように飛び散った。

 うごめく八本脚が頼りなく震えながら身体を持ち上げる。土埃を貫いて輝く赤光しゃっこうの数も、八だ。


(あれは……霊樹の魔物!)


 クローディアスの声で、スバルは闖入者ちんにゅうしゃの正体を知る。

 《空の森》深奥、霊樹の根元で対峙した大蜘蛛――――魔剣の一撃を受けて底知れぬ奈落へ消えたはずの魔物が、ここに出現したのだ。


 ひどい姿だった。

 腹は破裂し、胸は潰れている。脚は数本が欠けたままで、それ以外も途中で折れかけていた。歪んだ顎の、砕けた牙の間から、絶えず体液を吐き出している。

 満身創痍まんしんそういの魔物が、どうやってこの場に現れたのかは、謎のままだ。

 だが一つ、確かなことがあった。

 なぜ現れたのか、ということだ。


 大蜘蛛は血染めの咆哮を上げ、かつてのように突進を始めた。

 崩れゆく身体が耐え切れないのか、脚のいくつかが千切れ飛んでいく。臓物や肉片がき散らされ、通ったあとには血と体液がべったりと残された。損なわれた肉体は、ただ走るために必要な部分だけが白煙を上げて修復されていく。

 自壊と緩やかな再生を繰り返しながら突撃してくる姿は、あまりに鬼気迫っていた。アリアとスバルは魔族への追い討ちを諦め、迎撃のために構える。


 濃密な憎悪と怨嗟えんさの気配に惑わされ、二人は魔物の目的を見誤っていた。

 赤い八つ目の向かう先にいたのは、スバルとアリアの猛攻によって血溜まりに沈んでいる、魔族だったのだ。


 止める間もない。

 唖然とするスバルらを尻目に、蜘蛛と魔族は正面から激突した。腹に響く重低音が轟き、二体の異形はもつれ合って倒れ込む。


 なにが起きているのか。

 困惑する二人の前で魔族の姿がほどけるように広がった。流動する液体じみた身体に変化し、伸びる触腕で蜘蛛の半身を取り込んでいく。

 スバルとアリアが行動するいとまもないほど、怪物達の変貌は速やかだった。

 蜘蛛の巨躯が激しく痙攣けいれんし、骨や甲殻が砕け、形を変えて再生する。なにかが焼ける音と異臭は肉体の再構成に伴って放出される高熱によるものだ。


 要した時間は数秒に満たなかった。

 ゆっくりと、融合した怪物が起き上がる。その手には触腕を絡み合わせて作り出した得物、長柄の戦斧バルディッシュを構えていた。


「――レッドフォード」


 見覚えのある人物の面影を見つけて、アリアは戦慄を隠せずに呟いた。

 蜘蛛の頭部があった場所から人の上半身が生えている。魔族が変化した無数の触腕で構築されたそれは、スバルとアリアが《空の森》で対峙した男、ライアン・レッドフォードに酷似していた。

 人間と蜘蛛が繋ぎ合わされたような異形の怪物は、満身創痍のままだ。しかし闘志の強さは先程までの比ではない。


りない野郎だな。もう一度、地獄に叩き落してやる」


 スバルは血塗ちまみれの手を服で拭い、気炎を吐いた。

 これが並の冒険者なら、否、それなりの実力を備えていたとしても心が折れていただろう。それほどに魔族の存在感は強大だった。

 この場で立っていられるのは、精神が既に人類のそれを凌駕している者――開拓者のみなのだ。


「スバル。お願いがあるの」

(スバル。頼みがある)


 一つの声と、もう一つの思念が、まったく同じ波長でスバルに届いた。

 敵から意識を外さないまま、スバルはアリアを横目にする。


 アリアは泣きそうな顔で、しかし悲壮な決意を秘めた目でスバルを見つめていた。

 特徴的な白銀の髪と黄金色の瞳に黒い波紋が広がっている。魔剣は輪郭りんかくを失って溶け出し、彼女を包み始めていた。


「これから私の身に起こることで、私を嫌わないで……」

(これから私の身に起こることで、私をいとわないでほしい)


 アリアとクローディアスは混じり合い、一つになろうとしている。

 彼女らの意図も思いも、スバルにはわからない。

 だが、なにを言うべきなのかはわかっていた。


「馬鹿だな。仲間だろ」


 口のを吊り上げて、軽い口調で笑い飛ばす。それだけでアリアの表情は氷がけたようにほころんだ。

 そして、彼女は唐突に跳び退る。一息に長い距離を取ると、ぐっと身体を屈めた。


 大きな衝撃が吹き荒れる。

 獣の咆哮だ。

 発生源は、アリアだった。

 白靄の世界へ反逆するように魔剣クローディアスから黒い力が溢れ、アリアを呑み込んで肥大化していく。


 突然の異常事態を見ているのは、スバルだけではない。

 対峙している魔族もまたアリアの変貌を感知すると、蜘蛛の脚を蠢かせて猛然と迫った。レッドフォードの姿をした上半身がバルディッシュを振り被り、既に自らと同じほどに膨れ上がった靄に襲いかかる。


 まさに巨大な半月の刃が空を裂いた瞬間、魔剣が生んだ黒い塊の中から、なにかが飛び出した。

 それは、まるで黒曜石を剣の形に割ったような代物だ。叩けば砕けそうに頼りない刀身がバルディッシュに真正面から喰らいつく。

 剣を握る手には長い爪が備わり、腕は鱗の鎧が覆っていた。


 黒霧が晴れる。

 現れた巨影は強引に魔族の懐に飛び込むと、突進の勢いを乗せた体当たりを見舞った。

 どん、と鈍い音を残して後退する魔族を、大きな黄金色の瞳がめつける。

 すさまじい巨躯、漆黒の鱗、筋骨隆々とした四肢、鋭い爪、前に突き出した顎に強靭な牙――――そして、長大な剣。

 それは、魔剣を持つ獣そのものだ。


 あまりに醜悪な姿だった。

 姿形と極端な前傾姿勢は肉食獣を思わせるが、てらてらと艶のある鱗は爬虫類のもので、長い手足は人間の特徴を残している。一体どこに、このような生物がいるだろう。どの獣よりおぞましく、どの魔物よりもいびつで、異質な存在だ。

 だがスバルは、破壊の限りを尽くすために洗練された、純粋な力の権化ごんげの美しさを感じる。

 これこそが、魔領域の攻略地点として栄えた城塞都市アルバートを一夜にして滅亡に追いやった黒き獣なのだ。


 獣は、あまりに不安定だった。時折、体の一部が白い世界に滲んで消える。

 この状態を長く維持できないことは明白だ。だからこそアリアは、魔族と邂逅かいこうしてすぐには獣と化すことを選ばなかった。


「さっさと、片をつけるか」


 スバルは魔族に向き直り、不敵に笑う。魔獣となったアリアは、それが聞こえたかのように小さく頷いた。


 黒き獣はえ方を知らない。威嚇を知らない。知っているのは敵を殺す方法だけだ。

 巨大な身体が、豪風をまとって走る。

 四足獣じみた動きで魔族との距離を詰めると、独楽こまのように旋回し、円の軌道で遠心力を乗せた刃を繰り出す。

 一連の動作は、刹那の間に行われた。巨躯からは想像だにできない速度は、常人など事態を理解することすらできないだろう。


 だが、異形の魔人は反応した。

 音速すら凌駕して迫る黒い剣を、バルディッシュの柄で受け止める。ただそれだけで爆発的な衝撃が放射状に広がり、魔獣と魔族、二人の立っている地面がひび割れた。

 魔族はクローディアスの魔剣を押し返すと、戦斧を巧みに操って斬撃を放つ。一度や二度ではない。付け焼刃には不可能な、確かな技術を感じさせる連撃だ。

 縦横無尽に走る重い刃を、魔獣は剣と爪、硬い鱗で弾く。その度に火花が散り、霧の世界を彩った。


 一対の怪物による激しい剣舞。人間にあらざる者達の死闘は、あまりに奇妙で、そして美しかった。

 剣戟けんげきの応酬は魔獣の後退によって唐突な終わりを迎える。互角の戦いを演じながら、消耗が大きいのはアリアの方だ。身体の一部分にのみ見えた綻びが全体に回り始めている。

 無論、それを魔族は見逃さない。

 魔族の全身から放たれた触腕が、動きの鈍った黒き獣をあらゆる方向から攻め立てた。


 半数を、獣の腕が払い落とす。鋭い爪をある種の力が伝い、長大な五本の刃と化して空間ごと触腕を斬り裂いた。

 もう半数は、不可視の爆発に巻き込まれて砕け散る。


 魔族は視線を下げ、足元にいるスバルを見た。叩けば粉々になりそうな体躯で、しかし類稀たぐいまれな魔法の適性を持つ厄介な存在。

 自らに向けられる敵意に向けて、スバルは凄絶な表情で剣を構える。やってみろ、と言わんばかりだ。

 魔族は安易にスバルの排除へ動くことができないでいた。この場所は人間界とは別の法則が支配している。彼我ひがの質量や体格の差が、そのまま戦力の差に繋がるわけでないと、他でもない魔族自身がそれを最もよく知っていた。


 敵が攻めあぐねる隙に、魔獣は決意した。

 剣先を魔族に突きつけたまま腕を引く姿は、矢をつがえた弓にも似る。

 そして、引き絞られた弓矢は放たれるが道理だ。

 魔獣は瞬間的にトップスピードへ達し、影すら残さずに飛び出した。


 魔族の防御は、間に合わない。差し込んだバルディッシュで軌道をわずかにらしたものの、魔剣の切っ先が肩を貫通する。黒い血潮が弾け、魔族を構成する触腕の一部が切り取られて落ちた。

 獣は、大胆にも剣を手放す。

 体勢を崩した魔族へ、捨て身の突進で肉薄した。


 だが鋭い爪が魔族を捉える前に、獣の全身から鮮血が飛沫しぶく。

 魔族の身体から樹の枝に酷似したものが突如出現し、獣を迎え撃ったのだ。更に枝からは鋭利な棘を備えたつるが無数に生まれ、意志を持つように獣を縛りつける。


 異音が連続し、獣の悲鳴が上がった。骨がきしみ、し折れる。鱗は無残にも割れ、蔓が皮膚に食い込み、棘が肉を裂く。噴き出したおびただしい血が地面を濡らしていく。

 魔族はなおも拘束を強めながら、もはや指一本も動かせない獣ににじり寄った。手には、巨大な斧頭を持つバルディッシュ。

 人外の怪物同士の戦いに終止符を打つべく、魔族は半月の刃を突き込んだ。


 戦斧の一撃が魔獣の命を絶つ、その直前――。

 漆黒の獣の、そこだけが鮮やかな黄金色の眼が、らんきらめいた。


 鞘走りにも似た響きが鳴る。

 霧に満ちた空間に、切断された枝と蔓が乱舞する。


 獣は、全身に刃を纏った。身体を覆う鱗の一つ一つが長大な刀身と化して、自らを縛りつけていた蔓を貫いたのだ。

 拘束が緩んだのは、ほんのわずかだ。しかし魔剣の獣にはそれで十分だった。身体中の筋肉が盛り上がり、身体に巻きつく蔓を引き千切ると、逃げるどころか前進する。

 バルディッシュの先端は魔獣の正中線を逸れた。横に寝かせた半月の刃が胴体と腕を深々と切り裂いたが、溢れ出る闘争心を止めることはできない。


 魔獣は千切れかけた左腕でバルディッシュを抑えつける。妙な方向へ捻じ曲がった右腕を振りかざすと、鋭い爪を備えた五指で魔族の頭部を鷲掴わしづかみにした。力を込めれば頭蓋は落ちた果実のように割れ、脳漿のうしょうにも似た液体が噴出する。

 更に魔獣は、掴んだ頭を強引に引き寄せた。

 ぐしゃり、と鈍い響き。

 無防備にさらされた魔族の首筋に、強靭な顎が喰らいつく。巨大な口は魔族の胸のなかばまでを収めていた。傷口を抉るように獣がかぶりを激しく振れば、魔族の身体が引き裂かれていく。


 魔族は成す術もなくやられるだけではなかった。動かせない身体に代わり、触腕と枝が至近距離で魔獣に襲いかかる。だが手負いの獣は牙と爪を決して離さない。

 すべての血を吐き出さんばかりに、魔剣の獣と異形の魔人はもつれ合った。黒血が混じり、どろりと霧の世界を汚していく。


 アリアとクローディアスの意思を持つ獣は、魔族の苛烈な反撃をまともに受けながらも更に距離を詰め、魔族を上から覆いかぶさるように押さえつける。強烈な荷重に、人間の上半身に酷似した身体を支える蜘蛛の八本脚が折れ、胴体が落ちた。

 壮絶な戦いは、しかし始まった瞬間に勝敗が決定していた。


 このときを、スバルは待っていたのだ。


 地面に広がるくらい血の海を、スバルが全速力で走り抜ける。

 魔獣が敵の行動を止めている、今しかなかった。魔族の足元に到達し、常人離れした脚力で跳躍する。体勢を整えようと不気味に蠢く蜘蛛の脚に飛びつくと、三角飛びの要領で更に跳んだ。無きに等しいわずかな凹凸に手をかけ、蜘蛛の胴体を駆け上る。


 魔族は限りなく不死に近い。弱っているとはいえ、殺し切るには自分達の消耗が大きすぎる。

 このおそるべき怪物を滅するには、急所を叩く他はない。


 激しく揺れる血塗れの蜘蛛の背の上で、スバルは足を止める。

 魔族と魔物、二つの怪物の接合部だ。最もエネルギーが必要だと見当をつけた場所に、やはりあった。

 規則的に脈を打つ肉の塊。伸びる血管が、魔族に特有の濃く黒い血を送り出し続けている。

 《悪魔の心臓》――――魔領域の核にして魔族そのものだ。アリアの変じた魔獣から守りやすい、背の位置にそれは隠れていた。


「心臓を丸裸にする馬鹿は、いないよな」


 スバルは独りごち、剣を構える。

 外敵の接近を感じ取ったのか、心臓が一際大きく波打った。すると血管の集中する一角が盛り上がり、内部からなにかが生まれる。


 出現したものを目の当たりにして、スバルは一つのことを悟った。

 きっと《空の森》の魔族はリゲルを見たのだ。

 とある魔族が気まぐれに創り出した、新たな魔族。人間の姿形で実現できる、最強の戦闘能力を秘めた存在を。

 そして、それを模倣した。


 シルエットは人間に酷似している。

 だが本来なら手があるべき場所には、足元に届きそうなほど長い刃が備わっている。関節の数も、身体のバランスも、人間とは似ても似つかない。中途半端に人の姿を模しているためか、生理的な嫌悪感を喚起かんきさせた。

 植物の蔓を絡み合わせて作ったような人形は、ぴくりと小さく震えた。まるで眠りから目覚めたような仕草のあと、おもむろに両腕を横に広げる。


 瞬間、かき消えた。

 尋常ではない速度だ。

 スバルの感覚を持ってしても、捉えきれない。


 人形が秘めた力は、あまりにも強大すぎた。

 おそらく一体だけで、地上の大都市を一夜で壊滅させられるだろう。大国の軍隊を易々やすやす殲滅せんめつし、名のある戦士を目につく端から無残に殺害せしめるだろう。

 単純な能力だけで言えば《剣聖ソードマスター》とすら呼ばれたリゲルをも凌駕している。それほどまでに、すさまじかった。


 だが、表面的な強さだ。

 人形は意思を持たない。心もない。

 真の戦士が、刹那の間に閃かせる勘というものが決定的に欠如している。


 首と心臓、的確に急所のみを狙ってきた二つの刃に、スバルは臆することなく突っ込んだ。

 胸に向かう切っ先を弾き、上体をわずかにらす。風切音すら置き去りにする人形の剣先は、スバルの頸動脈を薄皮一枚の差で切断し損ねる。


 渾身の攻撃を外したとはいえ、人形の切り返しは動揺しない分だけ、速い。

 しかし、スバルよりは遅かった。

 一瞬のうちに数度、剣撃がひるがえる。

 人形は頑強で、重量もあった。だがスバルの剣を受け止めるには、それでもまだ不足だ。


 人形は活動に支障が出るほど深く四肢を斬り裂かれ、衝撃で吹き飛んだ。倒れ込まなかったのは、背を魔族の身体に打ちつけたためだ。

 その背後には、脈打つ血管の塊があった。


 肉薄してくるスバルを、無数の反撃が襲う。

 まるで世界のすべてが敵に回ったように苛烈な攻勢だった。

 魔素の爆発が、触腕が、枝が、人形の刃が、スバルを迎え撃つ。


 掠りもしない。

 あらゆる抵抗が、斬撃の嵐を受けて舞い散る。

 まさに《暴力》の化身だ。


(お願い、スバル!)

(行け――――神話を斬れ!)


 スバルは、脳裏にアリアとクローディアスの声を聞く。

 剣を担ぐように構え、疾走の速度と全身の力を乗せる。

 そして、振り下ろした。

 魔族、リゲル、《斬り裂く刃ツェアライセン》。複雑に絡み合った因縁を、断ち切るように。


 魔族が、びくりと跳ねる。

 心臓に刻まれた致命的な損傷が、力を失わせていく。


 アリアの変じた獣は苦悶する魔族から牙と腕を離し、一歩だけ距離を取る。視界の隅でスバルが離脱したことを確認し、伸ばした手で魔族の肩を貫いたままの魔剣を握った。

 そこに全体重を加え、魔族を真っ二つに引き裂いていく。

 ライアン・レッドフォードの面影を宿した身体ごと、あの蜘蛛の魔物をも両断すると、アリアは残された力で魔剣を振り上げた。漆黒の衝撃が、もはや原型を留めてはいない怪物を吹き飛ばす。


 それが、限界だった。

 魔獣は水面に垂れた色水のように薄れて消え、後には禍々しい剣を持った可憐な少女だけがいた。

 ふらり、とくずおれそうになるアリアを、横から差し出された腕が支える。同じ戦いを共に過ごしたとは信じられない力強さに、アリアは感心を通り越して苦笑いをした。


「……なにか面白いことでもあったか?」

「なんでもない」


 きょとん、とした顔のスバルを見上げて、アリアは言った。

 彼女の思いを知るよしもないスバルは肩をすくめると、また前へと向き直る。


 ずだずだに引き裂かれた魔族は、未だに蠢いていた。

 もう力は残されていない。全身を粟立あわだたせるような鬼気も、おぞましい気配も薄れている。

 それでも、魔族は生きていた。

 なんという執念かと、二人は慄然りつぜんとする。

 戦いの最中で目の当たりにした脅威以上に、スバルとアリアは魔族に対して畏怖を覚えていた。

 一体、どうすればこんなものを滅ぼせるというのか、と。


 そのとき、スバルとアリアは振動を感じた。地面を揺るがし、空気を震わせる、小さいが確かな振動だ。

 気がつけば、二人は同時に天をあおいでいた。

 創造主が死に瀕している影響か、空間自体が脆くなっている。白い靄の向こうに、スバルは丸く切り取られた空を見た。


「お節介な奴らだな」


 カレヴァンで戦っていた人々が援護のためにつどっていることを、はっきりと見えずともスバルは確信していた。

 外部から次々と撃ち込まれる攻撃が、この世界を崩壊させていく。


「スバル。お願い、一緒に……」


 アリアは、もう剣を扱う力も残っていなかった。だから魔剣クローディアスを持つ腕を見ながら、少し気恥しそうに言う。

 スバルは彼女の意図を汲むと、小さな手の上から魔剣を握り締めた。


(貴様に使われると思うとしゃくだが、今だけは我慢してやる)

「言ってろ」


 軽口を交わしながら、スバルとアリアは魔剣クローディアスを構える。

 これまでの戦いからすれば、あまりに緩慢で、しかし決定的な最後の一撃。

 黒い刃が空を切る。

 空間そのものを裂断する。


 突如、視界を支配していた白色が消え失せた。

 その後に身体を包み込んだのは、湿った空気。生温なまぬるい風の音。地面の感触。

 魔族が天井に大穴を開けた、地下広間の薄暗い景色が眼前に広がっていた。懐かしい気配だ。緞帳どんちょうを上げたように、仮初かりそめの異世界は死に、現実の世界が帰ってきたのだ。


 二人と魔剣は、魔族を見つめていた。

 なにかを諦めきれないように蠢いていたそれが、ぴたりと動きを止める。あまりに呆気なく、唐突な終焉だった。

 異界から現れた怪物とはいえ、人間と同じ一つの生命体だ。本来いるべきではない環境に瀕死のままで放り出され、生命活動を維持することはできなかった。

 神話の悪魔は、今この瞬間、絶命したのだ。


(これで……終わったのだな)


 酷く疲労したような、あるいは達成感に酔っているような声で、クローディアスが呟いた。

 カレヴァンに辿り着いてからの、激動の日々が脳裏を駆け巡る。楽しい思い出など一つとしてなく、険しく厳しい戦いの記憶だけが浮かんでは消えていた。だがその果てに、この光景を見たのだと思えば、決して悪くはなかったのだと感じてしまう。


「そうだね。でも、始まったばかりなんだ」


 アリアはスバルの腕に縋りながら、息絶えた魔族を見つめていた。

 亡骸なきがらが少しずつ崩壊していく。流れた血潮の一滴さえも空気中に溶けていく。

 魔素だ、とアリアは思った。それは魔領域が生み出し続けた魔素に混ざり合い、別の魔領域へ――別の魔族の元へ向かうのだ。


 戦いは、終わっていない。

 塵一つも残さずに消えゆく魔族を見送りながら、アリアはその事実を強く感じていた。


「後のことは、後で考えればいいさ」


 スバルが呟いた直後、頭上がかげる。

 見れば、大きな鳥が地上から降りてくるところだった。シャルロッテの使い魔が、迎えにきたのだ。

 スバルとアリアは顔を見合わせ、疲れ切った顔で微笑すると、空へ向けて大きく手を振った。

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