4-18.それぞれの戦い

「おい、もう壁の材料になるものはないのか!」

「板でも鉄クズでもいい! とにかくバリケードを……」


 飛び交う怒号を、重い衝撃が遮った。

 カレヴァンの大通りを封鎖していた治安維持部隊の隊員達や兵士達は、必死の形相でバリケードを支える。

 背後には無辜むこの民が避難しているのだ。たとえ死すとも道を開けるわけにはいかない。

 しかし、その覚悟も障壁の向こうに見える光景に揺らぎかけた。


 そこには《空の森》下層にのみ現れる巨大で頑強な魔物達が、隊列を組んで迫っている。

 甲殻を身にまとったものが前衛を固め、後ろには砲弾を放つ《バレルビートル》をはじめとする遠距離攻撃の手段を持ったものが並んでいた。

 複数の種類の魔物が群れることはあれど、これほど統率の取れた戦闘をするという情報は未だかつて存在しない。研究者には興味深い現象だろうが、今まさに直面している隊員達にとっては脅威以外の何物でもなかった。

 初めは小型の魔物が多数を占めていたが、時間が経つにつれて大型の魔物の数が増えつつある。敵は広範囲の殲滅から、生き残った者達への追撃に切り替えていたのだ。


 虫の放つ砲弾は木の皮や捕食した別の魔物の残骸を押し固めたもののため、爆発することはない。それでも即席の防壁は既に限界を迎えており、人力でどうにか決壊を先延ばしにしているだけだ。

 あるいは、隊員達は戦いながら自らの死を幻視していたのかもしれない。

 雨を貫いて伸びる、幾筋の銀色を見るまでは。


「ギルド長!」


 誰かが叫んだ直後、遠くで徒党を組む魔物のいくつもが悲鳴を上げて崩れ落ちる。彼らの急所には、一様に短刀が突き立っていた。

 現れた男、バートランド・ギルは、怯んで攻勢を緩めた魔物達を一瞥いちべつすると、隊員達に向き直る。


「よく戦い続けてくれた。状況はどうだ」

「それが、わからないのです。ここで食い止めるのが精一杯で……」

「あいつらはなんなんですか! あれも開拓者の仕業なんですか!?」


 恐慌の中にある隊員達は、死の恐怖から逃れるようにまくし立てた。

 いつでも明瞭な答えを出して、カレヴァンを牽引けんいんしてきたギルは、しかしわずかな間だけ口をつぐむ。

 やがて躊躇から脱し、意を決すると、老兵は告げた。


「魔族だ。街の地下に眠っていた怪物が目覚め、カレヴァンを襲っている。開拓者は当面の敵ではない。開拓者と連携し、住民達を守護せよ!」


 兵士達は動揺を隠せない。

 自分達の直面していたのは現実の脅威であって、神話ではないはずだった。素直に彼らがそれを受け入れるには、魔族という存在はあまりに現実感がなかったのだ。

 なにより街中を巻き込んで追っていた開拓者と連携とは、これまでの活動と矛盾している。


 隊員達の困惑が疑念や反感に変わっていく様を、ギルは痛いほど感じていた。

 ギルには彼らを説得する手立てもなく、その気もない。

 あるのは、全身に帯びた剣だけだ。


 猜疑心を抱きつつあった隊員達だが、ギルが無言でバリケードに向かったところでさすがに慌てた。

 止める間も、ない。

 ギルは老齢を感じさせない軽やかさで防壁を駆け上がると、群れ成す魔物達の鼻先に身を躍らせた。


 のこのこと姿を現した獲物に砲弾を吐き出そうと構えたビートル達に、鋭い刃が次々と喰らいつく。

 即死するものはわずかだったものの、突然の攻撃を受けて怯まずにはいられなかった。

 そして立ち直ったときには、剣の化身が眼前にいる。


 隊員達には、なにがどうなっているのか、理解が及ばなかった。

 投石や銃弾すら容易に弾いて見せた魔物の硬い甲殻が、剣の一撃を受けて冗談のように砕ける。ギルの剣はそこで留まらず、魔物の肉を深々と裂いて突き抜けた。噴き出す体液が雨と混じり合い、ひび割れた石畳に染み入っていく。


 その石畳が、更なる踏み込みでめくれ上がった。

 巨人のごとき一歩から放つ剣撃は、雷のようだ。


「お……俺達も行くぞ!」

「ギルド長を独りで戦わせるな!」


 時代遅れの英雄――――第一線を退いたギルをあざける者もいた。それが的外れであることを今、誰もが思い知った。

 脅威となる遠距離攻撃をギルが抑えている間に、隊員達はときの声を上げて前進する。


 そこにいるというだけで人を鼓舞し、付き従わせるカリスマ。最強のリゲルですら持ちえなかった力を秘めた千剣の化身が、雨の都で剣の舞を演じる。



 ◇ ◆ ◇ 



 教会は白い霧に包まれていた。

 おぼろげなもやに浮かぶおごそかな建築物は、ともすれば夢幻の光景にも思える。

 だがそれは現実であり、おぞましい死で成り立っていた。


 教会の正面の広場には魔物の体液がぶちまけられ、無残に粉砕された死骸が無数に転がっている。どれもが激しく焼かれており、炭化していたり、未だにくすぶっていたりする。

 街の住人が避難している教会の周囲は生き残った冒険者や兵士が守っているが、皆一様に顔を青ざめさせて地獄の景色を見つめていた。魔物以上の脅威を、目の当たりにしたためだ。


「もう打ち止めか。つまらないな」


 白炎の騎士、リューク・レヴァンスは息を整えながら呟いた。彼の身体はすさまじい高熱を発し、雨を触れる端から水蒸気に変えている。立ち込める靄は、それが正体だ。

 言葉ほどに余裕があるわけではない。戦う前から体力は限界に達しかけていた。それでも今、魔物の軍勢をたった一人で退けたのは、単純な力の差だ。


 彼の背に畏怖と嫌悪の視線が突き刺さる。度を越えた力は、守る対象である民衆にすら恐れられていた。

 だからこそ、近寄ってくる足音が誰のものなのかは見るまでもなくわかる。


「お疲れさまです」


 ローブを雨に濡らした、探索者エレオノーラだ。彼女は戦闘に参加できないが、避難者や怪我人の世話、未熟な冒険者の指揮に駆けずり回っていた。

 自らも疲労の色が濃いにも関わらず、その瞳は深い憂慮を湛えている。今はノーラにも降り注いでくる恐怖の感情についてだ。


「……大丈夫ですか?」

「慣れっこさ」


 リュークは肩をすくめた。慣れる必要もなかった、ともいえる。彼の精神は生まれついてすぐに常人のそれを逸脱していた。

 そんなことより、と白い騎士は嘆息する。


「やっと探し人を見つけたと思ったら、こんな目にうとはね。わからないものだな」


 零れ落ちた呟きに、ノーラは苦笑した。

 探していたというのは、地下まで追ってきたことを指しているのではない。

 二人は決して旧知の仲というわけではないが、薄暗く、強固な繋がりがある。


「恩を着せたつもりはない、と言いましたのに。私にとっては単なる気まぐれだったのですから」


 数年前、公国での一幕だった。

 出会いは偶然だ。リュークは騎士団長としての職務を十分に果たしながら、国内の記録を洗いざらい調べていた。それをノーラに知られてしまったのは不注意による失敗に過ぎない。


 元々、白炎の騎士団を率いた彼の出自は孤児院だった。

 親の元で生活することができなくなった子供は孤児院に預けられるだけではなく、特に優秀な者は貴族に引き取られることもある。そういった孤児は貴族と同等の教育を受けて活躍している――ということになっていた。少なくとも、表向きは。


 リュークが探していたのは、制度を悪用する貴族の正体だ。

 そして幸か不幸か、エレオノーラの家は大公の相談役として国内の事情を誰よりも知悉ちしつしていた。


「君にそのつもりがなくても、俺が恩を感じているんだ。借りは返す。この際、君の思いは関係ないね」

「身勝手な人」


 ノーラは困った顔で微笑む。

 自らが情報を売り渡した騎士が突如として貴族社会に反旗をひるがえし、ある大貴族を一族郎党皆殺しにした事件について、彼女は一抹いちまつの罪悪感も抱いていない。

 その貴族は多くの孤児に対して報いを受けるに値するだけの非道な行いを続けていたし、他の連中も薄々感づいていながら見て見ぬ振りをしていた。現在の大公は決して優れた人物ではなく、大貴族の不正や犯罪を暴くことで起こるだろう国内の騒乱を治めるだけの器はなかったのだ。だから誰もが口を噤んでいた。

 結局、なにかを変えることができるのは圧倒的な暴力だけなのだ。未来視を持つノーラは、人が認めたがらない真理を知っていた。


「身勝手は君も同じだろう? 次期大公の機嫌を損ねた挙句、公国を飛び出して姿をくらませたと聞いたよ。一体なにがあった?」


 先に仇を討ち国から逃走したリュークは、その後のエレオノーラを知らない。彼女が指名手配されていることを知って驚いたものだった。

 彼女の家系には代々《鴉の眼》の異能者が現れたが、頻度は徐々に落ちている。現在では眼を持つ者はエレオノーラのみであり、その能力は歴代で最強と目されていた。だからこそ、多額の賞金を懸けてまで公国は彼女を追っていたのだ。

 問われたノーラは、どこか遠いところへ視線を飛ばし、口の端に皮肉げな笑みを乗せる。


いたのです。最善を選び続けることに」

「それで、どうした」

「自らの意思で、誤った道を進みました」


 自分で望んだものとはいえ、失敗の経験は常に正しい選択をしてきたエレオノーラの心を大きく揺るがせた。

 残りの人生は、すべて誤りの続きでしかないのか。あるいは間違えた先に別の道が見えてくるのだろうか。彼女は生まれて初めて惑い、《鴉の眼》を持たない常人を羨んだ。

 迷った末に、最悪の道を選び続けた果ての景色を知りたい、と願ってしまったのは、そもそも《鴉の眼》を持つことで歪んでいた彼女にとっては当然の帰結だった。


「間違えた結果、私はカレヴァンで死ぬものと思っていました。しかしあなたが私を助けた。そして魔族の存在は暴かれ、街は絶望の中にありながらも、スバルさんとアリアさんが最後の戦いに赴いている」

「確かに、こんな光景には正解を選んでいては辿り着けないだろう」


 二人は苦笑を交わし、同時に決心をする。

 異能力を抱いているせいで、まともな人間として生きられないと悟っていた。だが、だからこそできることがあると。


「世界には、最悪の道を望んで進みたがる人達がいる。その先にしかない敵を……魔族を滅ぼすために」

「彼らにくみすることができるのは、壊れた人間しかいないな」


 リュークは鎧の上から《切り拓く剣》に触れる。

 この街にきてから起きた出来事は、彼の中にある暴力への欲求を満足させて有り余るほどだった。《剣》は思い付きでテオに要求したものだったが、自分はそれを所持するべきなのだとリュークは考えている。


 数奇すうきな人生を歩んできた二人は、ここでついに進むべき破滅の道を見出した。

 その行く手を遮るように、地面が強く揺れる。

 リュークは気配の方へ向き直ると、勘弁してくれ、と小さく呟いた。

 《空の森》下層に表れる魔物達。今も街中でギルや治安維持部隊の生き残りが対峙している大群が、住民の避難所にまで押し寄せてきたのだ。


「エリー、戦える者に指示を!」


 魔物の一部には、即席の砲弾や巨大な毒針を放つものが混ざっている。すべてを一人で防ぎ切るのは困難だった。

 この街を覆う黒い霧は、物理法則に従っている。もし魔物が住民達の隠れる教会の壁を破壊したなら、穴から霧が入り込み、教会内に魔物を作り出すことが考えられた。迎撃が遅れれば、無力な住民はなす術もなく食い殺されるだろう。それだけは避けねばならなかった。


 だがノーラは、なぜか対処の必要を感じなかった。理屈ではない感覚が、そのことを告げたのだ。

 魔物の群れの中から放たれたいくつもの弾丸が、空中で突如として爆砕する。

 怒涛の勢いで進撃していた魔物達も、見えない壁にぶつかるように蹈鞴たたらを踏んだ。


「一体、なにが……?」


 唖然とする二人は、ほとんど同時にこうべを巡らせた。

 いつの間に現れたのか、そこには人影がある。豪奢ごうしゃなドレスをまとった、長身の女性だ。

 ただならない雰囲気を漂わせる女だった。仮面のように整った顔もあいまって、現世と隔絶したような存在感を放っている。まるで彼女の上に透明の傘があるように雨水が奇妙な軌道で流れ、長いドレスの裾には泥の汚れが一つもついてはいない。


 この自然現象を超越した光景も、先程の魔物の攻撃が防がれたことも、間違いなく異能によるものだ。

 なにより、女はドレスに《切り拓く剣》を飾りつけていた。

 思わず警句を上げようとしたリュークを、しかしノーラの手が制止する。


「私は、エレオノーラと言います。あなたは?」


 知り合いの子供に接するような、優しい声音で誰何すいかした。

 周囲を圧倒する威圧感を振りまく女だが、ノーラは気づいていた。切れ長の目はうつむき加減で、瞳がせわしなく動いている。口元は震え、呼吸は浅く速い。


「……ウルフ、だ。加勢する」


 硬い口調だが可憐で、雨音にすらかき消されそうに儚い声だ。

 そこでリュークもようやく感づく。ウルフという女は、ひどく緊張して、辛うじてそこに立っていたのだ。


「教会は、私の結界が守る。だが、私には戦う力はない」

「いや、それだけでも十分だ。あとは俺がなんとかする」

「だから、《狂戦士バーサーカー》を連れてきた」


 その言葉と、どちらが早かっただろうか。

 爆音が轟き、薄暗い街の景色を紅色に染め上げた。


 ウルフという女が作ったという結界の外に、大男が飛び込んでいる。彼は巨大な剣を右手に、輝く短刀を左手に持っていた。

 右の剛剣もすさまじいが、なにより異常なのは光を放つ左の剣だ。リュークの聖剣は使い手の異能を増幅するものだが、大男の剣はそれ自体が強力な力を宿す魔剣だった。


「あれは狂気じみた馬鹿だが、滅多矢鱈めったやたらに強い。あとは奴に任せるといい」


 彼女の言うとおり、《狂戦士》の戦いぶりはすさまじかった。大剣で斬り裂き、魔剣で薙ぎ払う。物語に現れる鬼や魔人にすら見えた。

 たった一人で軍勢に匹敵するという開拓者の逸話を体現したような姿だ。

 それを見て、剣士の血が騒がないはずがない。


「二人でやった方が、手っ取り早い」


 言うが早いか、リュークは戦場へと駆けていた。

 結界は魔物以外のものを容易に通す。《狂戦士》の生み出した煉獄は魔物の甲殻すら溶かすが、身体を炎そのものと変えるリュークにとっては微風そよかぜだ。

 抜いた聖剣が白炎を放ち、魔物達の一角を焼き尽くす。

 魔物と対峙していた《狂戦士》は振り向き、リュークを一瞥した。その力を目の当たりにして、ぽつりと言う。


「やるな」

「あなたこそ」


 二人の戦闘は競うようにヒートアップし、魔物の軍勢を片っ端から灰燼かいじんに帰した。ついでに結界が守り切れない別の建物も巻き添えを食らっているが、お構いなしだ。


「おぉ……馬鹿が増えた」

「張り合ってどうするんですか……」


 ノーラ達は心底呆れながらその光景を遠巻きにしていた。

 しかし呆けている場合ではないと我に返り、教会へ身を翻す。怪我人の手当てや万一侵入を許した際の防衛準備など、やるべきことは数え切れないほどあった。

 なにより、動き続けていなければ不安に押し潰されそうだったのだ。

 魔族――神話の怪物。まともに戦って勝てる者は、今この街に彼らしかいない。


「お願いします……スバルさん」


 祈りを帯びたノーラの声が、曇り空に吸い込まれていく。



 ◇ ◆ ◇ 



 魔物の襲撃という騒動の最中において、おそらくカレヴァン北門は唯一静寂の中にあった。

 周囲に敵は見当たらない。しかし街を覆う防壁の上には大勢の兵士が並び、絶望の表情を隠せずに立ち尽くしていた。


「なんて数だ」


 一人が呟いた。額を冷や汗が伝い、言葉は情けなく掠れた。

 手が震えているのは恐怖のためか、あるいは地響きのためか。


 静けさの原因は、街の外にあった。

 門上からかすかに見える森の姿が、黒く霞んでいる。

 魔物――それも夥しい数だ。

 魔領域から溢れることは稀だとされていた《空の森》の魔物が、一斉にカレヴァンを目指していた。


 北門周辺にいた人々の避難は済んでいる。

 しかし、だからなんだというのか。

 壁が破られれば無数の怪物達が街を蹂躙じゅうりんする。逃げ場などなく、誰一人として生き残ることはできないだろう。

 投石器や大型弩砲バリスタ、少数配備されている最新の大砲で迎撃する準備は整っているが、侵攻を止めることなど不可能だ。


 街中で起こっている騒乱と、この突然の襲撃が無関係なものだとは誰も考えていない。だからこそ、諦観の影に抗うことは難しかった。これほど人智を超えた事象を引き起こせる敵を相手に、なにかできることがあるのだろうか。


「打つ手なし、って感じね」


 誰もが言葉にするのを躊躇っていた事実を、場違いな少女の声が突きつけた。

 配置についていた兵士達は一瞬だけ困惑に囚われ、次に愕然とする。忽然こつぜんと現れた、燃えるような赤毛の女の耳には、開拓者の証である《切り拓く剣》があったからだ。


 彼女――シャルロッテは警戒する兵士の間を悠然と歩いて通り過ぎ、壁のふちに足をかける。

 その意図に気づいた何人かが思わず制止しようとするが、遅い。


「あんたら、私がカレヴァンにいたことを感謝してよね」


 とん、と軽い跳躍で、シャルは防壁の向こうへと飛び降りた。

 常人であれば転落死だが、無論、彼女は常人ではない。

 壁の下を覗き込んだ兵士は、シャルの手から滲んだ影が巨大な鳥を形作る瞬間を目撃する。

 シャルを脚に乗せた巨鳥は徐々に滑空し、壁から少し離れた場所へと彼女を運んだ。


「私も血迷ったなぁ」


 自分でも消化しきれていない感情のうねりに、シャルの呟きは沈んでいた。

 他人など知ったことではない。数少ない信頼できる人々は助けを必要とするほど弱くはなく、シャルは人のために戦ったことなどなかった。そこには必ず自身の欲求や意思があった。

 だが今、《軍勢》の異名をとる災害級の戦士は、街を守るために魔物の大群の鼻先にいる。


 誰のせいか、考えるまでもない。

 アリアだ。

 彼女の放った言葉が、シャルの中に小さく響いた。


 ――生きたいと願うだけで人を殺してしまう。ならば、奪う以上の命を救いたい。

 ――誰かのために道を切り拓きたい。自分のためだけではなく。


 あまりに馬鹿馬鹿しい理想だ。愚かとすら感じた。

 しかし、もし彼女が本気でそれを目指すなら。

 いたずらに死を振りまいてきた自分も、実現のため手を貸すことができるなら。

 悪くはない。

 そう、シャルロッテは考えてしまった。


 柄にもないと自覚をしながら、シャルはぞんざいに指を打ち鳴らした。

 周囲の景色が、黒に染まる。

 カレヴァンを滅ぼすと思われた魔物の大群、その数に匹敵する影の軍勢が地面から湧き出た。


 シャルは戦闘でスバルには勝てない。彼の姉、《魔王アークエネミー》スピカにも手合わせで勝利を収められたことは皆無だ。

 だが、これほどの敵を完璧に制圧できる異能者は、シャルロッテをおいて他にはいない。


 ふと、手に硬い感触が触れて、シャルは視線を落とした。

 そこには黒い獅子が、彼女の使い魔で最強の力を誇るものが、無邪気にじゃれついていた。まるで彼女の変化を楽しんでいるかのように。


「遊んでないで、行ってきなさい。《リゲル》」


 シャルの知る中で最も気高く力強い人の名を冠せられた獣は、少し身動ぎしてから、ゆっくりと歩を進め始めた。

 王者の歩みは、やがて戦士の疾走に変わる。

 ただでさえ普通の獅子より一回り大きな体は、一歩を進むたびに更なる巨大化を遂げた。

 咆哮。

 天を裂き、地を割らんばかりの衝撃は、戦端を開くための嚆矢こうしだ。


 防壁の上で戦闘の準備をしていた兵士達は唖然として、猛烈な勢いで突撃する影の軍勢を見送る。

 彼らが正気を取り戻し、わずかな見張りを残して街の激戦区へと駆け出すには、多少の時間を要した。


 そして今、黒き獣の牙が、矮小わいしょうな怪物達を真正面から食い破っていく。

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