4-15.暗躍

 朝靄に煙る香の街。

 しっとりと露に肌を濡らした冒険者達の静かな喧騒――そんな日常の光景は無惨にも打ち砕かれ、カレヴァンは暗黒と悲嘆の深淵にあった。

 街の中央部に突如として開いた大穴から黒霧が噴き出たかと思うと、その中から無数の怪物が出現したのだ。本来は《空の森》にのみ棲息する昆虫型の魔物は無差別に人間を襲い始め、物量と神出鬼没さで瞬く間に冒険者の街を圧倒してしまった。


 敵は手強いものではなかったが、霧によって際限なく湧き続けている。

 魑魅魍魎の跋扈ばっこし、人々の慟哭どうこくが響く場所を、人はこう呼称するだろう。

 《魔領域》、と。


「私のせいですね」


 惨劇を見下ろす空で、巨大な鳥が旋回している。

 地下からの脱出を果たしたノーラは、開拓者シャルロッテの使い魔の脚にしがみついたまま、かすかな呟きを風の中に零した。


「そんなことは……」

「薮蛇だったのは確かだよね」


 ノーラと同じく鳥に身を預けているリュークに先んじて、シャルの声が飄々ひょうひょうと言う。


「でも、ほっといてもその蛇は死なないし、獲物を見逃したりしない。いつかこうなってたよ。遠い未来か、今かの違いでしかない」


 慰めでもなければ、責め苦でもない。ただの事実を述べたという口調は、リュークに反射的な嫌悪感と戦慄を与えた。

 どれだけ多くの命を手にかければ、こんな考えに至るのだろうか。自分にかかわりのない命は平等に無価値だと断じているような、あまりに冷たい言い草だ。

 だが、とリュークは思う。

 壊れた者達でなければ、社会に深く根ざしている魔領域をすべて殺し、人間文明を壊滅させてでも世界を救うなどということをできはしないだろう。


「しかし、私がいなければ、今のカレヴァンの住人が危険に晒されることはなかったのに」

「ぐちぐちうるさいなぁ。そんなに気になるなら、あんたが……」


 なおも気落ちを隠せないノーラに語気を荒げたシャルは、ふと奇妙なところで言葉を切った。


「シャルさん?」


 問いかけにも、すぐに答えはない。かすかに感じるのは剣呑な気配だ。

 少しの間を空けて、黒鳥の嘴は緊張を帯びたシャルの声を零す。


「……客がきた。地上に送るから、あとは自力で頑張って」


 疑問を差し挟む暇も与えられない。知性を宿していた鳥の眼は虚ろなものに変わり、安定していた飛行姿勢が荒々しくなる。


「きゃっ」

「エリー、掴まれ!」


 危うく転落しかけたノーラを片腕で抱き、リュークは必死に鳥の脚にしがみついた。

 直後、けたたましい咆哮の尾を引いて、巨鳥は急降下を始める。

 内臓の縮む感覚に抗いながら、リュークは目を凝らした。侵されつつある街と、悲鳴を上げて逃げ惑う人々。

 そして、その中で戦い続ける数少ない人影。

 衝撃が魔物ごと霧を吹き飛ばし、絶望の景色に一筋の間隙が生じる。露わになったのは漆黒の得物と、暁光ぎょうこうの煌めきだ。


「アリア!」


 霞む視界の先に見知った姿を認め、リュークは声を上げる。

 住民達を誘導しながら、襲いくる魔物をすさまじい勢いで蹴散らしている少女が、そこにいた。


 彼女は空から急接近する鳥に気づいて警戒していたが、鳥がシャルの使い魔であることと、知己の二人が掴まっていることを知って安堵した。

 巨鳥はアリアが切り開いた霧の隙間を目がけて滑空すると、大きな翼を打ち広げて静かに着地する。

 脚の震えを堪えて地面に下りたノーラは、アリアの容姿に目を見張った。かつては夜の黒に染まっていた髪の色から表情まで、まるで別人のように変化している。しかし現状の深刻さに比べれば些細な問題だと頭を振った。


「アリア、状況は?」

「地面が揺れたと思ったら、急に魔物が出てきたの。私とスバルは隠れ家に身を潜めてたんだけど、住民を放っては置けなくて……」


 ひどいお人好しだ、とリュークは苦笑した。アリアにとっては自らを迫害してきた連中であるカレヴァンの人間を、手が届く場所にいるならば守らずにはいられなかったのだろう。

 そのとき、悲鳴と轟音が聞こえた。

 通りの曲がり角から現れたのは、スバルだ。肩に大人を担ぎ、小脇に子供を抱えて疾駆している。彼を追いかけるのは複数の魔物だ。


「スバルさん、後ろです!」


 ノーラは警句と同時に銃を抜いたが、杞憂だったと直後に思い知る。なんの前兆もなく石畳がめくれ、岩の槍が飛び出したのだ。魔物は下から上までを一気に刺し貫かれ、不気味に蠢きながら絶命していく。疾走を止めないまま、スバルが魔法を行使したのだ。

 駆け戻ってきたスバルは二人との再会を喜ぶ暇もなく、言葉短ことばみじかに告げた。


「この辺りでは最後の生き残りだ。ついでに魔物も掃除してきた。一旦、避難場所に行こう」

「待って!」


 淡々とした話しぶりに、スバルの担いでいた女性が悲鳴を上げる。


「夫を助けてください! 私と娘のために魔物と戦っていたんです」

「見つけたが、死んでた」


 返答はあまりにも簡潔だった。言葉にならない慟哭が、かすかに振る雨の中に紛れて消える。

 酷薄な物言いにノーラが抗議を差し挟もうとするが、その前にスバルは静かに言った。


「あんたの旦那が魔物を引きつけたから、あんたと娘は助かったんだ。まずは生き延びることを考えろ。まだ危険な状況には変わりないからな」


 ぎこちなくはあったが、スバルには珍しい優しい口調だ。他人を気遣う言葉が彼から出てきたことも、少なからずアリアらを驚かせる。


 アリアが守っていた教会に入ると、人々の叫びと嘆きからなる喧騒が押し寄せてきた。

 事態の深刻さは、あえて誰かに問うまでもなく理解できる。鼻をつく血臭、泣き声、呻き、そして手当ての甲斐なく息絶えてしまった人の亡骸。シスターや神父、医療の心得を持つ者が慌しく行き交っている。荒事の中で生きたスバルらにとっては馴染みのある光景だが、冒険者の街とはいえ、一般人には地獄絵図以外のなにものでもない。人々の心を救ってきただろう神の偶像も今は無力に立ち尽くすだけだ。

 娘、という単語が現実に返らせたのか、スバルの連れてきた母親はもう悲劇に浸ることはなかった。決して平常ではないだろうが、母子は人ごみの中に紛れていく。


「で、どうなってるんだ、これは」


 混乱を遠巻きに眺めながら、スバルが口火を切った。

 話し振りも態度も、以前と変わらない。だが空からきた二人はそこに小さな違和感を覚える。悪くない、むしろ好ましい違和感だ。彼の変化を興味深く思いつつも、リュークは地下の出来事を端的に説明した。


「魔族だ。街の地下で眠っていた神話の怪物が目覚めた。俺達は危ういところでシャルに助け出されたところさ」

「地下だと? ……なんだ、俺達が魔領域まで出向いたのは無駄だったってわけか」

「いいえ、そうとも言えません。あなた方が森で派手に暴れたおかげで、この街に巣食う魔族の僕をあぶり出せたんです。それに今は多くの冒険者がカレヴァンに辿り着きました。彼らも各々戦っているはずです」


 カレヴァン周囲で起きている大変動。開拓者による魔領域への攻勢によってあぶれた冒険者達が、カレヴァンに流れ込んできている。仮にスバルが早期に魔族を見つけ出し、目覚めさせてしまっていたら、戦況は今以上に厳しくなっていただろう。


(シャルはなにをやっている? 影の魔物を見かけたが、動きに精彩を欠いていたように思う)


 そのとき、空気を震わせない思念が四人に届いた。

 リュークとノーラは驚愕の面持ちで顔を見合わせたが、すぐに気づく。声の持ち主の雰囲気は知っているものだったからだ。


「今のは、私の魔剣。前にあなた達と会っていたのは、このクローディアスなの」


 アリアは黒い魔剣を掲げ、二人に示して見せた。黒曜石のような輝きは以前よりも強く、気を狂わせかねない魔性を湛えている。

 まさにクローディアスがアリア本人に変わる瞬間を目撃していたリュークは、その事実をすんなりと受け入れることができた。まだ困惑の中にいるノーラに代わって、空で起きた出来事を語る。


「ついさっきまで俺達と話していたが、客がきた、と言ってそれきりだ」

「たぶん、襲撃を受けて交戦中だな。あいつが地力で切り抜けるのを待つしかない」


 シャルの異能はこういった広域の戦場でこそ威力を発揮する。現状でも彼女の異能がぎりぎりのところで魔物を防いでいるが、シャルが本来の力を振るっていれば押し返していてもおかしくはないはずだった。魔族もそれを見越して妨害していたのだろう。

 いずれにせよ、とスバルは髪をかきむしった。邪魔な敵を優先して攻撃するほどの知恵を持つような相手ならば、戦いを長引かせても勝ち目は薄い。


「魔族はどこだ?」

「街の中央区に大穴が空いています。黒い霧が立ち昇っているので見つけるのは容易でしょう。……行くのですね」

「あぁ。そのためにきた」


 腰に佩いた剣に手を伸ばし、スバルは頷いた。

 決然とした表情は、すぐに驚愕と憂慮の色に染まる。まさに身を翻そうとした瞬間に、アリアが詰め寄ってきたからだ。


「私も行く」


 許可を得るためでも、問いかけですらもない。それは、これから自分がする行動を宣言しただけの言葉だった。

 スバルは即答できない。勝手に始めた戦いに、傷ついた少女を巻き込むことを決断できなかった。躊躇ちゅうちょするところに聞こえてきたのは、鼓膜を通さずに届く含み笑いだ。


(認めておけ、スバル。放っておいたら、この娘は貴様を追い越して先に行きかねんぞ)


 クローディアスの言うとおり、魔剣の力を完全に自らのものとしたアリアの能力は、スバルをすら凌駕している。

 スバルを真っ向から見つめる黄金の光は、おそろしいほどにかたくなだった。彼女の相棒の警告は決して大袈裟ではない。

 こうなる予感はしていた、とスバルは苦笑する。

 そして、小さく頷いた。

 以前ならば受け入れなかっただろうと、アリアとクロ、スバル自身も感じている。だが今は違う。アリアは力と意思を示し、スバルの心に変化を与えた。隣で共に戦う仲間として、互いを認めたのだ。


「危険な相手だ。俺も加勢しよう」

「お前は駄目だ」


 当然のように協力を申し出たリュークは、予想外の拒絶に目を白黒させる。

 スバルはおもむろに、白鎧の肩を軽く小突こづいた。それほど強く押したわけではないが、ぐらりと身体が揺れる。


「疲れ切ってるじゃないか。無理するな」

「そんなこと言ってる場合じゃ……」


 反射的に飛び出した文句の続きを、リュークは苦い顔で飲み下した。自身の消耗は、自分自身が一番よく理解している。一日中街を駆けずり回り、最後には《風斬のアラン》や魔族と対峙したのだ。それでも実際に敵を目撃した者として声を上げずにはいられなかった。


「口惜しいが、見送るしかないみたいだな。それに、やることがないわけでもなさそうだ」

「お願い。ここには他に《空の森》下層の魔物と戦える人がいないの」


 アリアの黄金の瞳が、最優先で手当てを受けている冒険者や兵士達を見つめる。運悪く、この教会に逃げ込めたのは新米がほとんどだ。森の上層に現れるような小柄な魔物は慣れているものの、大きく頑強な魔物は荷が重い。

 憂慮に表情を曇らせるアリアに、ノーラが力強く頷いてみせる。


「ここは私達が守ります。くれぐれもお気をつけて……あれは文字通り、この世のものではありません」

(問題ない。こちらも大概だ)


 冗談めかしてクローディアスが言う。

 無論、容易に打倒できる敵でないことは理解していた。だが異能者に匹敵する魔剣の使い手と、《剣聖ソードマスター》そして《魔法使いメイガス》の血と技を受け継いだ男がいる。決して分の悪い戦いではないと思っていた。


 入ってきたばかりの扉を開き、教会の外へ出れば、どんよりとした曇りの空が待っていた。カレヴァン特有の雨雲だけではない。魔族の黒い霧が陽光を蝕んでいるのだ。

 街の中央区の上空には、黒煙のように立ち昇る黒霧が見える。その真下にいるのが――異界からの侵略者、魔族だ。

 周囲には昆虫を模した魔物達が無数に蠢いている。小柄な彼らは建物を崩すほどの力を持たず、今は手をこまねいているだけに過ぎないが、巨躯の魔物が現れればカレヴァンに点在する防衛拠点は瓦解がかいするだろう。


「暗いね」


 アリアの口から、ぽつりと感想が漏れた。心細さが滲んだ口調だ。

 しかし、それが最後の弱さだというように、もう一度空を見上げる目には眩いほどの意思が輝いていた。

 スバルは彼女の横顔を一瞥すると、自身から先に一歩を踏み出した。

 そして、決然と言う。


「すぐに晴れるさ。――行こう」


 カレヴァンの深奥に潜んでいた闇。その根源へと続く道に、二人分の足音が響き始めた。



 ◇ ◆ ◇ 



 どうやって――――と問われるたび、なんとなく、と答えてきた。

 そう言うほかなかったのだ。手の動かし方や、物の見え方を言語化できないように、シャルロッテにとってそれは当然のことだった。

 巨鳥の魔物《フレースヴェルグ》との意識の共有を放棄する。スバルとアリアのいる教会へ送るよう命令は出したので、リュークとノーラは無事合流できるだろう。


 他人への心配を一旦は忘れて、シャルロッテは頬杖をついていたテーブルから身体を起こして伸びをした。喉から絞り出された、小動物の欠伸のような声が広い空間に溶けて消える。

 高級ホテルの食堂には静寂だけが残されていた。蹴倒された椅子、床に零れて踏みにじられた料理、ぐちゃぐちゃになったテーブルクロスなど、大混乱の痕跡がむなしく横たわっている。

 自らは動かずに異能で情報収集を進められるシャルは、雨を避けられる場所として中央区付近の宿を選んだ。宿泊客の中に紛れて、影の魔物を通して皆を監視し、時には補佐をしていた。


 突如として大地が震え、街に大穴が空いたときは肝が冷えたが、シャルにとって対処が難しい状況ではない。

 現在、宿の上階には宿泊客が避難している。

 とうに全員が魔物に食い荒らされていてもおかしくはなかった。そうなっていないのは、周囲をシャルの異能が守っているからに過ぎない。

 客からすれば、窓の外で魔物同士が争っているようにしか見えないだろう。生きた心地がしないだろうが、本当に死ぬよりはマシだろうと、シャルは意に介さずに食堂で放置された料理などをつまんでは暇を潰していた。


「で?」


 ごく短い問いかけは、食堂の入り口に現れた人影に向けられている。

 フードを目深に被り、マントを着込んだ姿は、雨の多いカレヴァンでは珍しいものではない。

 妙なのは漏れ出す鬼気と、無数の魔物を従えて意識を共有しているシャルの監視網が、その人物の接近を捉えられなかった事実だ。


「君がシャルロッテ。《ヴィンゴールヴの影》と呼ばれた悪魔か」


 男の声だ。くぐもっていて、正体は明らかにならない。

 シャルは鼻を鳴らし、尊大な態度を崩さないままで椅子にふんぞり返る。


「なにそれ?」

「……君の異名だろう」

「いや、知らないし。勝手にダサい変な名前つけるのやめてくれない? なに、ヴィンゴールヴって」


 心底嫌そうな様子に頭痛を覚えたのか、闖入者は額を押さえるように芝居がかった仕草をする。零れる溜息には、自分の理解できない人種に対する呆れが滲んでいた。


「かつて君が身を寄せていた傭兵団のはずだが」

「あぁ……あれ、そんな名前だったの。どうでもいいけど」


 シャルは興味なさげに呟きながら、億劫そうに立ち上がる。

 同時に、黒い影が出現した。食堂の床、壁、天井から、魔物が生まれ出でる。


「で? 世間話しにきたわけ?」


 異能で作った怪物達に囲まれ、底冷えする声音で言い放った。

 ごう、と突風にも似た威圧が吹き荒れる。圧倒的な存在感は、歴戦の戦士や魔物すらもひざまずかせるほどだ。


 フードの男は口をつぐむ。言葉を弄して隙を見出せるほど甘い敵ではないと思い知ったのだ。

 だが静かに剣を抜く所作には確かな自信が秘められている。これだけの強大な敵を前にして、怯んだ様子は欠片もなかった。


「現状において、君が最も厄介だ。君さえいなければ、の期待を裏切った無能も、邪魔な者共も、すぐに排除できる」


 不穏な言葉に眉根を寄せながら、シャルは身構えた。彼が常人ではないと感じ取っているのだ。

 決して油断はなかった。警戒を怠ったわけでもなかった。


 だからこそ、相手の姿が瞬きの間に消失したことに、シャルは驚愕を隠せない。

 気配を感じて背後を振り返る。

 目に映ったのは翻るマントと、煌びやかな照明を弾く刃の輝きだ。


 フードが揺れ、奥に秘められた男の素顔が垣間見える。

 赤く眼を光らせた彼の名は、ジャスティン――――スバルに首をねられて絶命したはずの、カレヴァン治安維持部隊隊長だった。


「消えてもらおう」


 ジャスティンは酷薄に言い放ち、愕然とするシャルロッテに向けて剣を振り下ろした。

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