4-14.霧

 暗闇と静寂に包まれていた広間は、今は赤く猛々しい火の灯りに溢れている。淡い緑の光はエマの焼失と同時に消えてしまっていた。

 時折、焼けたまゆが落下しては音を立てて地面に激突する。それらを育む母体が消失した以上、放っておいてもすべて死に絶えるはずだった。


「まったく、冷や冷やしましたよ」


 物陰で小さくなって戦いの余波を逃れていたエレオノーラが、安堵の声と共にひょっこりと顔を出す。

 炎に巻かれたアランは黒ずんだ塊となって崩れていた。もう生命は失われ、二度と再生の気配を見せることはない。


「心配してくれたのかい?」

「そんなわけないじゃないですか。私が気にしていたのは、天井が崩落しないかってことです。生き埋めなんてごめんですよ」


 つれないなぁ、とリュークは苦笑いを零す。

 彼の首には赤い線が刻まれ、血を流していた。最後の攻防でアランがつけた傷は浅くなく、あと少しでも深ければ頚動脈に達していただろう。


「……よく追いつきましたね」


 ノーラはリュークの負傷を知りながら、渦巻く憂慮を微笑で覆い隠した。この強情な戦士には無用な心配だ。


「地下水路に君が残した目印を辿ってきた。まぁ、地面に潜っていることを突き止めるまでに時間がかかったけどね。大変だったよ」

「白々しい、どうせ雌豹めひょうの店で楽しんできたんでしょう。喉元に痕が残っていますよ」


 嘘だろう、という表情でリュークは手を伸ばす。それは心当たりがあるものの所作であり、致命的なものであると彼が気づいたときには、ノーラに氷点下まで下がった視線を向けられていた。


「別にとがめませんよ? 私が薄暗い地下を這いずってるとき、あなたがお楽しみの最中だったことなんて、怒っていませんとも」

「悪かったよ……」


 交わされる言葉には険悪さなどない。いかに裏社会の勢力が弱いカレヴァンとはいえ、闇に潜む者達が一筋縄でいかないことをノーラは知っていた。そして、その中でも雌豹がくみやすい相手であることも。だからこそリュークが、ともかく、と強引に話題を変えてきても執拗しつような追及はしなかった。


「これが、ギルの隠した秘密なのか」


 自我を失った人間の母体。薄気味悪い繭の中で息づいていた人型のなにか。

 人間が繭の中に入れられたのか、繭の中でなにかが創られたのか。この場で得られる情報だけでは真実を掴むことはできない。


「わかりません。確かなのはいくつかの中身が解き放たれているということです。異能か、それに類する力を人工的に植えつけられた者が。あなたも空の繭を見たでしょう?」

「俺が確認した限りでは、。そのうち三つの孵化は最近のようだった。既に地上で蠢いているだろう。あるいは、もう誰かと交戦しているかもしれない」


 リュークは硬い表情のまま首肯しゅこうする。今しがた対峙したように、魔族の支配を受け入れた人間は異能を凌駕するほどの力を秘めていた。

 繭のすべてがアランに匹敵する実力を備えているのだとしたら手に負えない事態だ。アランを退けられたのは、公国で最強を誇ったリュークだからこそだった。開拓者や一流の冒険者達ならまだしも、カレヴァンの戦力でどうこうできる存在ではない。


「もう少し地下を探りましょう。繭の生き残りがあるかもしれません。あんなものがいくつもあったら、一都市どころか一国すらおびやかされ……」


 言葉を中途で区切り、ノーラは絶句した。

 あるいは、それが目的なのかと思い至ったのだ。

 魔素を浴びて魔物化した尖兵の量産。

 人外の怪物を用いた侵略戦争。


 だが抗争によって混沌としたカレヴァンを平定した傑物に、それほどの野心があるだろうか。

 実際にギルと見えたことのあるノーラには、否という答えしか導き出せない。いずれ魔物の戦力を振りかざして人間社会に攻め入る気ならば、冒険者の育成事業を進めるはずがない。荒くれ者の都市としては過剰なまでの治安を保ち続ける必要などなかったはずだ。


「バートランド・ギルでないならば……誰が?」

「どうした?」


 気遣わしげな声もノーラの耳には届かない。

 違和感に気づいてしまった彼女の感覚は、人類に備わっていないはずの知覚を開くために総動員されていた。


 そして――ノーラはおもむろに振り返る。

 意図した行動ではない。だが、そうしなければならないという焦燥感があった。


 そこには、わだかまるなにかがあった。

 空中を漂うの向こう側は、緞帳どんちょうを下ろしたように見通せない。

 は光の一切を受けつけない暗黒に見える瞬間もあれば、澄み渡る蒼穹の青にも見える。遠くにあるのかと思えば、手を伸ばせば届きそうにも思えた。


 一体いつの間に現れたのだろうか。

 いや、違う。

 ノーラは目を釘付けにされたまま確信を抱いていた。は初めからそこにあったのだ。誰も、捉えられなかっただけで。


「エリー?」


 リュークが怪訝そうに名を呼ぶ。

 彼には見えていなかった。今まさに、眼前でそれが蠢いているのだというのに。そこにあると気づかなければ認識することすらできないのだ。

 扉だ、とノーラは直感する。

 尋常の世界と別の場所を繋ぐ覗き穴だ。向こう側ではなにかが緩慢な脈動を続けている。


 ノーラは息をすることすら忘れて魅入られていた。直視してはいけないと本能が警鐘を鳴らすが、指先一つ動かすことができない。

 空間に開かれた亀裂の先で、やがて一つのくらい光が灯された。ぎょろぎょろと気味悪く動き回るそれは、次第に落ち着きを取り戻していくと、ある一点で静止する。

 それは、眼だった。

 寝惚ねぼまなこをこらすように、ノーラを見つめていたのだ。


 絹を裂いたような響きが広間をつんざいた。

 絶叫が自分の喉から発せられていることを、ノーラはやけに冷静な思考で自覚する。

 一瞬でも早く逃げなければならないと思いながらも、身体が石と化したかのごとく言うことを聞かなかった。


「そこに、なにかいるんだな!」


 それとノーラの間に割って入ったのは、リュークだった。

 聖剣を抜き放ち、氷河すら両断する灼熱の斬撃を飛ばす。広範囲にわたる炎が正体不明の光を打ち据えると、衝撃が突風となって吹き荒れた。


「なんだ、あれは?」


 明確な攻撃を受けて、闇に浮かぶものは覗き穴の向こうで身動ぎを始める。

 人の五感をあざむく擬態にもほころびが生じ、リュークも遂にそれを感知していた。全身が粟立ち、背筋を悪寒が走る。


 数多あまたの修羅場を経験した戦士をして身震いを禁じえない、未知の怪物。

 この世界の法則に当てはまらない存在。

 見ているだけで、同じ空間にいるというだけで気が狂いそうになる。二人は強く歯を食い縛り、意識を侵食する狂気に耐えた。


 それは一つだけの眼で、焼き払われた繭の残骸を睥睨へいげいする。

 そして、ゆっくりと一度だけまたたいた。

 当然、言葉はない。

 人語を解するのかも、高度な知性を有しているのかも不明だ。

 だがノーラとリュークは、怪物が抱いたであろう思いを感じ取ってしまった。


 ――潮時か――と。


「リュークさん、退きましょう!」


 ノーラは掠れた声で叫び、逃走を促した。

 あれは人間の手に負えるものではない。その確信があった。


 異界の怪物は大きく蠢いたかと思うと、周囲に黒い霧を吐き出し始める。

 無秩序な霧の乱舞は、やがて目的を持った動きに変わった。複数の塊を作るようにり固まり、曖昧なもやから明瞭な姿を形作っていく。


 現れたのは、空の森に棲息する魔物だ。

 シャルが異能で呼び出すようなものではなく、実体ある魔物そのものだったのだ。

 気がつけば二人は、地下を埋め尽くさんばかりの群れに囲まれていた。


 けたたましい昆虫型の魔物の鳴き声を浴びながら、魔物の霧を生み出し続ける存在は激しく振動する。

 えている――――この世界の生物には聞き取れない声で。

 金縛りにあったように立ち尽くす二人の前で、それは亀裂の向こうから天井を仰いだ。


「伏せろ!」


 強烈なエネルギーの集中していく気配を察知し、リュークはノーラを抱き寄せて倒れ込んだ。

 怪物が放つのは、形容し難い色彩の塊だ。

 射出の衝撃が、ノーラを庇うリュークの背を通り過ぎていく。


 決して速くなく、重量感があるわけでもない。だというのにそれは固い岩盤に易々と喰らいつき、轟音を上げながら掘り進んでいった。

 岩の割れる音と揺れは、突如ぷっつりと止む。後に残されたのは天井に開いた巨大な穴だけだ。


 鼻先に触れる感触と、目をくらませる光に、リュークは穿うがたれた天を見上げた。

 いつの間に夜を明かしていたのか、広がるのは早朝の曇天。肌を濡らす水は、雨水だった。


「馬鹿な! 地上まで続いているというのか?」


 愕然とするリュークの眼前で、視界を覆い尽くさんばかりの黒い霧が、雨と交差するように上昇していく。その目的はもはや明白だった。

 だが、リュークとノーラには街の心配をする余裕などない。

 円柱の形に抉り取られた天井から岩が断続的に落下していた。落石の激しさは収まるどころか数を増し続け、周囲に伝播でんぱしていく。

 大きな破壊による崩落が始まったのだ。巨大な岩石に押し潰され、何匹もの魔物が即死している。

 魔物達は巻き添えを避けるように、脇目も振らず広間の出口へと駆けていった。


 リュークは素早く立ち上がると、自分達を踏みつけていこうとしていた魔物を斬り捨てた。

 絶望的な状況だ。

 地下には既に魔物が蔓延はびこっているだろう。かといってこの場に留まるのは自殺行為だ。

 得体の知れない怪物は霧をき散らしながら、その目をリューク達に向けていた。出方をうかがっているようにも、偶然に視線が合っただけのようにも思える。ただ言えるのは、それが友好的な存在でないということだけだ。


「リュークさん、あれを!」


 そのとき、ノーラが頭上を指して叫んだ。

 落ちてくる岩塊の中に、一つだけ鋭い動きを見せる影がある。

 黒点は雨すらも追い越して大穴を駆け下り、二人の前に勢いよく降り立った。


「掴まって!」


 影――馬車ほどもある黒い鳥型の魔物が、くちばしの間から女の声で吼える。


「君は……シャルか?」

「ぼさっとすんな! 急いで!」


 開拓者シャルロッテに急かされ、リュークはノーラを抱えながら魔物の脚に飛びついた。

 直後、シャルの使い魔は翼の一振りで離陸を始める。急激な加速を堪えながら、リュークは小さくなっていく地下の広間を見下ろしていた。

 不明瞭な影の怪物は一切の行動を見せずに佇んでいる。まるで、なすべきことをなし、また眠りについてしまったかのように。


 鼓膜を叩いていた轟音が、清々しい風切音に変化する。落ちてくる瓦礫を避けるための激しい動きも素直な直線になっていた。

 地上へ出たのだ。一日ほどの時間を暗闇で過ごしたため、曇り空の光も眼に眩しく、リュークとノーラは呻きを上げた。


「危なかったね。私が鳥を飛ばして見張ってなかったら、あんたら今頃、生き埋めだよ」

「助かったよ。で、状況はどうなってるんだい?」


 心がこもっているとは言いがたい感謝の言葉に、シャルは取り立てて反応を示さなかった。それは無関心というよりは、そんなことにこだわっている場合ではないという緊張からだ。


「端的に言って、最悪」


 想像はできていたが、いざ告げられた事実にノーラは息を詰まらせた。

 ようやく慣れ始めてきた目で街を見下ろす。カレヴァン。冒険者の拠点としては例外的なほどに栄え、安全で、豊かな街。

 都市は朝靄ではなく、邪悪な黒い霧に覆われていた。


 あちらこちらで悲鳴が起こり、破壊の響きが轟き、血の臭いが充満している。

 原因は魔物だ。魔領域《空の森》にしか現れない魔物が次々と出現し、ただ人間を殺戮するためだけに徘徊している。

 霧は場所すら選ばず無尽蔵に魔物を作り出していた。蹂躙は間違いなく、この街に生きる人が絶滅するまで続くだろう。


「あんたらがいた穴から魔物を生む霧が出てきたの。あれはなに?」

「魔族です」


 確信を持ってノーラは告げた。

 信じ難い、と未だに思っている。だが実際に目の当たりにして、別の可能性に結びつけることなどできようはずもなかった。


「魔族? 本当に? 隠された魔領域は《空の森》の地下にあるんでしょ?」

「そのはずでした。なんで気づかなかったんだろう……目覚めたのなら、庇護を得たのなら、魔族には森に留まる理由なんてなかったのに」


 かつて英雄が平定した街。魔物の跋扈する魔領域を攻略した伝説の残る都市。各国が進めている冒険者育成のモデルケースとなる重要な地域。

 栄光の陰に得体の知れない闇が潜んでいることに気づく者はいたが、遂に正体まで辿り着いた者はいなかった。――――今、この瞬間までは。

 真実を暴いてしまった探索者エレオノーラはリュークの腕の中、震えを隠せないまま静かに告げる。


「バートランド・ギルの秘匿とは……まどろむ魔族を都市の地下にかくまい、人間を滅ぼす計画の手助けをしていたことです。ここは既に魔族の影響下にありました。おそらくは何十年も以前から」

「ちょっと待ってくれよ。魔族は《悪魔の心臓》の持ち主で、魔領域そのものなんだろう。だとしたら、そんなものがいるこの街は……」


 切迫した声で、リュークが言った。これまで得られた情報が一つの線となり、おそろしい事実を導き出していく。

 ノーラは緊張の面持ちで、頷いた。


「この街は……カレヴァンは、魔領域そのものだったんです」

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