4-13.風斬と白炎
淡い光の満ちる地下を、すさまじい熱風が駆け抜ける。
壁にびっしりと敷き詰められた巨大な
まさに探索者ノーラを手にかけようとしていた《風斬のアラン》も動きを止める。が、硬直は一瞬だった。なにかが起きていることは確かでも、目の前の敵を殺すのが最優先だ。
酷薄なまでの冷静さで、片刃の曲剣を再び振り下ろす。
―― 見つけたぞ ――
アランは思念さえ帯びた強烈な殺気を浴びて、弾かれるように頭を巡らせた。
反応は、わずかに遅い。
暗闇を貫いて飛来した紅の弾丸が、咄嗟に身構えたアランを防御の上から撃ち抜いた。吹き飛ぶアランが叩きつけられた壁面が轟音と共に砕け、異形の姿を土煙が呑み込んでいく。
命を拾ったノーラは唖然としていたが、くしゃ、と妙な音に我を取り戻した。
今の衝撃で繭の一つが割れ、中に収められていたものが零れ落ちてきたのだ。
それは、人間だった。
白濁した粘液にまみれ、力ない人形のように手足を投げ出して横たわる。
動く様子はなかった。繭を破壊されてしまったためか、あるいは、生命が宿る前の器に過ぎないのか。
「趣味の悪い牧場だ」
真面目なようでいて、どこか皮肉を帯びた声。
振り返ったノーラの目に映ったのは、紅の炎を
「遅いですよ、リュークさん。二度目の遅刻です」
「君は相変わらず手厳しいな」
白鎧をまとった騎士リュークは、
動作に合わせて、赤い火花がちりちりと舞った。彼の全身は
「話は後だな。とにかく……」
なにかを言おうとしたリュークは、言葉を切って突然に
不可解な動きは、虫の羽音より小さな響きが原因だ。
今の行動がなければ、断ち割られていたのは空気ではなく喉だっただろう。
リュークはにたりと血の滴る笑みを浮かべ、瓦礫の積もった一角を
「不意討ちは暗殺者の領分だったな。さすがの腕前だ」
碧炎の瞳が睨めつける先で、岩の山が崩れていく。
その中から現れたのは、アランだ。常人ならば全身の骨が砕けて死に至っているはずが、彼の所作はまったく痛痒を感じさせない。これまでになく引き締まった面が、リュークに対する警戒心を表していた。
「お前、人間か?」
思わず、という風に零れた問いかけに、リュークは嘲りの視線で答えた。なにしろアランこそ、目は赤光を放ち、身体を昆虫の甲殻で覆った姿だ。そんな怪物ですら人間かどうかを疑ってしまうほど、リュークの鬼気は人間離れしていた。
「さぁね。自分が人間だろうが、化物だろうが、やることは同じだ」
ぶっきらぼうな回答はアランから言葉を奪う。
数秒の呆然を経て、老練の暗殺者が浮かべた表情は、憧憬だった。
「お前ほど……強くいられたなら……」
掠れた声が最後まで形になることはない。
その前に、リュークが突撃したからだ。
蹴り出した地面が抉れ、押し退けられた空気が鈍く唸った。
聖剣の一撃を、アランはすれ違うように回避する。同時に大きく後退して距離を取り、不可視の斬撃を放った。
しかしアランの剣は荒い音を上げて弾かれる。老いた面に驚愕が走った。
リュークは虚空を――否、アランの剣撃を斬り払っていた。
経験と勘から、狙われる位置を察知したのだ。
「暗殺者の攻撃は、いつでも正確だ。だからこそ読み易い」
うそぶきながら、腕で空中を薙ぐ。指先から零れた火の欠片が散弾となって暗闇に飛散した。
アランは跳ぶ。常人ではありえない跳躍で壁に飛びつき、昆虫じみた姿勢で張り付きながら、更に剣を振った。
リュークは軽やかにステップを踏み、見えない剣閃を踊るように
「遠巻きにして剣術ごっこを続けるだけかい?」
冷酷な暗殺者は攻勢を弱める。
挑発に気を害したわけではない。聖剣と打ち合ったがために得物が熱を持ち、脆くなりつつあった。
長期戦は不利。
そう悟ったアランは、壁を蹴って宙に躍り出た。
そして、そのまま滞空する。大気の振動する耳障りな音が鳴り響き始めた。
「ますます魔物じみてきたな」
背中に生じた
だが、更に一対の腕が現れたのを目の当たりにして、顔色を変えた。
人間にはありえない二対の、節くれ立った虫の腕。しかも新たな手は骨を切り出したような短剣を握っている。本来の腕もまた、腰に差したままにしていた双剣の片割れを手に取った。
剣技は腕だけで放つものではない。身体が一つしかない以上、腕が四本だろうが百本だろうが、脅威度が大きく変わることはない。
これが、アランでなければ。
どこでも自在に切り裂ける能力があれば、手数が四倍になったものと同義だ。
人類のシルエットを失った怪物は赤目をぎらつかせ、
刃を
異能が形になることはない。反撃を中断して横に飛んだ瞬間、今までリュークがいた場所を不可視の剣が両断していた。
アランは間断なく斬撃を放ちながら、リュークへの攻撃と離脱を繰り返す。
本来、暗殺者は正面からの戦闘は避けるが、冒険者を経験したアランは戦い慣れていた。一撃での致命傷は狙わず、気力と体力を削るように死角への攻撃を
骨の剣で牽制を行いながらの苛烈な連撃は、徐々に白炎の騎士を追い詰めていった。幾度となく鎧や肌を剣が掠め、炎の熱に彼自身の血が焼けて異臭を放つ。
圧倒的な優勢に立ちながら、アランに油断はない。
理由はエレオノーラだ。
彼女の命は闇から現れた騎士にかけられたといっても過言ではない。だというのに、その面が湛えているのは悲哀だ。リュークと対峙しているアランに向けられた、哀れみだった。
「彼女が気になるかい?」
頬の傷から流れる血を拭い、リュークが空中のアランに言う。尊大な声音は自らの劣勢に動揺した様子など微塵もない。
不気味な余裕を見える男。対したアランの口から零れるのは――。
「そうだな。お前を始末した後、どう殺してやろうかと考えていた」
あまりにも露骨な、挑発だった。
なぜ、そんなことを口走ったのか、アラン本人もわからずにいる。
「なんなら先にあの娘を切り刻んでもいい。可能な限りの苦痛を与えながらな。そうすれば、お前も少しは本気に……」
なおも続く温度のない声は、苛烈な熱に煽られて蒸発する。殺気という氷の刃を内包した、すさまじい炎の波だ。
リュークは
「やってみろ、虫けら」
吐き捨て、ぞんざいに剣を振る。
悠然と空で構えていたアランは、背筋を伝う冷たい感覚に従い、直前に移動を始めていた。
赤い刃が、暗闇を真っ二つに両断する。
聖剣から
その規模は人間社会で見られるものではない。自然災害に匹敵する業火が広間の湿った空気を灼熱させる。
なんとか回避を果たしたアランは、しかし第二波が眼前に迫っていること――――そして、陽炎に揺らめくリュークが第三波を放とうとしていることに気づいて愕然とした。
「ちょっと、やりすぎですよ!?」
ノーラの悲鳴も轟音にかき消される。
焔の剣撃が壁や天井を打ち据え、地下を激震させた。ぱらぱらと落ちてくる土塊が地面に当たって砕けていく。
「どうした、死神! 逃げ回るだけか!」
火花の舞い散る中、リュークの哄笑が轟き渡った。
飛び回って躱しながら、アランは眉根を寄せる。炎の斬撃は狙いが甘い。範囲は広いが、直撃の危険はなかった。リューク自身が制御しきれていないのか、敵を
あるいは別の目論見が。
思い至ったときには、既に手遅れだ。アランは広間全体が赤く照らされていることに気づき、息を呑む。
「火に群がって焼け落ちる虫は哀れなものだが……」
両腕に炎を漲らせ、リュークは
彼が放った火炎は天井や壁にぶつかると、火種もないのに燃え続けていた。
異能の火は、自然界のそれとは違う。そうでなければ閉所では酸素が枯渇し、人外と化したアランはともかくノーラは呼吸もできなくなっていたはずだ。
リュークの操る炎とは彼自身の分身にして、純粋な破壊エネルギーそのものなのだ。
そして今、この空間には彼の熱が満ち満ちている。
「あなたも、そのうちの一匹だ。《風斬のアラン》」
意図に気づいたアランは、刃を握った四本の腕を振り上げた。
そのとき、地下の暗黒に新たな光源が生まれる。
煌々と輝く塊は、人の形をしていた。
「はは――――斬ってみろよ!」
まさに、炎神の化身。
肌から髪の一本に至るまでを白炎に染めたリュークは、虚空を目がけて手を伸ばした。
広間のそこら中で燃える業火が、意思を持つように蠢く。
アランは躊躇わずに剣撃を繰り出した。異能の刃が炎塊へと変化したリュークの周囲に現れ、喰らいつく。鎧の隙間を縫った不可視の剣がリュークを切り裂き、赤い血がしぶいた。
直後、四本の腕のすべてが突如として炎上する。尋常にあらざる熱が異能を通して彼の肉体を焼き、リュークに致命傷を与える前にアランの身体が限界を迎えたのだ。
リュークは全身から血を流しながら、会心の笑みを浮かべた。
次の瞬間、紅の閃光が地下の世界を埋め尽くす。
打たれた布石、あらゆるところに放たれた炎が、リュークの意思によって噴き上がった。
灼熱はまさに虫の逃げる隙間も与えず、咄嗟に回避行動を取ったアランをも呑み込んだ。衝撃でもぎ取られた腕の残骸や翅が宙を舞い、それすらも瞬く間に焼き尽くされる。
「まだです!」
ノーラの警句が響いた。
終わった、と思われた、直後だ。
雄叫びが矢となって、炎を突き破って現れる。
アランだ。
全身を焼かれ、甲殻も砕けているというのに、再生させた翅を羽ばたかせて飛翔している。
腕の治癒は間に合わない。一本だけ残った腕に剣を携えて、リュークへと肉薄した。
交差は刹那だ。
血飛沫が
その色は黒――魔族の眷属に特有のものだ。
胴体で両断されたアランは突撃の勢いを殺せずに吹き飛び、壁面に激しく叩きつけられた。
出血量は少ない。傷口があまりの高熱で炭化してしまったのだ。
アランは腕や胴の断面に炎の
そこには、女性の姿がある。
飛刀のエマ。懐かしき同胞の、亡骸だ。
「言い残すことはあるかい?」
いつの間にか接近していたリュークは、腕に炎を纏わせながら言った。
アランはすぐには答えない。答えられる状態ではなかった。持ち上げた手は肘から崩れ落ちる。呼吸には異音が混ざり、むせた拍子に大量の黒血が吐き出された。
伝説の暗殺者にして偉大な冒険者、魔族の手下に成り下がった男の末期は、あまりに安らかな表情だ。
自分を殺す相手に対して、圧倒的な力への畏怖、賛辞、敬意――――感謝すら滲ませながら、簡潔に言った。
「ない」
「ならば、死ね」
言葉と攻撃は同時だ。
リュークの炎はアラン、そして繭の糸に埋もれたまま佇むエマを包み込む。
断末魔の叫びもなければ呪詛もない。紅蓮は静かに二人を焼き尽くしていった。
「……まるで火葬だな」
穏やかな最期の光景を見届けることもなく、リュークは踵を返した。
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