4-9.雌豹のねぐら
近年になって急激な発展を遂げたカレヴァンだが、そういった都市にありがちな歪みは比較的少ない。
色街においても同じことがいえた。薄暗さがなく清潔で、客引きに立つ娼婦、男娼もそのまま出歩ける程度の露出に留めている。深く入り込めば怪しげな薬を売る露店などがちらほら見えるが、あえて近寄らなければトラブルを回避することも容易だ。
臭気の
開拓者が出現したため街全域に警報が出されており、人通りが平常と比べて格段に減ってはいるものの、色街は普段どおりに賑わっている。
雨避けの
近道に細い路地をいくつも抜けると、やがて大きな道へ出る。人影がまばらなのは治安が悪いからではなく、むしろ逆だ。見渡せば、娼館とは思えない豪奢な門構えの建物が並び、出入りするのも身なりの整った者ばかりになる。高級な宿が
この辺りの店にもなると、庶民の稼ぎでは届かないばかりか、会員証や招待状がなければ門をくぐることすらできない。それを手に入れるには莫大な資金と豊富な人脈が必要だった。
黙って侵入しようとする不埒者があれば、屈強な用心棒に囲まれることになる。
そして、まさに今、急いでいる様子の人物が一人、最も大きな娼館の前で二人の男に道を阻まれていた。
警備の男は、言葉を発さない。
証を出すか、大人しく引き返すか、痛い目を見るか――どれかを選べと言外に
しかし外套の人物は現状を知らないかのごとく、平然と言ってみせる。
「どいてくれないか?」
暢気な台詞は失笑を買った。用心棒達は互いに目配せし、面倒くさいとばかりに片方が口を開く。
「会員証は」
「ない」
「ならば通せん」
やり取りは簡潔だった。犬を追い払うような仕草と共に、嘲笑が投げかけられる。
これが上級の娼婦に
だが彼は、そうではなかった。
緊迫した場面に不似合いな、含み笑いが雨の音に混じる。
用心棒の二人は再び顔を見合わせ、手振りで、狂ってやがる、とにやけた。そうでもなければ、叩きのめされそうな状況で笑えるはずがないと思っているのだ。
「聞き方がよくなかったかな。謝るよ」
だが彼が
全身を焼かれそうな裂帛の闘気が放たれたのだ。物理的に干渉しかねないすさまじさに、荒事慣れしている二人が揃って後退した。
「黙って通すか、永遠に黙ってから通すか、選べと言ってるんだ。その出来の悪い頭でも、これでわかるだろう」
無論、脅されたからといって大人しく道を開けるようでは門番など務まらない。彼らは狼藉を働こうとする冒険者や傭兵をも追い返す実力者だ。
しかし実力者をして、内心の恐怖を隠すことはできない。腰に提げた棍棒を取る手は、小刻みに震えていた。服の下で屈強な肉体がじっとりと冷や汗で濡れる。
初めからそのつもりだったのか、傲岸不遜な男は全身を覆う外套の中で
「待ちなさい」
まさに戦いが始まろうとした瞬間、凛とした声が響き渡る。
門の内側からだ。
用心棒は驚愕で振り返る。敵を前によそ見するなどありえないことではあるが、それだけの衝撃だった。
現れた女は、端的に言って美しかった。
「ボス、なぜここに」
「この男は危険です。安全な場所へ……」
狼狽する二人を、垂れ目がちな視線が
それだけで彼らは電撃を浴びたように立ち
「門番が失礼を。しかし、彼らは自らの任を全うしようとしただけ。許しては下さらないかしら? リューク・レヴァンス様」
ハスキーな声が、ほんのわずかだけ媚びるような響きを帯びる。その一言だけでも並の男ならば骨抜きだ。
外套の人物――リュークも例外ではなかったが、それ以上の感嘆と警戒心が男の劣情を押さえ込む。一目で素性を見抜いてきた眼力と、危険人物として指名手配されている人物を目前に平然とする胆力は尋常ではない。戦闘能力があるようには見えないが油断ならない相手だ。
「あなたは?」
「シーリーン。この娼館の代表をしておりますわ」
用心棒が口走った単語からも推測していたものの、リュークは驚愕を隠せない。
シーリーンは娼婦としてはやや年が行っているが、少なからず暴力と関わらざるを得ない商売を取り仕切るには若すぎた。なんらかの事情で店の経営権が転がり込んできたと見るのが自然なところだが、そうでないことをリュークは知っている。
「かの《
カレヴァンの裏社会を牛耳る何人かのボス、その一人が雌豹と呼ばれる女だ。貧しい家庭から娼館に売られた哀れな少女はすぐに頭角を現すと、身一つから骨肉の争いを勝ち抜いて暗黒街の頂点に君臨したのだという。
己の異名を耳にして、彼女の眼が肉食獣の鋭さを帯びる。しかしそれも刹那のことで、剣呑な雰囲気は妖艶さに取って代わられた。
「中へどうぞ。戦い通しで、お疲れでしょう?」
「……なにもかもお見通しというわけか」
リュークはほんの数時間前、カレヴァンの南門でバートランド・ギル率いる治安維持部隊と交戦していた。
どれほど優秀な情報屋を雇っていたとしても事態の把握には時間がかかる。にもかかわらず、リュークが訪れる前に戦闘の事実を知っていたとするならば、彼女は治安維持部隊がテオを初めとする開拓者を南門で待ち伏せすると事前に知っていたことになる。
昨今では情報屋といえば探索者を指すが、情報を扱う者が皆、探索者というわけではない。独自の情報網を築いているのが裏社会の人間の恐ろしいところだ。
立派な扉をくぐると、意外に上品な内装が目についた。巧妙に計算された色彩は無意識の内に情欲を刺激し、訪れた客をその気にさせる。
館の主がここにいるというのに、従業員は平常と変わらない様子で行き交っていた。カレヴァンの闇にこの人ありと囁かれる女傑の待遇としては酷すぎる。苛烈なボスであれば、全員を揃って晒し首にしてもおかしくはなかった。
「無闇に権力を誇示するような真似はしておりませんの」
怪訝そうなリュークを一瞥し、シーリーンは控え目に笑った。
「それでは、権威を失ってしまうのでは?」
答えを知りつつも、リュークはあえて問う。
もっとも、彼らが自らのボスを意識していないかといえば、否だ。注意深く見ればちらちらと視線を寄越してくる者もいる。物陰に潜んでいる気配は、護衛だろう。無防備なわけではないということは、彼女が若くして色街の頂点に君臨している事実が証明している。
案の定、シーリーンは涼しげな顔のまま言ってのけた。
「その程度で舐められるほど、甘い支配をしているつもりはありませんわ」
美しく温厚に見えるとはいえ、彼女は裏社会の人間なのだ。
むしろ、人畜無害な外見をしている者ほど、腹の内に凶悪な獣を飼っている。騎士として公国の表と裏に関わってきたリュークは、そのことを誰よりもよく知っていた。
シーリーンの後を追い、上階の奥部屋へ導かれる。
扉の向こうでは、貴族の邸宅の寝室と遜色ない豪勢な空間が待っていた。驚くほど広く、ちょっとした小物から調度の一つまで、すべてがカレヴァンで手に入る中での最上品で揃えられている。室内に踏み込めば、毛足の長い絨毯に足首まで埋まってしまった。
庶民が利用できる娼館などでは、情事のためのベッドがなんとか入るほど、という場所も多い。彼女の経営する店が桁違いのランクにあることが一目で理解できた。
シーリーンは部屋の中央に鎮座している天蓋つきの巨大なベッドに腰をかけると、大胆に足組みをしてみせる。根元が見えてしまいそうな危うさに視線が動きかけるのを、リュークは軽く息を整えることで堪えた。その葛藤も見透かしているのか、彼女は獲物を前にした肉食獣のように舌で唇を湿らせる。
「高名な白炎の騎士団長、レヴァンス様とお会いできて光栄ですわ。それで、ご用向きは?」
「女性を追っている。この街ではノーラと名乗っている、探索者だ。彼女の居場所が知りたい」
濡れた外套を脱ぎ捨て、リュークは単刀直入に言った。
娼館の利用者には冒険者も多い。彼らは
特に、《雌豹》の経営する店にはギルドの幹部クラスも訪れる。普段は固く閉ざされている彼らの口も、快楽の前に緩んでしまうことは多々あった。
「見返りは?」
シーリーンが目を細めて問う。彼女は情報屋ではなく、善人でもない。乞われて素直に人助けをする人種とは最もかけ離れた存在だ。
「ない。残念ながらね」
「素直なのはよろしいことですが、それではお話になりませんわ」
にべもなく断られるのは、想定の内だ。リュークは優雅に長い足を組み変えるシーリーンに、凄絶な笑みを見せた。裏社会のボスもかくやという、残忍で、酷薄な表情だ。
「命を救ってもらえる、という特典ではどうかな?」
なにから、とは、言わなかった。しかしシーリーンは、平静を装ったままでごくりと喉を鳴らす。
情報を差し出さねば皆殺し――――暗にそう言っているのだと、理解したのだ。
「炎神の申し子と呼ばれるに至った、数多の逸話は……やはり事実なのですね。こうして実際に目の当たりにして、確信しましたわ」
「さぁ、どうだろう。噂は所詮、噂だ」
飄々とした口調ではぐらかす美男子に、彼女の中に潜む雌豹が警戒の唸りを上げる。
そもそも指名手配中の極悪人を、裏稼業のトップに立つ人間が一対一で会うことなどありえない。
それでも彼女が自ら対応をしているのは、どう策を弄したところで、この男が自分の前に立つ未来を
リューク・レヴァンス――公国が擁する騎士団の一つ、白炎を冠する部隊にいた男は、貧民から騎士団長にまで登り詰めた最初の男として知られている。カレヴァンには名が届いていないが、地域によっては英雄と称えられるほどだ。
彼の出世街道は決して順風満帆ではなかった。むしろ、考えうる限りの、ありとあらゆる妨害が彼を襲った。しかし皮肉にも、彼が英雄と呼ばれるまでになる功績を上げたのは、貴族の謀略によって劣勢な戦場の最前線に送り込まれたときだった。
隣国から侵略され、難しい局面で二面攻撃を受けた際、リュークは片方に戦力のほとんどを割くと、わずかな護衛と共にもう一方を急襲した。
リュークの死に様を見届けるために貴族が差し向けた監視役の騎士は、その光景を炎神の再来だと
常識外れの功績、そして公国の建国に炎神が関わっていたという神話が民衆にまで浸透していた背景もあって、圧倒的な炎の力を振るった見目麗しい騎士は英雄としてまつり上げられたのだった。
「口を割らないなら、無理矢理にでも聞き出す。あなたが話さないのならば、この館にいる者全員、一人ずつ同じことをしよう」
「仮にも騎士であった御仁が、そのように
「白々しい。その程度、あなたもやってきたはず」
互いに、年齢に見合わない地位に立った人間だ。二人の覇道が綺麗なものでないことは、推察するまでもなく明白だった。
シーリーンは観念した、という風に
「私も命は惜しい。いいでしょう……と申し上げたいところですが、実際のところ、それほどの情報は入ってきておりませんの」
「確度は低くても構わない。手がかりでいい。治安維持部隊の作戦を事前に察知していたあなた達ならば、なにか知っているはずだ」
「残念ながら」
苛立ちを隠せなくなってきたリュークに、ですが、とシーリーンは続ける。
「現在、カレヴァンが三十年前の戦いに匹敵する動乱の中にあることは周知の事実。もっとも、私は当時を知りませんけれど……」
「なにが言いたい?」
「情報収集に抜かりはないということですわ。子飼いの情報屋や、私の縄張りの店から報告を上げさせております。もうじき、今日の分が届くはずですわね」
碧眼を細め、リュークは考え込むと同時に心を落ち着かせた。少々焦っていると自覚はしていたのだ。
ノーラが姿を消したのは昨晩のことだ。その正確な居場所を知っているのは治安維持部隊の人間の一握りだろう。彼らは娼館など利用している暇はないだろうから、確実な情報を得られる望みは薄い。
だが娼婦達は自らの顧客の動向には敏感だ。彼女達の抱く些細な違和感から真実に辿り着く例は公国でも珍しくなかった。
治安維持部隊が要人を匿う場所にも目星は付けられる。あと一つ、小さな手がかりがあれば動き出せるのだ。
「ならば、ここで待たせてもらう」
決定事項のように言い放つと、リュークは特徴的な白い鎧の留め具を外し、高級な絨毯に脱ぎ捨てた。
「ただ待たせるだけというわけには参りませんわ」
ふと、シーリーンが声音を変える。脳の髄まで溶けるような、甘ったるい囁きだ。
彼女はおもむろに立ち上がるとリュークに歩み寄り、鎧下に着ていた肌着に手をかけた。手際がよく、そしておそろしく扇情的な手つきで濡れた服を剥ぎ取っていく。
「ここを、どういう店だと思っていらして? 殿方を退屈させては
「まさか支配人が直々に相手をしてくれるのかい?」
からかい混じりの言葉に、雌豹は妖艶な笑みを深くする。軽く身体を揺すれば
シーリーンはリュークに密着すると、驚愕に見開かれた目を潤んだ瞳で見つめる。裸の胸板に這った指先が、怪しく蠢いた。
「本来なら、私がお相手するのは上級会員の一部に限りますが……レヴァンス様は特例ですわ」
「へぇ……それは嬉しいね」
リュークの美麗な外見とは裏腹に厳つい手が、シーリーンの細い顎を掴む。てらてらと
長い口付けのあと、まるでダンスを踊るように二人の足は同時にベッドへと向かう。どちらともなく純白のシーツに倒れ込んで邪魔な下着を放り出すと、獣の息遣いを漏らしながら絡み合った。
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