4-8.白鴉

 かぐわしい香りが、白い湯気に乗って立ち昇る。

 カップは柔らかな乳白色の陶器だ。木の食器が多く使われているカレヴァンでは高級品として取引されている。


 ノーラはティーカップを優雅に持ち上げ、濃褐色の液体を口に含んだ。かすかな吐息。再びソーサーにカップを戻すと、背もたれに軽く身体を預ける。職人の手になる見事な装飾の椅子は、小さなきしみも立てずに荷重を受け止めた。

 穏やかな憩いの一時だ。

 だが、それが長くは続かないことを彼女は知っていた。

 上質な紅茶と同じ色の瞳が扉を一瞥いちべつする。ノックもなくドアノブがひねられたのは、まさにその直後だった。


「どうです? カレヴァンで手に入る中では、最上級の茶葉を使っているのですよ」


 現れた治安維持部隊隊長のジャスティンが慇懃無礼いんぎんぶれいに話しかけてくる。この街では最強を誇り、すべての冒険者から畏怖されている男だ。

 ノーラは座したまま彼を見上げ、柔和な顔に微笑みを貼り付ける。


「素晴らしいティータイムです。紅茶のかたが劣悪であることと、窓一つもない殺風景を差し引けば、ですが」

「これは手厳しい」


 ジャスティンは苦笑いを浮かべて肩を竦めた。余裕のある仕草に思えるが、その目に剣呑な光が宿ったことをノーラは見逃さない。一見すると紳士的な容姿をした彼が、残忍で容赦のないことを知らない者はいなかった。


「だが、を選んだのはあなただ。開拓者を売ったことへの報復から逃れるため、保護を要求してきたのもね。こちらも最善を尽くしていることは理解していただきたい」


 彼の顔には、ノーラの待遇に対する不満がありありと表れている。

 昨夜、シャルロッテの監視網をかいくぐって《寝惚けた黒獅子亭》を抜け出したノーラは、治安維持部隊に保護を求めた。そして自身が公国の大貴族の娘エレオノーラであることと、指名手配をされていることを明かしたのだ。

 一介の探索者でしかなかった彼女は賓客扱いで迎え入れられ、こうして安全な場所にかくまわれている。


「もちろん、快く受け入れてくれた皆様には感謝しています。それであなたは、そのへなぜ? 北門での作戦があるのでしょう。油を売っている暇などないのでは?」


 平坦な口調で言うと、ノーラはジャスティンから目を離し、逆の方向を振り向いた。

 そこには、ジャスティンがいる。

 なにも知らなければ戸惑うだろうが、決して不思議なことではなかった。ジャスティンは空間転移の異能を持ち、一切の予備動作もなしに別の場所へ移動することができる。いかな戦士も、対峙していた敵が一瞬で消え去れば狼狽しないわけにはいかない。そして自らの失態に気づく間もなく、背後から首を切られて絶命するのだ。


 しかし、ジャスティンは明らかに驚愕していた。

 彼女は突然の空間転移にもまったく動揺していない。それどころか、転移の前から既に移動先を向き始めていた。まるで、そこにジャスティンが出現することを、あらかじめ知っていたかのように。


「俺には、距離など関係ない。実行のときが近づいたら駆けつけますよ。この通りね」

「私が心配しているのは、あなたの部下のことです。隊長不在は士気に響くでしょう」


 平静を装う様を、ノーラは嘲りもしない。だが見透かされていることを察し、ジャスティンは忌々しげに頬を歪めた。


「彼らの仕事は導火線に火をつけることだけだ。士気などあろうとなかろうと構わないさ。そして俺の役目は地下の崩落から這い上がってくるだろうスバルに止めを刺すこと……実に容易い。あなたのおかげで、一連の騒動も終わる。感謝していますよ」


 ノーラは、そうですか、と適当にあしらう。

 彼女がもたらした開拓者の情報により迅速な作戦立案が行われ、今まさに実行のときを迎えている。今頃は、南門にバートランド・ギルの擁する精鋭が集っているはずだった。


 テオとシャルロッテは、カレヴァンにスバルがいることを知らなかった。彼らのスバルへの信頼を考慮すれば、いつまでもここに滞在するとは考えにくい。

 なにより、アリアがいた。

 スバルは彼女を逃がすため、テオ達に協力を乞うだろう。


 カレヴァンを旅立つ者の多くは、最寄の街に面した南門を通る。傲岸不遜な開拓者が、逃亡のために他の門を目指すほど殊勝とは思えない。まず武力に任せた強行突破を試みるはずだった。

 強者の行動は、至極読みやすい。探索者であるノーラには、尚更だ。


「しかし、ギルド長が開拓者討伐を優先したのは意外だった。スバル……《剣聖ソードマスターリゲル》の息子を、自分の手で始末するものと思ったが」

「……えぇ、確かに」


 独り言のようなジャスティンの呟きに、ノーラは初めて理解の色を示す。

 彼女の予想でも、ギルがどちらの指揮を行うかは五分五分だった。かつて《斬り裂く刃ツェアライセン》が小さな不和を抱えていた事実は、事情通の間では広く知られている。スバルがリゲルの息子であるということをギルが皆に明かしたとき、自らの手で確執を終わらせる気なのかと誰もが考えた。


「まぁ、あちらは少なくとも開拓者が二人と……一応は《黒い剣のアリア》も戦力に数えれば、厳しい戦いになるのは確かだ。私情を除けば、当然の選択か」

「そうでしょうね。たとえ英雄ギルといえども、上手くいくとは思えませんけど」


 薄情な一言に、ジャスティンはノーラを見下ろしていた。

 彼女は情報提供の後、探索者として開拓者討伐作戦の構築にも協力している。その立役者として、あまりに酷薄な物言いだった。


「成功しない作戦を立てさせた……とでも?」

「全力を尽くしましたよ。探索者としてね。ですが作戦成功を確約したことはありません」

「一体、なにを企んでいる」


 うすっぺらい紳士の皮を脱ぎ捨て、ジャスティンはノーラに詰め寄った。伸ばした手がほっそりとした顎を掴み、無理矢理に上を向かせる。

 手入れをしていないためにみすぼらしく見えるが、理知的で整った面だ。それが無感情に見つめ返してきて、ジャスティンは背筋に悪寒が走るのを感じた。


 探索者は、冒険者の街では最も重要な職業の一つだ。ギルやジャスティンも探索者のギルドには幾度も足を運び、このノーラと名乗っていた女性を見かけたことはあった。

 だが、こんな目をする女だっただろうか。

 どこまでも透徹するような、鋭い眼光を持っていただろうか。


「能ある鷹は爪を隠す、というわけか……これだから貴族は信用できない。俺もギルド長も、一杯食わされたわけだ」


 歯噛みするジャスティンに、ノーラは微笑んだ。

 暖かみのある笑顔ではない。

 あわれみの、それだ。


「鷹は、愚かですね」

「……なに?」

「爪を隠しても、強靭なはしや翼は隠せない。わかりやすい武器を秘しただけでさかしらぶっている姿は、いっそ滑稽です」


 ノーラの姿が遠ざかる。

 否、とジャスティンは一瞬遅れて気づいた。距離を取ったのは己だ。間近にあった彼女の眼が、深紅の色彩を帯びた幻覚を見て、後退してしまったのだ。

 彼女は落ち着き払ったまま、ぬるくなった紅茶を口元に運ぶ。及第点には程遠い味に、口の端を歪めた。


「そろそろ作戦場所へ向かった方がいいでしょう。罠にかけたとはいえ、黒獅子の血を引く彼を甘く見ないことです。ご武運を」


 ジャスティンは我に返ると、荒々しく舌打ちをしてから、靴音も高く部屋の唯一の扉へ向かった。出て行く直前、振り返って吐き捨てる。


「既に公国へ使いは出した。じき迎えを寄越すだろう……あなたがなにを仕出かしたのか知らないが、楽しみにしておくことだ」


 扉から退出する男の背を見送り、ノーラは息をつく。外から鍵をかけられる響きを意にも介さず、不味い紅茶を飲み干した。


「どこまでも察しの悪い……こちらとしては好都合ですけど」


 もしノーラが犯罪者として指名手配されているのなら、今頃彼女は牢屋にでも放り込まれている。

 しかしギルは、そうはしなかった。街の支配者として世界中の情報を探っている彼は、公国での出来事にも関心を持っているに違いはない。だからこそ、異例の厚遇でノーラを受け入れたのだ。


 ノーラは軽く伸びをすると、行動を開始した。

 ジャスティンは部屋を出て、すぐに転移を発動するだろう。その直後に彼女が不穏な動きをしても気づくことはない。強力な異能も、便利なだけではないのだ。

 扉の外に見張りがいることには、かすかな物音から察している。彼らに悟られぬよう、部屋の中の数少ない調度を音もなく移動し始めた。ティーカップを脇においてテーブルを横に倒し、小さな棚を近くまで引きずってくる。ついでとばかりに椅子も運んだ。


「能ある鷹は爪を隠す、か」


 鼻歌の変わりに、ノーラは小さい声で呟く。

 まるで誰かの台詞をそらんじるように、飄々とした声音で、その面は微笑んでいた。


「白いからすは、隠さない。あまりに目立つ姿は、一部を隠したところで意味がない。しかし決して捕らえることはできない。もし捕らえたと思うのなら――――それは最期に見る幻に過ぎない」


 即席のバリケードの足元に腰を下ろすと、ノーラは緊張を解すために何度か深呼吸をする。

 そして、懐から油紙に包まれた塊を取り出した。

 中身は《サラマンドラの火石》と呼ばれる一種の鉱石を加工したものだ。《腐肉迷宮アビス》で採取できるそれは、都市アルバートがアリアの手によって壊滅した今、入手するのが非常に困難となっている。

 かつん、と火打石を叩けば、火花が導火線に乗り移った。

 ノーラは扉に向けて火石を放り投げ、耳を塞いで身体を丸くする。


 雷鳴のごとき轟音が、衝撃と爆風を伴って駆け巡った。

 火石は少しの熱で引火して爆薬に匹敵する破壊を生み出す。防御のために配置した調度が激しく振動し、倒れ、ばらばらに砕けて散らばった。


 ノーラは爆発の余韻が消え去る前に、意を決して立ち上がる。独特な刺激臭と、立ち込める粉塵。ローブの端で鼻と口を覆い、バリケードの残骸を踏み越えて走った。

 狙い通り、爆弾は鍵のかけられた扉を粉砕している。それどころか周囲の壁をも消し飛ばしていた。火石の分量を少しでも間違えていれば自分も粉微塵だったと、自身の技量に矜持きょうじを持つノーラも肝を冷やす。

 廊下に出ると、壁の残骸がうず高く積みあがっていた。

 瓦礫だけではない。その下に、二人の人間が意識を失って横たわっている。ノーラの部屋に立てられていた見張りの人員だ。


「ごめんなさい」


 届かないとわかっていながら呟いて、ノーラは素早く身をひるがした。

 無防備なところを爆発に巻き込まれた彼らは、すぐに手当てをしなければ命を落とすかもしれない。

 それでも、ノーラは振り返らなかった。


 間近で聞いた轟音による耳鳴りを堪え、爆発の影響でふらつく足を叱咤しながら、狭い通路を駆けていく。

 途中、ここにきて初めての窓を見つけた。ガラス窓ではなく、外側に屋根のついた小さな穴とでもいうべきものだ。

 向こう側に、果てしない荒野を一望できる。

 かつて、まだ空の森が生きていた頃、危険地帯で増えた魔物がカレヴァンに集団で襲いかかってくることは頻繁にあった。この窓は、それらを飛び道具で射殺すためのものだ。


 ノーラは頭を振り、先を急ぐ。

 街をぐるりと囲む外壁――大部分が空の森で採取できる木材で作られているが、兵士の移動する通路には石材が用いられていた。ノーラがいるのは、その通路だ。

 遠くから、怒号が響き届いていた。狭い一本道で囲まれれば一巻の終わりだ。


「……早く見つけないと。これが最初で最後の機会なんだから」


 カレヴァンには、不可解な点がいくつもあった。

 心臓を失ってなお生きる魔領域。街を覆う監視網。あまりにも順調すぎる発展と、未知の物質の研究。


 多くの人々は深く考えずに恩恵を享受していたが、探索者は違う。街の異質に気づいて、独自に調査を始めた者もいた。

 そして知るのだ。この街が何者かに管理されているかのような違和感と、真実を探っていた者が突如として消息を立っているいくつかの事例を。どの事件も不自然なところはなく、不慮の事故として処理されている。その自然さがなによりも恐ろしかった。

 まともではない。人間の能力で実現できる範疇はんちゅうを超えている。


 ノーラはテオドリクスと出会い、彼の話を聞いたことで、人知を超えた存在が間近にいることを悟った。

 魔法、異能、あるいはもっと別のなにか。

 空の森。秘匿された魔領域。《悪魔の心臓》と呼ばれる核――――神話の怪物、魔族。様々な点が繋がっていくことに気づき、ノーラの肌は粟立あわだった。


 階段を見つけ、一も二もなく駆け下りる。外壁には常時見張りが配置されているが、空の森が死んでから周囲の危険地帯では魔物が弱体化しており、徒党を組んで襲撃してきた例もない。それほどの人数がいないことは既に把握していた。

 目指すは階下。そして、更に下だ。


 バートランド・ギルが支配者と君臨してから三十年以上が経過している。それだけの時間をかけても、カレヴァンの支配を暴くことはできなかった。

 文献で調べられる範囲に真実はない。

 そのことを知ったとき、ノーラは一つの可能性に突き当たっていた。


「見つけた」


 肩で息をするノーラは、かすかに流れてくる冷たい空気に笑みを零した。

 石畳の床にはめられた格子状の蓋に掴みかかり、渾身の力で引き上げる。長い間、一度も開けられていなかったのか、その作業は女性の力では困難を極めた。

 幸いにも鍵などはかけられていない。ぎりぎり、と砂利の擦れる響きを上げながら、やがて蓋は力尽きたように外れて転がった。


 雨の多いカレヴァンにおいて、地下への入り口が示す意味とは一つ。雨水や生活排水を地下水脈へ流すための、水路だ。

 カレヴァンは若く先進的な街として、ほぼすべての情報を管理、公開している。

 例外は、街の下に蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた水路だ。

 数百年の歴史を持つ水路の資料は、数十年前に勃発したギルド間の抗争によって散逸している。主要な部分の再利用と、新たに掘り進めた水路で現在のカレヴァンは成り立っていた。それ以外の区画は危険なのだとして封鎖されている。


 今現在のカレヴァンにおいて、闇があるとするならば旧地下水路の他にはない。

 そしてほとんどが埋められてしまった入り口で、まだ潰されずに残っている数少ない場所が、普段は一般人の立ち入りが禁止されている城壁の内部だったのだ。


 街の戦力は開拓者の討伐に費やされている。バートランド・ギル、ジャスティン、そしておそらくは人智を超えた謎の力も。そういう風に仕向けたのだから、当然だ。

 ここまで忍び込むことが可能で、かつ実力者を他の場所に釘付けにできる機会は、今を逃せば二度とこない。


 《鴉の眼》と呼ばれる超感覚が鳴らす警鐘を、ノーラは不吉な笑みで受け止めた。

 躊躇なく水路の底へ続く梯子に足をかける。湿った埃で滑らないよう、一歩一歩を踏みしめていく。

 この先は、ほとんど無策だ。

 なにが待ち受けているのか検討もつかない。護身術程度の戦闘能力しか持たない自分では、核心に近づけたとしても、それを暴くことはできないとノーラは知っている。

 光明は、ただ一つ。灼熱の聖剣が放つ赤光が、瞼の裏に蘇った。


 リューク・レヴァンス。公国の騎士は追跡のプロフェッショナルであり、こうした都市における立ち回りの巧みさでも右に出るものはいない。

 情報を扱うのは探索者だけではないと、彼も知悉しているはずだ。

 いずれ後を追ってくると信じていたが、彼女の表情はいまいち冴えない。


「心配だなぁ……あの人、助平だから」


 水の流れる音が近づいてくる。ノーラは梯子から降りると、懐から小さなランプを取り出した。

 火をつけると、淡い炎の光に薄気味悪い空間が照らし出される。どこまでも続く深淵だ。

 ノーラは方角と街の地図を頭の中に思い浮かべ、よし、と気合を入れると、白いローブをはためかせながら歩き出した。

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