4-7.鉈の意味
薄暗闇の静寂に、遠い雨音が躍る。
動乱のカレヴァンに夜が訪れつつあった。この一日で治安維持部隊の戦力は大打撃を被ったはずだが、それでも冒険者の天国と呼ばれる都市に、力と欲を持て余した戦士はごまんといる。いずれ再び戦いが始まるだろう。
だが、長々と続ける気は、もとよりスバルにはなかった。武器を手に取り、座していた椅子からおもむろに立ち上がる。
(どこへ行くつもりだ)
瞬間、頭の中に直接響くように非難の声が突き刺さった。
ベッドで
スバルは苦笑いを浮かべながら窓際に近寄り、外を慎重に覗き見た。ここに二人が潜んでいることを悟られぬよう、室内に明かりは灯していない。しかし魔族の血を引くスバルの黒瞳は闇の向こうを見通し、まだ隠れ家を敵に知られていないことを確認する。
「
(アリアのためなら、小姑にもなるさ)
「俺なんか必要ないだろ。彼女にはそれだけの力がある」
壁に寄りかかるスバルの面は、暗がりの中でもなお陰りを帯びていた。剣を持つ手が、落ち着かない様子で鞘の意匠をなぞっている。
(それを決めるのは私ではないし、ましてや貴様でもない)
クローディアスの返答に、スバルは深く溜息を吐く。
彼の吐息が、呆れや嫌悪のものならば、意思ある魔剣がここまで食い下がることはなかった。
しかしスバルの冴えない表情に色濃く表れているのは、自嘲、塊根、
(教えてくれないか、スバル。一体、貴様の身になにが起きたというのだ? なぜ人に頼り、頼られることを忌避する)
「そんなことを知って、どうする気だよ」
(どうもしない。ただの興味本位だ)
あっけらかんとした文句にスバルは小さく噴き出す。多分に苦みを含んだ顔だったが、険しさが少しだけ緩んでいた。
「大した話じゃない。お前らと同じだ。調子に乗って痛い目を見て、
平坦な口調で言い放つと、足元に置いていた酒瓶を取って
短い静けさが舞い降りる。
決して気持ちの良くない沈黙だ。
スバルは髪をかきむしって舌打ちをする。飲んだ酒が好みの味ではなかったというだけではない、苛立ちの発露だった。
「黙ったまま物を語るのをやめろ。剣のくせに」
(わかっているのなら、とっとと吐け。第一、貴様はアリアの過去を聞いただろう。自分だけ他人の秘密を知っていることに引け目を感じないのか?)
実のところ、クローディアスは問われてアリアの過去を話したわけではないのだから、スバルが負い目を感じる必要などない。
だが、彼が変なところで律儀なことをクローディアスは
「……わかったよ。つまらない話だぞ」
一呼吸を置くスバルの表情は、身を裂かれた以上の痛みに歪んでいる。そして苦痛を噛み砕くような声音で切り出した。
「一人で冒険者をするようになって、すぐのことだ。俺は父親からカレヴァンの秘匿のことを聞いて、帝国領からここへと向かっていた。アンテロに入ったのは、その道中のことだ」
語られた国名を、クローディアスは知っていた。
決して大きくはないが、
軍神に祝福されたとさえ称えられるアンテロに陰りが見えたのは、ここ数十年の話だ。なにがきっかけとなったものか、貴族達に傲慢な振る舞いが目立ち始めた。汚職が横行し、下流階級への搾取が日に日にひどくなり、国力が徐々に低下していたのだ。
スバルが足を踏み入れたのは、トラブルを招く男にとって、最悪といっていい舞台だった。
「最初に訪れた街で、噂が大袈裟じゃなかったことを知ったよ。それから、まぁ色々あって……俺はお尋ね者になった」
(想像がつくな)
もしもクローディアスが人間の身体を持っていたなら、乾いた笑いを漏らしていただろう。上流階級の横暴に直面したスバルの行動など、考えるまでもなかった。
「
(そんな依頼を受けたというのか?)
クローディアスは少なからず驚愕していた。
スバルは正義感に駆られて暴走するような男ではない。縁もゆかりもない連中の用心棒を務めるようには思えなかった。
「前のパーティはギルドと距離を置いていたし、他人と組んだことは一度もなかった。必要とされたことが……気のいい奴らと対等な関係を築くことが、新鮮だったんだ。今思えば、浮かれていたんだろうな」
スバルは半面を掌で覆い、俯いた。無理に吊り上げた口の端が、小さく震えている。
「失敗続きだった組織の作戦を、いくつか成功させた。捕まっていた幹部の救出も、破壊工作も、暗殺の手伝いすらした……すべて無駄だとも知らずにな」
(なぜ、無駄だったのだ)
「反政府組織自体が茶番だったからさ。幹部の半分は貴族が差し向けたスパイだった。腐ってはいたが、連中は馬鹿じゃない。平民の反感が一線を超えたとき、自分の身が危うくなることを理解していた。だから弱小の反体制派を乗っ取って、庶民のガス抜きに利用したんだ。突然の快進撃は奴らにとって都合が悪かった」
だが、とスバルは、更に続ける。
険しかった表情は、いつの間にか凪いでいた。
そこにあるのは平穏ではない。
ぞっとするほどの空虚さ、そして諦観だった。
「本当につらかったのは、そんなことじゃない。今後の情勢を左右する大きな作戦に
(貴様ならば、軍が相手だろうとただの人間に
スバルの戦闘能力は常軌を逸している。英雄と称えられるほどの戦士で、ようやくまともに対峙できるといったところだ。少なくとも自分だけ逃げることに苦労はしないはずだった。
スバルは答えない。ただ静かに、囁くように言った。
「皆、剣を抜いた――――俺に向けてな。軍も、反政府組織の連中も、全員、この俺にだ」
クローディアスは言葉を失い、沈黙の中で都市アルバートの出来事を思い出していた。
苦境に立たされたアリアが頼ろうとした冒険者ギルドは、既に傭兵組織が買収した後だった。
なにもかもが、初めから敵だったと知ったときの絶望感と憤怒は、忘れられようはずもない。
「誰も解放なんて望んじゃいなかった。いや、最初は本気で志していたかもしれない。だがいざ実現が見えたところで目が覚めたのさ。革命が成功したところで、国家を運営できる手腕なんてないと彼らが一番よく知っていた。革命ごっこで満足していた彼らは、貴族を脅かしてしまったことに恐怖した。だから秘密裏に貴族と接触して許しを
(それから……どうした?)
聞くまでもないことだとクローディアスはわかっている。しかし、ここまで語らせた以上、最後まで聞かねばならないと義務感を覚えていた。
スバルは、掠れた声で続ける。
「殺した。敵は、すべて」
(そう、だろうな。当然のことだ)
「軍は消耗し、反政府組織は幹部の全員を失って壊滅した。あとは、大混乱だ。俺は追っ手を返り討ちにしながらアンテロを出た。どうやらスパイは貴族だけじゃなく、他国も送り込んでいたようだな。動乱につけこんだ侵攻が始まったと風の噂に聞いたよ。……これがすべてだ。調子に乗った馬鹿が限度も知らずに引っ
口早に締めくくると、スバルは酒瓶を傾けて中身を胃袋に流し込んだ。好まない味だったことを飲んでから思い出して、空瓶を無造作に投げ捨てる。
それから、苦いままの表情に笑みを加えて、静かに言った。
「親父や母さんが人との関わりを過剰なまでに避けてた理由を、そこでようやく思い知ったんだ。……聞き耳立てるほど、大した話じゃなかっただろ」
穏やかな呼吸の音が、わずかに乱れた。
スバルの視線は、横たわるアリアに向いている。彼女が目を覚ましていることには、随分前から気がついていた。
アリアは観念すると、決まりが悪そうな緩慢な動きで身体を起こす。
「いつから聞いてたんだ?」
「クロの、どこへ行くつもりだ、から」
(最初からではないか)
ベッドの淵に腰をかけたアリアは、いたずらを
「今の話は、あなたが《空の森》の魔族を殺そうとしていることと、繋がっているの?」
「どうしてそう思う?」
「なんとなく」
スバルは虚をつかれた面持ちで黙り込んだ。的外れなことを言われて困惑しているというより、むしろ自らの知らない部分を暴かれて呆然としていた。
やがて、彼は獰猛に歯を剥いて笑う。
しかし、それが本心と異なる仮面であることを、激動の日々を共にしたアリア達は気づいていた。
「見せつけてやりたくなった、のかもしれない。俺の父親を……リゲルを排除して、ハッピーエンドの後日談を送っているつもりの連中に、数十年越しのバッドエンドをな」
黒い剣とその主は、驚愕のあまりに絶句する。同時に、スバルの異質な戦闘能力に背景が見えたことで納得もしていた。
カレヴァンにおいて、リゲルという名前が指す人物は《
最強の剣士は、戦う場を求めてカレヴァンを去ったと言われている。もし彼が、スバルの話すとおりにギルの策謀で街を追われたのだとしたら、今のスバルやアリアに酷似した境遇といえた。
似ているからこそ、アリアにはスバルにかけるべき言葉が見つからない。傷ついた心を癒す術など存在しないと、痛いほど理解しているからだ。
安っぽい台詞で救われるのならば、彼女が死を甘んじて受け入れようとすることもなかった。
共に行動することがスバルの負担となるならば――アリアには、そのために再び孤独の道へ戻る覚悟さえ生まれている。クローディアスは決して望まない未来だ。いずれ、またアリアが損なわれ、死に瀕する結末がやってくるのは
「……聞きたいことがある。クローディアスじゃなく、お前自身に」
「私に……?」
室内に沈痛な空気が満ち始める中で、ふとスバルが口を開ける。
あるいは、それはスバルが初めて見せた、アリアへの強い関心だったかもしれなかった。
「一体、どうして目を覚ましたんだ。俺達に居場所なんてないって、本当は気づいていたんだろ。そんなものまで受け取って……どうして、まだ戦い続けようと思ったんだ?」
憂いを帯びた黒い瞳は、アリアの首に下げられた装飾に向いていた。
《切り拓く剣》――――すべてを滅ぼす逸話の、開拓者が持つという証。テオにそれを授けられたアリアは、今やスバルらと同じ、忌み嫌われる疫病神だ。
これからの未来は、これまでよりも苛烈に彼女を追い詰めるだろう。
だがアリアは目覚めた。剣を手にした、その瞬間に。一度は死を受け入れた少女が立ち上がるきっかけとしては妙だと、スバルには腑に落ちなかった。
薄暗闇の中、細く白い指が《切り拓く剣》を握り締める。擦れ合う二つが、不吉な響きで鳴いた。
なぜ開拓者の証が剣と鉈なのか、アリアは今まさに理解する。
剣は敵を倒す力の象徴。
そして鉈は、道なき道を行く運命を背負った者達の、それでもなお歩き続けたいという祈りの象徴なのだ。
「……ずっと逃げたかった。ただ冒険者として生きたいだけだった。人を傷つけたくないと願って、それが無理だと気づいてしまったから、私は死にたいと思った」
スバルのような、諦観の空虚ではない。血に塗れても道を切り拓くと覚悟した、開拓者の表情だ。
「でもテオの話を聞いたとき、別の道があるかもしれないと考えたの。彼は恐ろしそうな話し方をしていたけれど……」
「あいつの話で、そんな感心するところがあったか? なぁ」
(いや、特には……)
心から懐疑的なスバルとクローディアスの様子に小さく笑いながら、アリアは続ける。
「私は戦うことを避けられないんだと思う。ただ生きたいと願うだけで、大勢の人を殺してきたし、これからも殺すことになる。だからこそ、せめて奪う以上の命を救いたい。魔領域を滅ぼして、魔族から世界を守ることで」
言葉を区切り、アリアは俯いていた顔を上げる。黄金色の双眸が暗闇を貫くように煌めいて、眩しさにスバルは息を呑んだ。
「たとえ、そのために今を生きる人々と殺し合うことになっても……あらゆる歴史に大罪人として名を残すことになっても」
スバルにとっては、理解しがたい結論だった。
最も大切なものとは、自分自身だ。そのために他のなにかを犠牲にすることを躊躇う理由などない。
命のやり取りをするのが当然で、魔族を殺して人類を救うというテオの話にも心が動かなかった。それほどスバルは他人を好きになれなかった。
だが、アリアの決然とした言葉が、どこかに響いたことは確かだ。
「……えぇ……馬鹿じゃないの……」
そして、彼女の決意が届いたのはスバルにだけではない。
不意に聞こえてきた声に、二人は最大の警戒心を持って身構えた。それはあまりにも近く、しかも気配をまったく察することができなかったからだ。
二対の眼は、同じ場所を捉えている。ベッド脇に置かれたテーブルの上だ。
しかしまさか、そこにいる小さな黒い蜘蛛が喋ったのだと、常人では理解することはできないだろう。
「お前、シャルか?」
影の使い魔を操る彼女の名をスバルが問うと、蜘蛛は前脚を掲げて挨拶してみせる。
「盗み聞きかよ」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? わざわざ声をかけるほどでもないと思っただけ。あんまりにも馬鹿馬鹿しい話が聞こえてきて、つい喋っちゃったけど」
(アリアの決意を、嘲るか)
空気を通さない声なき声が、硬い響きでシャルロッテを威嚇する。蜘蛛は不思議な感覚に戸惑った様子だったが、一瞬のことだ。余裕を取り戻した尊大な言葉が、すぐに返ってくる。
「生きるために殺し、守るために殺し、奪うために殺し、時に意味もなく殺す――――それが生き物の宿命でしょ。他人の生き死にをいちいち気にしてたら息もしてらんないよ」
「それでも」
アリアの目は蜘蛛を、その向こうにあるシャルの顔をまっすぐに見すえた。
「私は、誰かのために道を切り拓きたい。自分のためだけじゃなく」
「……好きにすれば」
シャルにしては珍しく歯切れが悪かった。若い冒険者が抱きがちな夢とは違う本物の意志を感じて、思わず
蜘蛛はテーブルを踏み鳴らすと、丁度いい、と取り
「ついでに伝えておくけど、あんた達、もうちょっとここで休んでて。面倒なことになってるの」
「なにかあったのか?」
「リュークとテオ、どっちも現在位置を見失ってる。探してるけど見つからない」
それは端的にして、厄介な状況にあることを知らせるには十分な言葉だった。
シャルは無数の使い魔を無制限に生み、そのすべてから情報を得ることができる。彼女の異能を持ってしても場所を特定できないのは、決して偶然ではないはずだった。
「二人ともノーラを追ってるはずだから、奴らと交戦したのは確実。たぶん無事なんだろうけど、テオが嫌な予感がするって言ってた。あいつの勘は当たるからね」
「シャルは、どうするの? 今どこに?」
「中央区の辺りで、情報収集してる。なにかあったらすぐに連絡するから待ってて。じゃあね」
一方的に伝令を終えると、蜘蛛は溶けるように消えてなくなる。もっとも、それは会話を続ける気はないという意思表示で、他の使い魔が別の場所からスバル達を見張っていると思われた。
「まぁ、あんまり真に受けるなよ。ちょっと
スバルは、聞いた本人が憤慨するようなことをさらりと言うと、背にしていた壁からゆっくりと身体を離した。
心配そうなアリアの顔を見下ろし、スバルは微笑む。
「まだ時間があるみたいだから、俺も休むよ。もう一人で出て行ったりはしないから、信用してくれ」
言い残して、彼の姿は扉の向こうへと消えていった。
その後姿を見送ってから、アリアは深々と息を吐く。両手で顔を覆い、先程までの
「呆れられちゃったかなぁ……」
(どうだろうな)
言葉の内容とは反対に、クローディアスは軽い調子で言った。
アリアは気づいていなかったが、スバルの
彼は戦うしかないから、ただ剣を振るっていた。志を抱き始めたアリアに思うところがあるのだろう、とクローディアスは推測している。無論、それを直接アリアに教えるのは野暮だと知っていた。
(とにかく、今は潜伏の時期だ。テオではないが、私もなにか妙な気配を感じてならない。動かねばならないときがくるはずだ)
アリアは殊勝に頷くと、またベッドに身体を横たえた。スバルから出て行かないと言質は取っているので、今度こそ安心して眠ることができる。
閉じた瞼の裏に映るのは、この街で出会った二人の姿だった。打算とはいえ、何度も命を救ってくれた事実には感謝している。
特に、ノーラという探索者だ。
穏やかなようでいて、どこか遠くを見つめるような目。テオドリクスに匹敵するか、あるいはそれ以上に底知れないなにかを感じていた。
おそらく――――。アリアは、そしてクローディアスも思う。
予感が現実となってカレヴァンを覆い始めるまでに、それほどの時間はかからなかった。
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